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がらんどうと私  作者:
第1章 死に損ない男
3/11

「ただ兄さんが入学するというだけのことなのに、どうしてみんなそんなにやることがあるのかしら」


 身支度を整えて朝食の席につくと、兄の出立を間近に控えて誰も彼もが忙しいらしく、私がデザートに手をつける頃には皆慌ただしく退席してしまっていた。


 それでなんとなく心細くなった私は部屋の隅で控えていたカランを無理矢理呼びつけてちょっかいをかけ始めたのだが、これはどうにも逆効果だった気がする。

 食卓と小蝿は相性がよろしくない。周囲をぶんぶんと小煩く飛び回られてはおちおち食事もできやしないというものだ。今も「エイプリル様もお手隙ならば本日のお勉強の前に昨日の埋め合わせをなさるべきでは」とかなんとか遠回しに嫌味を投げかけてくる。


「時々、お前の目を抉ってやろうという衝動に駆られて仕方がないのだけど」

「そうですか。本当にご所望ならば構いませんが? 常にお手元に置いていただけるのなら、お嬢様から目を離して苦労することもなくなりますから」


 妙に本気の声色だ。体から切り離されてもまだ私を監視する気なのか? この男の執念深さを思えばあながち無謀なことでもないような気がする。


「あまり気色の悪いことを言わないでちょうだい、まだ食べているのよ」

「ご自身が理不尽な振る舞いをしているという自覚はおありです?」


 これ以上会話を続けていたら頭がおかしくなりそうだ。

 もう黙りなさい、と視線だけで文句をつけて私は宝石のようなゼリーの最後の一口を喉に流しこむ。薔薇の花弁を閉じ込めた洒脱なものだったが、甘さが控えめで少々物足りない。

 その味気なさを埋めるように、私の手でも折ってしまえそうなほど小さく繊細なスプーンをカランの骨張った手の甲やシャツ越しの胸元や頰に順繰りに突き立ててやると、言いつけを一応守っているらしいカランに無言でそれを奪われた。


 元々気の長いたちではないけれど、近頃どうにも苛々して仕方がない。癇癪持ちの老婆のような気分だ。

 カランは──信じられないことに──私が兄との別れを気に病んでいるのだとのたまうが、どうしてそんなことがあり得るというのだろう。これほど喜ばしいことは他にないというのに。


「そうよ、どうして気付かなかったのかしら。目を奪ってしまえばいいんだわ。見えなければ最初からないのと同じなのだから」


 普通ならばそういうものだ。でもこの私たち以外には誰もいないはずの部屋にいても、そしてこれから兄のいなくなるお屋敷にいても、きっと逃れられないのだという予感がついてまわる。

 ふいにカランが私の頰に手を当てると、指先で瞼を撫でるようにして私の目を閉じさせた。それで暗闇が訪れるかと思ったが、実際には私の身体を通る細かな血管がぼんやりと赤く視界を照らしている。何もないところなど、どこにもない。

 それから一週間後、私はぼうっと立ちすくむようにして怪物の乗る馬車を見送っていた。正体を隠してお城に向かう、王子様のカボチャの馬車。





 突如私は闇よりも暗い、真っ黒な場所に投げ出された。途方も無い夜の海のようでもあり、小さな箱の中のようでもある。平衡感覚が掴めず、胃液がせり上がってくる。

 ここはいったい、どこなの。


 そう思った次の瞬間、ぱっと視界が開けた。どうやら何かのパーティの会場にいるらしい。立ちくらみでもしていたのだろうか、なぜだかここに至るまでの記憶がない。体調が悪いのかもしれない。それとも間違えてシャンパンを口にしたとか?

 混乱状態で頭を軽く振ると、ぬとりと肌を舐めるような不快な感覚が這い上がってきて弾かれるように顔を上げる。するとなぜだかそこにいる無数の人間が一様に眉を顰めて不躾にこちらを凝視していた。


「ちょっと、いったいなんなのかしら。ねえカラン」


 視界の端を掠めた男の服の裾を確信を持って掴んだが、しかしそれは目的の人物ではなかった。何が起きているのか。人違いをするわけがない。しかし実際に私の目の前にいるのは目的の人物とは全く似通ったところのない異様に背の高い紳士風の男だった。

