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外伝短編|すでに消え去った熱

作者: 安剛
掲載日:2026/03/28

 18時02分だった。


 壁の時計は、会議室のガラス越しにも見える位置に掛かっていた。

 白い文字盤に細い針。

 秒針だけが、やけに正確に動いている。


 定時は18時ちょうどだったから、もう2分過ぎていることになる。


 それなのに、フロアの空気は昼の続きみたいだった。


 誰かが席を立つ気配もない。

 伸びをして「終わり」の方へ体を向ける者もいない。


 パソコンのファンの音と、乾いたキーボードの音だけが、一定の高さで重なっていた。

 コピー機の待機ランプは緑のまま点き、エアコンは低く鳴り続けている。

 窓の向こうは少しずつ暗くなっているのに、室内の白い照明の方が強くて、外の時間があまり意味を持たない。


 私は画面の右下を見た。


 18:02。


 壁の時計と、ほとんど同じ時刻。


 隣の席の同僚も、同じタイミングで視線を時計へ向けた。

 目だけが動く。

 顔の向きは変わらない。


 視線だけが、壁の方へ一度滑って、すぐ自分のモニターへ戻る。


 誰も何も言わない。


 少しして、その同僚は立ち上がった。

 椅子が小さく軋む。私は反射的に顔を上げる。

 けれど同僚は鞄ではなく、コピー用紙の束を持って複合機の方へ向かった。


 帰る準備ではなかった。

 ジャケットも椅子の背に掛けたままだった。


 私の足元にも鞄はあった。

 口の開いたままのビジネスバッグ。

 手を伸ばせば持てる位置にある。


 PCを閉じて、ケーブルを抜いて、立ち上がるだけで済む。

 なのに、その動作だけが起きない。


 フロアの前方には上司がいた。


 怒ってはいない。

 部下の画面を覗き込んで歩くこともないし、声を張ることもない。

 書類を1枚ずつめくり、時々マウスを動かし、湯気の消えた紙コップのコーヒーを飲む。


 眉間に皺もない。

 急かすような言葉もない。


 ただ、席を立たない。


 パソコンを閉じない。


 その人がまだいる、という事実だけが、目に見える何よりも強かった。


 私はカーソルを少し動かした。

 画面には見積書の修正版が開いている。


 今日中でなくてもいい。

 明日の朝でもたぶん間に合う。

 そういう種類の仕事だった。


 急ぎではない。

 重大でもない。

 けれど保存して閉じる、という流れへ手が進まない。


 スマホが一度だけ震えた。


 机の端に伏せずに置いていた画面が白く光る。

 私は視線だけを落とした。


 恋人からだった。


「今日ごはんいる?」


 短い。

 返事は一行で済む。


 いる、でも、いらない、でも、それだけで終わる。

 今すぐ打てる。

 忙しいわけでもない。


 私は通知を見たまま、数秒だけ止まった。


 頭の中で「後で返す」とも思わなかった。

 ただ、そのまま画面を伏せた。


 ガラスに天井の照明が映って、文字は見えなくなる。   

 白い四角だけが黒に変わって、机の木目が戻る。


 前の島の誰かがトイレに立った。

 別の誰かが財布を持って自販機へ向かった。


 遠くで缶が落ちる音がして、それを誰かが拾う気配がする。

 1人が椅子の上で大きく伸びをして、背骨を鳴らすみたいに肩を回した。


 でも誰もコートを着ない。


 誰もPCの電源を落とさない。


 誰も電気を消さない。


 誰も終わらせる方へ体を向けない。


 帰れない、のではなかった。

 帰るという行動だけが、なぜか起こらない。


 そういう空気が、フロア全体に薄く張っていた。


 18時台の後半になると、窓の向こうの色がほとんど消えた。

 ガラスには室内の光ばかりが映り、こちら側の席の列が二重に重なって見える。

 自分の顔もぼんやり映ったが、仕事中の顔なのか、帰りたい顔なのか、自分でもよく分からなかった。


 「お先に」が出ないのは、別に珍しいことじゃなかった。

 誰かが先に口火を切れば流れは変わるのかもしれない。


 けれど、その最初の一人が出ない。

 全員が、少しだけその役を避けているように見えた。


 18時47分、後輩が小さく声を出した。


「今日、もう帰ります?」


 独り言と質問の真ん中みたいな声だった。


 一瞬だけ、フロアの空気が薄く止まった。

 キーボードの音が何台か同時に弱くなる。

 誰かが返すまでの短い間が、はっきり分かる。


「あー、もうちょいかな」


 すぐに前の席の先輩が言った。


 軽い。


 説明にも理由にもならないくらい軽い声だった。


 それで終わった。


 後輩は「あ、はい」とも言わず、ただ頷いたように見えた。

 椅子に座り直し、また画面へ向き直る。

 さっきまで“帰る”の近くにあった空気が、静かに閉じる。


 私はそれを見ていた。

 見ているだけで、口は開かなかった。


 スマホがまた震えた。


 今度は見たあとも、少し長く画面を伏せずに置いていた。

 通知の明かりが、書類の端を白く照らす。

 

