外伝短編|すでに消え去った熱
18時02分だった。
壁の時計は、会議室のガラス越しにも見える位置に掛かっていた。
白い文字盤に細い針。
秒針だけが、やけに正確に動いている。
定時は18時ちょうどだったから、もう2分過ぎていることになる。
それなのに、フロアの空気は昼の続きみたいだった。
誰かが席を立つ気配もない。
伸びをして「終わり」の方へ体を向ける者もいない。
パソコンのファンの音と、乾いたキーボードの音だけが、一定の高さで重なっていた。
コピー機の待機ランプは緑のまま点き、エアコンは低く鳴り続けている。
窓の向こうは少しずつ暗くなっているのに、室内の白い照明の方が強くて、外の時間があまり意味を持たない。
私は画面の右下を見た。
18:02。
壁の時計と、ほとんど同じ時刻。
隣の席の同僚も、同じタイミングで視線を時計へ向けた。
目だけが動く。
顔の向きは変わらない。
視線だけが、壁の方へ一度滑って、すぐ自分のモニターへ戻る。
誰も何も言わない。
少しして、その同僚は立ち上がった。
椅子が小さく軋む。私は反射的に顔を上げる。
けれど同僚は鞄ではなく、コピー用紙の束を持って複合機の方へ向かった。
帰る準備ではなかった。
ジャケットも椅子の背に掛けたままだった。
私の足元にも鞄はあった。
口の開いたままのビジネスバッグ。
手を伸ばせば持てる位置にある。
PCを閉じて、ケーブルを抜いて、立ち上がるだけで済む。
なのに、その動作だけが起きない。
フロアの前方には上司がいた。
怒ってはいない。
部下の画面を覗き込んで歩くこともないし、声を張ることもない。
書類を1枚ずつめくり、時々マウスを動かし、湯気の消えた紙コップのコーヒーを飲む。
眉間に皺もない。
急かすような言葉もない。
ただ、席を立たない。
パソコンを閉じない。
その人がまだいる、という事実だけが、目に見える何よりも強かった。
私はカーソルを少し動かした。
画面には見積書の修正版が開いている。
今日中でなくてもいい。
明日の朝でもたぶん間に合う。
そういう種類の仕事だった。
急ぎではない。
重大でもない。
けれど保存して閉じる、という流れへ手が進まない。
スマホが一度だけ震えた。
机の端に伏せずに置いていた画面が白く光る。
私は視線だけを落とした。
恋人からだった。
「今日ごはんいる?」
短い。
返事は一行で済む。
いる、でも、いらない、でも、それだけで終わる。
今すぐ打てる。
忙しいわけでもない。
私は通知を見たまま、数秒だけ止まった。
頭の中で「後で返す」とも思わなかった。
ただ、そのまま画面を伏せた。
ガラスに天井の照明が映って、文字は見えなくなる。
白い四角だけが黒に変わって、机の木目が戻る。
前の島の誰かがトイレに立った。
別の誰かが財布を持って自販機へ向かった。
遠くで缶が落ちる音がして、それを誰かが拾う気配がする。
1人が椅子の上で大きく伸びをして、背骨を鳴らすみたいに肩を回した。
でも誰もコートを着ない。
誰もPCの電源を落とさない。
誰も電気を消さない。
誰も終わらせる方へ体を向けない。
帰れない、のではなかった。
帰るという行動だけが、なぜか起こらない。
そういう空気が、フロア全体に薄く張っていた。
18時台の後半になると、窓の向こうの色がほとんど消えた。
ガラスには室内の光ばかりが映り、こちら側の席の列が二重に重なって見える。
自分の顔もぼんやり映ったが、仕事中の顔なのか、帰りたい顔なのか、自分でもよく分からなかった。
「お先に」が出ないのは、別に珍しいことじゃなかった。
誰かが先に口火を切れば流れは変わるのかもしれない。
けれど、その最初の一人が出ない。
全員が、少しだけその役を避けているように見えた。
18時47分、後輩が小さく声を出した。
「今日、もう帰ります?」
独り言と質問の真ん中みたいな声だった。
一瞬だけ、フロアの空気が薄く止まった。
キーボードの音が何台か同時に弱くなる。
誰かが返すまでの短い間が、はっきり分かる。
「あー、もうちょいかな」
すぐに前の席の先輩が言った。
軽い。
説明にも理由にもならないくらい軽い声だった。
それで終わった。
後輩は「あ、はい」とも言わず、ただ頷いたように見えた。
椅子に座り直し、また画面へ向き直る。
さっきまで“帰る”の近くにあった空気が、静かに閉じる。
私はそれを見ていた。
見ているだけで、口は開かなかった。
スマホがまた震えた。
今度は見たあとも、少し長く画面を伏せずに置いていた。
通知の明かりが、書類の端を白く照らす。
返す理由もある。
返さない理由もない。
それでも、指は伸びなかった。
私は画面だけを見て、何もせず、少ししてからまた伏せた。
机の上では、右手がマウスに触れ、左手がキーボードの左端に置かれていた。
手の位置だけを見ると、仕事を続けている人間の姿勢だった。
実際、文字は少しずつ増えていた。
保存もしていない。
送信もしていない。
進んでいるのに、終わる方へは進んでいない。
19時を過ぎた。
時計を見る。
見たことを誰にも悟られない程度の動きで、また画面に戻る。
上司が立ち上がった。
その瞬間だけ、島の空気が細く張った。
終わるかもしれない、と、誰も口に出さないまま思った気がした。
椅子の背に掛けたジャケットへ、今度こそ誰かの手が伸びるかもしれない。
そんな小さな予感が、フロアに一度だけ走る。
でも上司は給湯室へ行っただけだった。