 黒死病の医師がつける鳥のようなマスクをつけていて顔は見えないが、一目で高貴な身分とわかる佇まいをしている。

 いや、よく見るとそのようないでたちの男は一人ではないらしい。取り囲まれている。いつの間に? 七フィートはありそうな長身に阻まれて、周囲の様子がわからない。


 急に強い不安に襲われた。どうして私はたった一人きりでこんな目に遭っているのだろう。これはいったい何の集まりだ。カランはあのときの誓いの言葉を忘れてしまったのか。見つけたらただじゃおかないぞ、と勇ましい気持ちになる。

 私は己の置かれた状況よりも、従者の不義理に対してこれ以上ないほどの激しい憤りを覚えていた。私に仕えるならば常に私のためにあらねばならないと思う。

 考えている間にも不気味な男たちがじりじりと近付いてくる。本当に従者に裏切られたというのなら、なんとか自分でこの場を切り抜ける手段を見つけなければ。しかしどうにも頭がぼんやりとしていてうまく働いてくれない。まだ意識が混濁としているようだ。

 それで具体的なことを考えるよりも先に自分を庇うようにしておもむろに腕を振り上げるとその瞬間、目の前で何かが爆発したかのように激しく火花が散った。


「は……?」


 それは感動的な劇の終わりのようだった。息を殺すような刹那の静寂のあとに、一拍おいてわっと歓声が広がる、あの清々しさ。しかしそれはよくよく耳を澄ませてみると歓声などではなく、逃げ惑う人々の怒声や命乞いの音色だった。

 蜘蛛を散らすようにどこかへ駆けていく。誰も彼らを追いかけたりなんかしていないのに。


 ふいに私の頭にかろうじて引っかかっていたものが、ぼとりと肩でワンバウンドして落ちていった。今度はなんだ? そう考えながら私は自分がもはやこの状況を楽しみはじめていることに気付く。だって、次々に新しい仕掛けの飛び出してくるびっくり箱のようではないか。


 きっとここに私を害するものなど何もない。あの怪物にだって、何だって、私の領分を侵すことなどできやしない。

 妙に浮き足立った気持ちになって、そこで私は初めて辺りを見回した。上品な乳白色や黄金の意匠で揃えられていたはずのパーティ会場が、いつの間にか真っ赤に染まっている。

 このまえ味わった薔薇のゼリーの中に入ってしまったかのようだ。それではあれは花弁だろうか? あんなにたくさんいた人々がすっかりいなくなってしまい寒々しくなった床に、何かが花開くような格好をして鎮座している。


「エイプリル様」


 夢遊病患者のように花弁に引き寄せられていたところでふいに名前を呼ばれる。どこかで聞いたような声だ。しかし広間には確かに私一人しかいない。幻聴だろうか。


「エイプリル様」


 まただ。


 どこの誰が、この私の名前を呼んでいるの?

 いや、そんなことよりも、私はいったい何をしている?


 ここはどこ。


 繰り返し名前を呼ばれるたびに徐々に意識が浮上していく。それに伴いようやく私はこの異様な状況を正確に認識しはじめた。

 私は花弁の目の前まで辿り着いていた。

 いやこれは美しい薔薇の花なんかではない。内側から割り開かれた人の身体だ!


「なに!? いったいなんなの! 誰か、カラン……どこにいるの!」


 掻き毟るように顔や髪の毛を触るとぼろぼろと血肉が剥がれ落ちていく。これは人間の中身だ。肉片だ。見えていてはいけないものだ。

 辺りには明らかに内臓とわかるものや、眼球、人体の一部が散らばっている。私は今まで平気な顔でこんな場所に立っていたのか。私は今度こそ耐えきれずに嘔吐した。このまま蹲ってしまいたいが、蹲れるような場所すら見当たらない。今も足元で私の吐瀉物と元は何だったのか考えたくもないような何かが混ざり合って恐ろしいことになっている。


 とにかくここから離れなけれれば。足早に広間の出口を目指しながら次々と知っている人の顔が頭の中に浮かんでくる。その中にはあの兄の姿もあった。誰でもいいから知っている人に会って安心したい。どこまでも宙に浮いてしまっているような、このままどこにも戻れないような厭な心地になる。


 扉を開くのともう一度私を呼ぶ声がするのとは同時だった。どこかであれは恐らくカランの声だろうと考えていたが、ここで初めてそうではないと確信めいたものが降りてくる。しかしもう少しで正体が掴めそうだと思った次の瞬間、私は見慣れた寝台の上に戻ってきていた。

 あの創世記の大洪水のような悪夢は過ぎ去ったのだ。少なくとも今日のところは。

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