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がらんどうと私  作者:
第1章 死に損ない男
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 カランとの攻防は結局宙に浮いたままなし崩し的に終わることとなった。

 そんな中でも見張りの任を解くのは撤回する、という言質は抜け目なく取られてしまったのだが、すると今度はどうしてそこまで拘るのだろうと新たな疑問が浮かんでくる。怠ける理由を想像するのは簡単だ。面倒だったとか他にすることがあったとか、精々そんなことだろう。だが進んでやりたがる理由となるとどうか? 実は人にこき使われることに喜びを感じるのだとか言われてしまったらどうしよう。

 これ以上想像を膨らませるべきではないな。ただでさえカランとの認識のずれについても解決できていないままなのに頭の痛くなるようなことばかり。


 私は実際のところ己の従者について然程よく知っているわけではないのだろう。知る必要はないと思っていたし向こうから打ち明け話をしてくることもなかったのだから。

 ただいつの間にやら今日に至ったという朧げな感覚があるだけ。

 重要なのはカランがきちんと私が一番望んでいることを成し遂げてくれるのかというただ一点のみだ。だけどもしかしたらあの男について知るというのも、そのために必要な過程なのかもしれない。

 何を考えているのか、これからどうするつもりなのか、私はいつまで辛抱すればいいのか。


 それから従者の尻尾を掴むために何度かこっそりと夜更かしをしてやろうと試みたのだが、どうしてかうまくいなかった。以前よりも眠りが深くなったのだ。夢を見たくないと思っていても、身体がひとりでに沈黙していく。緩慢な衰退。

 そんな中で繰り返されていく悪夢が新たな展開を迎えたのは、本当に突然のことだった。


「あらまあ、ようやくお会いできましたわ。私、もうへとへとになってしまって」


 真っ黒な髪に真っ黒なドレス姿の小柄な少女が、辺りに散らばった臓物を避けることもせずに真っ直ぐとこちらへと向かってくる。いっそ軽やかともいえる足取りだ。ひしゃげた肉片から噴き出した血が彼女の足元にかかるが、全て彼女の色に呑み込まれて消えていく。

 そんな不吉な姿をした少女はここでは何よりも穢れなき色を身に纏っているように思えた。少しずつ変容しながらも、大筋では代わり映えのしない世界に落とされた一点の染み。

 予期せぬ出会いに反射的に何か言葉を返そうとするが思うようにいかない。押し潰された蛙の鳴き声のようなものを絞り出すのが精一杯だった。しかし少女は怯むこともなく無邪気に私の鬼の手を掴むと、くるりと方向転換してどこかへと迷いなく進み始める。


「ほら遠慮なさらずに、どうぞこちらにいらして」


 心では少女に抗いがたい何かを感じるが、その意思に反して足取りは鉛のように重たい。ぽっかりと穴が空いて進もうとすればするほどに為す術もなく沈んでいく船が、何者かに舵を取られているような。

 それでもう何もかも手遅れだという気がしてくる。ここが終点なのかもしれない。それでも彼女についていけば、どこかに辿り着けるのだろうか。


 思考が散漫になる。自分の頭の中のはずなのに誰が手綱を握っているのかも分からない。鬼となっている時間が長くなるほど、分離していたはずの私自身の意識が溶け出していっているような気がした。

 それに気付いた途端、悪夢という惰性の中に亀裂が入る。純然たる恐怖だ。己の手で見知らぬ人々を無惨に引き裂くことよりも、その屍を大輪の花のように割り開き広間を飾り立てることよりも、ずっと恐ろしかった。

 私はそこで初めて本当の意味で慄いて名も知らぬ少女に縋り付こうとしたが、普段よりも大きな今の姿では襲い掛かっているような格好にしかならない。


「ねえ貴女。わたし、私は、今すぐ帰らなければ……」

「イリーナは本当に綺麗ね、この世で一番綺麗。白魚のような手とはこういったものを言うのかしら?」


 何の話をしているの。私の名はイリーナではないわ。


「あなたを見ていると今すぐどこかに閉じ込めて全身に口付けてしまいたくなる。けして誰の目にも触れさせたくないの、私の可愛いイリーナ。でもそれは許されないことなのよ」


 だから私をどこかに連れていくの?