 返す理由もある。

 返さない理由もない。

それでも、指は伸びなかった。


 私は画面だけを見て、何もせず、少ししてからまた伏せた。


 机の上では、右手がマウスに触れ、左手がキーボードの左端に置かれていた。

 手の位置だけを見ると、仕事を続けている人間の姿勢だった。


 実際、文字は少しずつ増えていた。


 保存もしていない。


 送信もしていない。


 進んでいるのに、終わる方へは進んでいない。


 19時を過ぎた。


 時計を見る。

 見たことを誰にも悟られない程度の動きで、また画面に戻る。


 上司が立ち上がった。


 その瞬間だけ、島の空気が細く張った。

 終わるかもしれない、と、誰も口に出さないまま思った気がした。


 椅子の背に掛けたジャケットへ、今度こそ誰かの手が伸びるかもしれない。

 そんな小さな予感が、フロアに一度だけ走る。


 でも上司は給湯室へ行っただけだった。


 紙コップを捨て、新しいコーヒーを入れて戻ってくる。

 湯気の立つカップを机に置き、また座る。


 パソコンは閉じない。

 書類を1枚めくる。

 さっきと同じ姿勢に戻る。


 それだけで、空気も元に戻った。


 20時近くになると、オフィスの人数は少し減ったようにも見えた。

 別の島ではモニターが消えている席が増えている。


 けれど、自分の島だけは誰も帰っていなかった。

 帰ったのかどうか曖昧な席すらない。


 全員がまだそこにいて、しかも全員が「もう少し」の姿勢を保っている。


 誰かのキーボード音だけが続く。


 一定の間隔。


 乾いた音。


 ときどきマウスのクリックが混ざる。


 私は画面を見たまま、もう一度だけ壁の時計を見た。


 20時の少し手前だった。


 そのまま、何も言わなかった。


 誰も席を立たなかった。



 20年が経ち、

 私はそれなりの役職になった。


 17時58分。


 壁の時計は、白い蛍光灯の下で静かに針を進めている。

 秒針の音は聞こえない。けれど、見ているだけで時間が削られていく感じはあった。


 フロアは明るい。

 窓の外はもう夕方の色に寄り始めているのに、室内の光の方が強くて、外の時間は薄く見える。


 エアコンの風は一定だった。

 キーボードの音も一定だった。

 コピー機の待機音も、どこか低い場所で鳴り続けている。


 昔のような張り詰めた空気はない。

 誰も息を詰めていない。

 誰も追い立てられていない。


 ただ、仕事は残っていた。

 画面の中には未処理の資料がある。


 修正途中の表。

 返事待ちのメール。


 明日の朝でも間に合うものと、できれば今日見ておきたいものが並んでいる。


 修羅場ではない。

 それでも、終わってもいない。


 18時になる。


 その瞬間を合図にしたみたいに、若手の1人がパソコンを閉じた。


 乾いたクリック音。

 モニターが暗くなる。


 椅子を引き、鞄を持ち、コートに腕を通す。

 動きに迷いがない。


「お先です」


 声は軽かった。

 悪びれた感じもなければ、挑む感じもない。


 今日の仕事は終わったから帰る。

 そういう温度だった。


 別の若手も、それに続いた。


「お疲れさまです」


「お先に失礼します」


 誰も止めない。

 誰も嫌な顔をしない。


 私はその声に、一度だけ顔を上げた。

 若手の背中を見て、小さく頷く。


「お疲れ」


 自然に出た声だった。

 引き止める気も、皮肉もない。


 ただ、そのあとで自分の画面は閉じなかった。


