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1-1 正の字を刻み続けた少女


――ズボッ、と、少女は自らの手を空間の何もない横合いへと突き出した。

物理的な肉体が、空間を、いや“時空の狭間”を直接掴み取る。


「逃がさない! 絶対に……!!!」


それは、誰の目にも触れない昏い闇の奥で、

異形の怪物キメラが産声をあげた瞬間だった。



◆◆◆


壁一面に刻まれた正の字

びっしりと。

隙間なく。

小さな石で刻んだ、正の字たち。


8年――


薄暗い石の部屋。

ルーナは壁の正の字を指でなぞる。

その指先が、

七歳の記憶を呼び起こした。


父の肩の上。

高くて、広くて、でも何も怖くない。

肩の上ではルーナは母へのプレゼントに

白い花を2、3本持ちながら笑っている。


「おいおいそんなに動くなよ、

ルーナも大きくなって、結構重いぞ〜」

「え~来年もしてよ~」

「ルーナは、肩車が好きかー」

「お父さんが大好きー」


ハルベの森の木々の向こうに、青い空と笑い声が広がっていった。

今でも覚えている、父の暖かい手、青い空。


「ただいまー」

「おかえりなさい」

「お母さん!」


駆け寄って抱きつく。

母は笑って抱きしめ返してくれる。

少し甘くて、温かい匂い。


「あらあら、甘えん坊さんね~」

「えへへ、お母さん、これ」

「まぁ綺麗な白いお花ね。ルーナありがとう」

「明日はね、お父さんの手伝いをするの~」

「あら、怪我には気を付けるのよ」


季節は毎日移っていく。

冬になると、友達と同じ白い服を着る。

特別な服で、胸元と袖には、鮮やかな赤い糸。

石から紡ぐ、不思議な赤い糸。

村でその糸を作れるのは、

お母さんだけだった。


「石糸っていうのよ」


母は少しだけ誇らしそうに笑っていた。

永遠に続くと思っていた。

私もいつか『石糸』を作るんだって――


炎。


悲鳴。


怒号。


「グリムクロウだ!!」

誰かの絶叫が村中に響いた。

燃える家。

逃げ惑う人影。

鎧がぶつかる音。

鉄の足音。

泣き叫ぶ子どもたち。


後から知ったが《グリムクロウ》は、

村を襲い、人を攫い、

奴隷として売り飛ばす人狩り集団の名前だった。


扉の隙間から外を見る。

夜なのに、昼みたいに明るい。

たくさん燃えていた。


「ルーナ早く!ここに隠れて」


母の手は震えていた。

床板の下にある小さな隠し穴を開け、私を押し込もうとする。

イヤイヤしかできなかった。

この手を離したら、終わりだと思った。

だから、離したくなかった。


「嫌だ、嫌だ、お母さん………!」


「だめ。静かに。絶対に出てきちゃだめ」


聞いたことのない母の硬い声。


床の扉が閉められた。

母の手が離れていく感触が残った。

必死に床下の隙間から外を見ようとした。


……だが、すぐに乱暴に開けられた。


次に見えたのは、ニヤついた目が印象的な男の顔。

7歳の私は、腕を引っ張られて――


記憶は、いつもそこで切れる。


ルーナはゆっくり目を開いた。


ざらついた壁の石に触れる。

この石は、糸にはできない。


コツ、カン、コツ、


足音に混じって、

棍棒が石畳を叩く音。

看守だ。


小窓が開き、看守と目が合うが

ルーナは何も言わない。


悲しい。

苦しい。

怖い。

嫌だ。


感情はある。

ただ、感情を出しても殴られるだけだ。

相手を喜ばすだけだ。


鍵が回り、金属扉が軋みながら開く。

現れたのは三十代ほどの看守で

この男は滅多に殴らないので少し気が楽だ。


「起きてるな、来い」


乱暴に腕を掴まれ痛いが、

これくらいなら何ともない。


(抵抗なんて、しないのにな)


「今夜は興行だ、歩け」


房を出て左右どちらへ進むかで、

連れて行かれる場所が変わる。

今日は右で興行か……


無言のまま看守の後を歩く。

並ぶ収容房。

聞こえてくるのは、鎖の擦れる音。

押し殺したうめき声や泣き声など


看守の歩みが鈍くなり、止まる。

その視線の先を見ると、


(開いてる……)


人ひとりが無理をすれば通れるほどの、細い隙間が開いていた。

そこから熱気が漏れている。


石造りの廊下なのに、扉の周囲だけが異様に熱い。

数メートル離れていても分かるほどの熱量。

まるで炉の前に立っているようだった。


低い唸り声が響く、

冷たいものが背筋を走り、思わず震えるが

震えた自分に戸惑っていた。


「チッ……なんで開いてるんだよ。あいつら……」


吐き捨てるように呟き、ルーナを見る。


「見るな……行くぞ」


「行くぞ」そう言いながらも、看守の足は動かず、

扉を見つめた後、もう一度ルーナへ視線を向ける。


「お前が閉め……」言いかけ、看守は扉へ向かった。

金属の扉に体重をかけ、力任せに押し閉める。


ギギギ……


(重い?……違う、押し返されてるんだ)


ルーナは閉じていく隙間を見つめる。


(魔獣?……違う、魔獣で私がおびえる事はない)


いつからだろうか……恐怖という感情は、いつしか薄れ、消えていた。

だからこそなぜ今、自分は反応したのか。

それが不思議だった。

扉を閉め終えた看守の顔は、青ざめていた。


「……気にするな。行くぞ」


震える声。

大きな歩幅で急ぐ看守。


扉を閉めたのに、安心した様子はなかった。

しばらくして、地下2階の控え室に着く。

地下1階とは違い、壁には布が張られ、柔らかな灯りがある。


「入れ」


腕を引かれ、背中を押される。


(いちいち押さなくても歩くのに)


先に来ていた奴隷たち、泣く子供。

壁に向かって呟き続ける者。

でも、誰にも声はかけない。


慰めようと、悲しみを分け合おう

助けようとすればするほど、あの男に利用される。


そして、仲間から返ってくるのは感謝ではない。

憎しみの目。

気味悪がる目。

そして最後には、『お前のせいだ』と言われる。


誰かを救おうとしても、誰の救いにもならない。

そのことを、ルーナはもう嫌というほど知っている。

だから、誰とも繋がらない。


ルーナは床の石に、指でそっと線を引く。


1画目。

2画目。


正の字。


今日も増える。

明日も、明後日も。

きっと同じように。


そう思っていた。


だが―――


お読み頂きありがとうございました。

宜しければ、モチベーション維持の為、反応を頂けると嬉しいです。

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