 少女が立ち止まった。こちらを振り返ろうとしてすぐに躊躇したように肩を細かく震わせる。空いた方の手でその彼女のか細い身体に触れようとしたところでその日の夢は終わった。夢の終わりのような目覚め、あるいは別れか。

 また彼女に会うことはできるのだろうか。不思議な親密感が私たちの間にあった。


 私の元に兄からの手紙が届けられたのはその日の昼下がりのことだ。


 繊細な装飾の施された銀のトレーに乗せられて運ばれてきたそれを私は最初お菓子か何かだと思った。差し出された時からやたらめったらと甘ったるい匂いが漂ってきたからだ。

 実際にはそれはただの手紙だったのだから、この時点でもうあまり良い予感はしてこない。

 それで封蝋の代わりに煮詰めた砂糖を使ったと言われても驚かないぞ、という思いで開け放つとまず青みがかった薄紫色の押し花を用いた栞が同封されているのを見つけていきなりげんなりとしてしまう。これは明らかに私の髪をイメージしたものだ。いつの間に少女小説の中に迷い込んでしまったのだろうか。


「やはり無理に目を通さずともよろしいのでは?」

「アンセル様とは直接お会いしなければ問題ないはずでしょう、と嫌味を言っていたのは誰だったかしら」

「気が変わったのです」


 そんなことを淀みなく告白する従者があるか。

 ふざけているのかと思ったが、至極真面目な顔をしている。しかしそう言われると反対のことをしたくなるのが私のさがなので、仕方なく広げられかけた羊皮紙に手を伸ばした。不満気なカランの顔を見るとどこか満たされた気持ちになる。


『ただひとりの僕の美しい妹君へ、

 ここに来てからずっと考えているのだけれど、君に拒絶されることを悲しむだなんてかつての僕は余程の贅沢ものだったのではないだろうか。父さんから君が苛まれているものについて聞かされて、君が僕以外の手によって苦しめられていることを何よりも耐え難く思ってしまった。可愛い妹を純粋に思い遣ることができないだなんて、やはり僕は君の兄として決定的に不足しているようだよ。

 日に一度だけ神に君の幸福を祈り、それ以外の時間は君自身に祈りを捧げています。大切な君の憂いが一刻も早く取り払われますように。貴女のただひとりの兄アンセルより。追伸……』


 流麗な文字を追う目が思わずあちらこちらへと滑っていってしまう。これはなんの告解だ? 兄は私を懺悔室か何かと勘違いしているのではないだろうか。どんな顔をして受け止めればいいのか少しもわからない。


「アンセル様はなんと?」

「……あなたもこの前の両親の話を聞いていたのでしょう。魔女と呼ばれる先生がこちらに向かっていらっしゃるそうよ。どうしてお父様たちは何も仰らないのかしら」


 なんとなく兄の奇怪な独白には触れたくなくて、最後についでのように添えられていた話──内容からすればこちらの方が本題なのではないか──についてだけ明かすことにした。

 未だ甘くしすぎたミルクティーを頭から被さったような異様な香りを発している手紙を手早く折り畳むと、その動きをカランにじっとりと見つめられて居心地が悪い。どうしてそう恨めしげな視線を寄越されなければいけないのか。

 面倒ごとを全て押しやってしまうように重く息をつくが、もう終わったものと思っていた会話はまだ続いていたようだ。


「ところでこの香りはアンセル様がよく身に纏っていらっしゃるものですよ。ここまで強いものではなくうっすらとですが」

「ふうん、そうだったの。今まで全然気が付かなかった」


 そもそもあまり兄に近付きはしないし、どうしても近付かなければならないときにもほとんど窒息しそうになりながら硬直してしまっているので、そんなところにまで気を配る余裕はない。

 香水やコロンを嗜むにしてもわざわざこんな小さな女の子の好むようなものを選び取るだなんて、兄を慕う人々からの贈り物か何かだろうか。


 兄は私からすれば二目と見られない姿をしているが、周囲には美を司る神も恥じらうほどであるとかなんとか評されるほどの美丈夫であるらしいのでかなり人目を惹く。

 蕩けた顔のご令嬢とその母親、時にご子息までもがハーメルンの笛吹き男に拐かされるが如く化け物に群がっていく光景を想像してみてほしい。神どころか悪魔が恥じらって目を覆ってしまうのではないかと思える趣味の悪さだ。そんな異教徒のミサのようなものばかり見させられる羽目になるのだから、私が人が集まる場所を忌避するようになるのも当然の成り行きだと思う。

 そうでなくともパーティや茶会のような場はあまり好きではない。今は療養という名目で遠ざかっているが、立場上ずっと避けて通れるものでもない。


 憂鬱な気分になった私は気持ちを切り替えて件の魔女とやらについて考えることにした。そんな不名誉な呼び名をつけられてしまうだなんてよほどのことだと思う。いかにもといった風貌をしているとか、怪しげな実験を繰り返しているとか。


「いったいどんな方なのかしらね」

「魔女狩りというのは都合の悪い人間を排除したり人々を恐怖で制圧するために行われたりするものですから、その方も単に嫌われ者なのでしょう」

「お前ね……」


 徹頭徹尾つまらない男だ。訊ねる相手を間違えたらしい。

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