 マウスは右手の下にある。

 未処理の資料は開いたままだ。


 急ぎではない。

 今日中でなくてもいい。

 明日の朝、自分が一番に確認すれば済む。


 それなのに、終了の動作だけが起きない。


 18時03分。


 時計を見た瞬間、昔はこの時間からが本番だった、という感覚だけが一度浮かんだ。


 誰かが帰らないなら自分も帰らない。

 上司が残るなら、そこからもうひと踏ん張り。

 コーヒーを淹れ直して、肩を回して、そこからやるぞ、と思えた時間。


 その記憶はある。


 でも、熱はなかった。


 よし、やるか、は来ない。

 胸の奥が持ち上がる感じもない。


 ただ、席に残っているという形だけが、今の体に残っていた。


 若手の1人がエレベーター前でスマホを見ていた。


 画面が白く光る。

 指が数回動く。

 たぶん家族か恋人への連絡だと分かる。


「今日ごはんいらない」


「今から帰る」


 そういう短い返事を、何の迷いもなく返しているのだと思った。


 生活を優先している。


 それは怠慢には見えなかった。

 今日やるべき範囲をやって、帰る。

 その判断に罪悪感は混ざっていない。


 悪ではない。

 ただ、昔の常識とは違う。


 私のスマホも光った。


 机の端。

 伏せてはいない。


 家からだった。


「何時ごろ?」


 それだけの文字。


 見れば意味はすぐ分かる。

 返せない理由もない。

 忙しいわけでもない。


 私は画面を見たまま、数秒だけ止まった。


 返そうとして、やめる。

 伏せるでもなく、そのまま置く。


 返信の文面を考えるほどのことではない。

 それなのに、指が動かない。


 気づけば、自分の島に若手はいなくなっていた。


 空席だけが増える。

 モニターの電源が順番に落ち、机の上の光が減っていく。


 フロア全体はまだ開いている。遠くには残っている人もいる。

 それでも、自分の周囲だけが少し取り残されたみたいに明るい。


 残業中というより、終わらせ損ねた場所に見えた。


 帰り際、後輩が足を止めた。


「まだやるんですか?」


 責める声ではない。

 純粋な確認だった。


 私は少しだけ間を置く。


「……まあ、少し」


 自分の声は、思ったより平らだった。


 昔なら当然だった残業が、今は説明のいる行動になっている。

 けれど、その説明を自分でもうまく持っていない。


 画面の文字は読める。

 意味も分かる。

 修正すべき箇所も分かる。


 でも、やる理由の熱だけがない。


 終わらせる義務感だけがある。

 その義務感だけで、背筋を伸ばして座っている。


 目は少し乾いていた。

 紙コップのコーヒーは冷えている。

 モニターの白さだけが、一定の距離で目の前にある。


 19時台に入ると、清掃スタッフの気配が遠くを通った。

 エレベーターの開閉音が、フロアの奥から小さく届く。


 私はまだパソコンを閉じていない。


 スマホがもう一度だけ光る。

 見る。

 返さない。


 視線を画面に戻す。


 閉じる理由も、続ける理由も分からないまま、私はその白い画面を見ていた。


 若手は定時で帰った。自分は残った。

 それだけだった。


 帰っていいはずなのに、終わるという動作だけが起こらなかった。


 仕事は残っていた。

 熱意だけが残っていなかった。

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