第一章 転生者、領地を与えられる
アルベルト・フォン・ライゼンが目を覚ました時、最初に感じたのは頭を割るような痛みだった。
「っ……!」
思わず額を押さえる。
見慣れない木組みの天井。
白い漆喰の壁。
ガラスではなく、薄い布が張られた窓。
そしてどこか甘い香草の匂い。
「アルベルト様!」
若い女性の声が響いた。
慌てて顔を向けると、黒いワンピースに白いエプロンを着た少女が立っていた。
年齢は十六、七歳ほど。
栗色の髪を後ろでまとめている。
「よかった……本当に目を覚まされたんですね」
少女は今にも泣きそうな顔をしていた。
「えっと……君は?」
口に出した瞬間、自分でも驚いた。
なぜか流暢な知らない言語が話せている。
だが相手にも普通に通じているらしい。
少女は目を丸くした。
「え? 私ですか? メイドのエミリアですが……」
その瞬間。
頭の中に大量の記憶が流れ込んできた。
父親の顔。
兄たち。
広大な屋敷。
剣術の訓練。
家庭教師。
貴族社会。
知らないはずの記憶が次々と蘇る。
「ぐっ……!」
「アルベルト様!?」
頭を抱える。
だが次第に理解した。
ここは日本ではない。
俺は日本人だった。
地方自治体で農業政策を担当する公務員。
休日は歴史や農学の本ばかり読んでいた。
その俺がなぜか異世界の貴族になっている。
しかも――。
「アルベルト・フォン・ライゼン……」
自然と名前が口をついた。
「はい、アルベルト様です」
「そうか……」
転生したらしい。
そんな結論に至った自分が信じられなかった。
だが現実だった。
その日の夕方。
医師の診察を終えた後、執事が部屋を訪れた。
五十代ほどの痩せた男だ。
銀縁眼鏡をかけている。
「お加減はいかがでしょうか」
「まあ、なんとか」
「それは結構です」
執事は一礼した。
「旦那様がお呼びです」
旦那様。
つまり父親だ。
ライゼン辺境伯。
この地方を治める大貴族。
記憶によれば非常に厳格な人物だった。
「今からか?」
「はい」
執事は少しだけ困ったような顔をした。
「できれば急がれた方がよろしいかと」
それを聞いて嫌な予感がした。
執務室の扉が開く。
中には壮年の男が座っていた。
白髪混じりの黒髪。
鋭い灰色の瞳。
まるで猛獣のような威圧感がある。
「失礼します」
「入れ」
低い声だった。
アルベルトは席の前に立つ。
父親は書類から目を離さない。
しばらく沈黙が続く。
やがて父親が口を開いた。
「体調は戻ったか」
「はい」
「そうか」
再び沈黙。
居心地が悪い。
前世でも市長との面談は緊張したが、それ以上だった。
やがて父親がため息をついた。
「単刀直入に言う」
「はい」
「お前に領地を与える」
アルベルトは瞬きをした。
「領地ですか?」
「そうだ」
記憶を探る。
普通なら喜ぶべき話だ。
だが違和感がある。
三男に領地を与える理由がない。
父親は続けた。
「北東部のヴァルム地区だ」
記憶の中の地図が浮かぶ。
そして思わず顔をしかめた。
辺境だった。
しかも貧しい。
いや、貧しいどころではない。
王国でも有数の不毛地帯だ。
「父上……それは」
「荒れ地だと言いたいか?」
「はい」
父親は鼻を鳴らした。
「事実だ」
遠慮がなかった。
「お前は剣も兄たちに及ばぬ」
図星だった。
「学問も平凡」
さらに刺さる。
「政治も経験がない」
ぐうの音も出ない。
「だから機会を与える」
アルベルトは目を見開いた。
予想外だった。
追放宣言かと思ったのだ。
だが父親の表情は真剣だった。
「好きにやれ」
「好きに?」
「そうだ」
父親は椅子にもたれた。
「成功すればお前の手柄だ」
「失敗したら?」
「その程度だったということだ」
厳しい。
だが不思議と嫌な感じはしなかった。
執務室を出た後。
廊下で二人の兄と鉢合わせた。
長男レオン。
次男ギルバート。
どちらも優秀で有名だった。
「聞いたぞ」
レオンが笑う。
「領地をもらったそうじゃないか」
「兄上」
「おめでとう」
口調は優しい。
だが目は笑っていない。
「もっとも、あそこは毎年赤字だがな」
次男ギルバートが肩をすくめる。
「三年も持てば立派だ」
「おい」
レオンがたしなめる。
「そんなことを言うな」
「事実だろう?」
二人は笑った。
悪意というより諦めに近い。
誰が行っても失敗する土地。
そう思われているらしい。
「アルベルト」
レオンが言った。
「困ったら戻ってこい」
「ありがとうございます」
「農民に殺されない程度に頑張れ」
そう言って二人は去っていった。
不安しか残らなかった。
数日後。
アルベルトは馬車に揺られていた。
エミリアも同行している。
窓の外には広大な農地が見えた。
だが様子がおかしい。
畑は広い。
なのに作物がまばらだ。
土の色も薄い。
「なあ、エミリア」
「はい」
「あの辺りの畑は収穫量どのくらいなんだ?」
エミリアは首を傾げた。
「収穫量ですか?」
「麦はどれくらい採れる?」
「えっと……種を一袋まくと三袋くらいでしょうか」
アルベルトは固まった。
低すぎる。
前世の知識では信じられない数字だった。
「それで生活できるのか?」
「できていません」
エミリアは苦笑した。
「毎年どこかの村で飢えています」
「……」
アルベルトは再び窓の外を見た。
農地。
農民。
家畜。
用水路。
雑草。
前世の職業病が発動する。
気になる。
気になって仕方ない。
「アルベルト様?」
「いや」
彼は目を細めた。
「少し希望が見えてきた」
「希望ですか?」
「ああ」
エミリアには意味が分からなかった。
だがアルベルトの目は、先日までの頼りない三男坊のものではなかった。
まるで難問を前にした研究者のような目だった。
そして彼は小さく呟く。
「剣も魔法もいらないかもしれないな」
「え?」
「この土地――改善できる」
馬車は夕日に染まる荒れた農村へ向かって進んでいく。
まだ誰も知らない。
後に王国の歴史を変えることになる改革が、この瞬間から始まろうとしていた。