紙コップを捨て、新しいコーヒーを入れて戻ってくる。
湯気の立つカップを机に置き、また座る。
パソコンは閉じない。
書類を1枚めくる。
さっきと同じ姿勢に戻る。
それだけで、空気も元に戻った。
20時近くになると、オフィスの人数は少し減ったようにも見えた。
別の島ではモニターが消えている席が増えている。
けれど、自分の島だけは誰も帰っていなかった。
帰ったのかどうか曖昧な席すらない。
全員がまだそこにいて、しかも全員が「もう少し」の姿勢を保っている。
誰かのキーボード音だけが続く。
一定の間隔。
乾いた音。
ときどきマウスのクリックが混ざる。
私は画面を見たまま、もう一度だけ壁の時計を見た。
20時の少し手前だった。
そのまま、何も言わなかった。
誰も席を立たなかった。
⸻
20年が経ち、
私はそれなりの役職になった。
17時58分。
壁の時計は、白い蛍光灯の下で静かに針を進めている。
秒針の音は聞こえない。けれど、見ているだけで時間が削られていく感じはあった。
フロアは明るい。
窓の外はもう夕方の色に寄り始めているのに、室内の光の方が強くて、外の時間は薄く見える。
エアコンの風は一定だった。
キーボードの音も一定だった。
コピー機の待機音も、どこか低い場所で鳴り続けている。
昔のような張り詰めた空気はない。
誰も息を詰めていない。
誰も追い立てられていない。
ただ、仕事は残っていた。
画面の中には未処理の資料がある。
修正途中の表。
返事待ちのメール。
明日の朝でも間に合うものと、できれば今日見ておきたいものが並んでいる。
修羅場ではない。
それでも、終わってもいない。
18時になる。
その瞬間を合図にしたみたいに、若手の1人がパソコンを閉じた。
乾いたクリック音。
モニターが暗くなる。
椅子を引き、鞄を持ち、コートに腕を通す。
動きに迷いがない。
「お先です」
声は軽かった。
悪びれた感じもなければ、挑む感じもない。
今日の仕事は終わったから帰る。
そういう温度だった。
別の若手も、それに続いた。
「お疲れさまです」
「お先に失礼します」
誰も止めない。
誰も嫌な顔をしない。
私はその声に、一度だけ顔を上げた。
若手の背中を見て、小さく頷く。
「お疲れ」
自然に出た声だった。
引き止める気も、皮肉もない。
ただ、そのあとで自分の画面は閉じなかった。
マウスは右手の下にある。
未処理の資料は開いたままだ。
急ぎではない。
今日中でなくてもいい。
明日の朝、自分が一番に確認すれば済む。
それなのに、終了の動作だけが起きない。
18時03分。
時計を見た瞬間、昔はこの時間からが本番だった、という感覚だけが一度浮かんだ。
誰かが帰らないなら自分も帰らない。
上司が残るなら、そこからもうひと踏ん張り。
コーヒーを淹れ直して、肩を回して、そこからやるぞ、と思えた時間。
その記憶はある。
でも、熱はなかった。
よし、やるか、は来ない。
胸の奥が持ち上がる感じもない。
ただ、席に残っているという形だけが、今の体に残っていた。
若手の1人がエレベーター前でスマホを見ていた。
画面が白く光る。
指が数回動く。
たぶん家族か恋人への連絡だと分かる。
「今日ごはんいらない」
「今から帰る」
そういう短い返事を、何の迷いもなく返しているのだと思った。
生活を優先している。
それは怠慢には見えなかった。
今日やるべき範囲をやって、帰る。
その判断に罪悪感は混ざっていない。
悪ではない。
ただ、昔の常識とは違う。
私のスマホも光った。
机の端。
伏せてはいない。
家からだった。
「何時ごろ?」
それだけの文字。
見れば意味はすぐ分かる。
返せない理由もない。
忙しいわけでもない。
私は画面を見たまま、数秒だけ止まった。
返そうとして、やめる。
伏せるでもなく、そのまま置く。
返信の文面を考えるほどのことではない。
それなのに、指が動かない。
気づけば、自分の島に若手はいなくなっていた。
空席だけが増える。
モニターの電源が順番に落ち、机の上の光が減っていく。
フロア全体はまだ開いている。遠くには残っている人もいる。
それでも、自分の周囲だけが少し取り残されたみたいに明るい。
残業中というより、終わらせ損ねた場所に見えた。
帰り際、後輩が足を止めた。
「まだやるんですか?」
責める声ではない。
純粋な確認だった。
私は少しだけ間を置く。
「……まあ、少し」
自分の声は、思ったより平らだった。
昔なら当然だった残業が、今は説明のいる行動になっている。
けれど、その説明を自分でもうまく持っていない。
画面の文字は読める。
意味も分かる。
修正すべき箇所も分かる。
でも、やる理由の熱だけがない。
終わらせる義務感だけがある。
その義務感だけで、背筋を伸ばして座っている。
目は少し乾いていた。
紙コップのコーヒーは冷えている。
モニターの白さだけが、一定の距離で目の前にある。
19時台に入ると、清掃スタッフの気配が遠くを通った。
エレベーターの開閉音が、フロアの奥から小さく届く。
私はまだパソコンを閉じていない。
スマホがもう一度だけ光る。
見る。
返さない。
視線を画面に戻す。
閉じる理由も、続ける理由も分からないまま、私はその白い画面を見ていた。
若手は定時で帰った。自分は残った。
それだけだった。
帰っていいはずなのに、終わるという動作だけが起こらなかった。
仕事は残っていた。
熱意だけが残っていなかった。




