第66話 仮運用開始
仮運用の初日は、何も起きないはずだった。
僕たちは山ノ上保管場所へ上がり、密閉箱を棚に置いた。
床から浮かせ、壁から離す。
宮本さんが言った通り、箱の下には余った板を噛ませた。
可搬電源一台。
照明二基。
運用帳。
短縮版。
本紙閲覧用。
鍵箱。
すべて置き終えた時、山ノ上の小屋は、ただの古い小屋ではなくなっていた。
でも、まだ村の中で使われた場所ではない。
紙の上で名前を得ただけの場所だった。
「封印番号」
菜々さんが言った。
僕は鍵箱の紙封印を確認した。
〇〇一。
運用帳へ書く。
封印番号。
〇〇一。
閉鎖確認者。
宮本静江。
宮本さんが確認印を押した。
小さな印だったが、その音が妙に大きく聞こえた。
何も起きないはずだったのに、昼過ぎに電話が鳴った。
北山さんの奥さんからだった。
「集会所の冷蔵庫、また止まった」
僕は一瞬、言葉に詰まった。
「停電ですか」
「ブレーカーかもしれない。でも、中に薬を預かってる」
仮運用初回。
いきなり冷蔵。
優先条件表の一番上だった。
僕は運用短縮版を見た。
受け取る時。
運ぶ前。
暗い時。
「冷蔵保管あり。集会所側発生」
自分に言い聞かせるように言った。
あやかが時計を見た。
「始める?」
「始めます」
声が少し硬かった。
山ノ上へ上がる道は、朝より柔らかくなっていた。
軽トラを出す前に、僕は坂を少し歩いた。
「搬送前確認。地面ぬかるみあり。徒歩可。車両注意」
言ってから、運用帳へ書く。
書く手が少し震えた。
鍵箱の封印を破る。
〇〇一の紙片を、開封記録へ貼る。
開封線。
集会所側発生時。
開錠役。
黒部星。
持出物。
可搬電源一台。
照明一基。
ここまでは、紙の通りだった。
ただ、実際に封印を破る音は、思っていたより強かった。
紙を破っただけなのに、何かを始めてしまった感じがした。
集会所へ戻ると、北山さんの奥さんが待っていた。
「可搬電源一台、十三時十七分受領。返却先は山ノ上保管場所」
僕が言う前に、彼女が言った。
一瞬、驚いた。
「合ってる?」
「合ってます」
菜々さんが横で記録した。
冷蔵庫は、すぐには動かなかった。
ブレーカーを確認し、延長コードをつなぎ、可搬電源から一時的に保冷庫へ移す。
派手な作業ではない。
でも、止まっていたものが、とりあえず止まったままではなくなった。
「これでいいの?」
北山さんの奥さんが聞いた。
「仮です」
僕は答えた。
「でも、薬は今は冷えます」
それだけで、彼女は少し息を吐いた。
夕方、返却まで行った。
可搬電源。
照明。
延長コード。
返却物を確認する。
次回使用。
可。
閉鎖確認者。
返却者以外。
今日は吉岡さんが確認した。
「次回準備、ありだね」
彼が言った。
「何ですか」
「延長コードが短い」
確かに、集会所の冷蔵庫まではぎりぎりだった。
僕は『次回準備メモ』に書いた。
延長コード長尺一本。
終了確認表の下に、次回準備あり。
紙が初めて、本当に閉じた。
夜、集会所で運用帳を見直すと、ところどころ字が硬かった。
でも、空欄はない。
持出。
返却。
終了確認。
次回準備。
一回分が、最初から最後までつながっていた。
「成功ですか」
あやかが聞いた。
「分かりません」
僕は答えた。
「でも、終わりました」
菜々さんが頷いた。
「最初はそれでいい。終わったことが残ったなら、次に直せる」
仮運用初回。
冷蔵保管あり。
集会所側発生。
終了確認済。
次回準備あり。
僕は最後に、一行だけ書いた。
『延長コード不足』
うまくいったことより、足りなかったことの方が、次に効く。
そう思えるくらいには、紙はもう動き始めていた。




