第64話 読める帳面
松原さんからの電話は短かった。
「見せたいものがある」
それだけだった。
菜々さんとあやかと三人で行くと、松原さんの茶の間には古いファイルが三冊置かれていた。
背表紙には、年度だけが書かれている。
「持って帰らないこと。写しも今日はだめ。読むだけ。メモはいい。でも、写真はだめ」
僕は頷いた。
ファイルを開くと、領収書、手書きのメモ、支出一覧が並んでいた。
草刈り。
除雪。
発電機燃料。
集会所修繕。
農道補修。
保全会活動費。
地域会振興資金。
役場補助。
項目自体は、どれも村にありそうなものだった。
でも、見ていくうちに少しずつ引っかかりが出てきた。
「発電機燃料が、保全会活動費に入ってますね」
「そういう年もある」
「防災費ではなく?」
「防災費なんて、そこにはなかったから」
それは、不正というより、受け皿の問題だった。
必要な支出がある。
でも、ぴったりの費目がない。
だから、近いところに入れる。
「地域会振興資金、というのは」
「電力会社から出ていたお金。原発立地の地域会ごとに、名前は少しずつ違うけど、地域振興という形で入っていた」
「役場補助とは別ですか」
「別。役場の補助と、電力会社からの振興資金。その二つで、地域会にはそれなりの財布があった」
地域会。
ただの連絡組織ではない。
お金を受け、物を買い、修繕をし、残ったものを次の年へ持ち越す場所でもあった。
「だから、地域会の声は強いんですね」
「声だけじゃない。財布があるからね」
菜々さんが、領収書の一枚を指で示した。
「この修繕費は、何の修繕ですか」
松原さんは、少しだけ口を閉じた。
「たぶん、集会所の裏」
「たぶん」
「領収書には部材名しかない。何に使ったかは、当時の人が知ってた」
当時の人。
その言葉で、紙の弱さが見えた。
紙に残っているようで、実は人の記憶に寄りかかっている。
あやかが、小さく言った。
「悪いことしてるって感じじゃないね」
松原さんは、彼女を見た。
「そう。悪いことだけなら簡単なんだよ」
それから、僕の方へ視線を戻した。
「曖昧なままでも回った。むしろ、曖昧にしないと回らなかった。それが残ってる」
集会所へ戻ると、僕はメモを整理した。
発電機燃料。
費目が年度で変わる。
修繕費。
用途が部材名のみ。
活動費。
人件費、燃料、軽微修繕が混在。
地域会振興資金。
電力会社からの入金。
役場補助とは別枠。
備品、修繕、行事、燃料に混在。
菜々さんが、それを見て言った。
「攻撃資料にはしない」
「分かっています」
「でも、見ないふりもしない」
それが難しかった。
古い支出を責めない。
でも、同じ曖昧さを新しい運用に持ち込まない。
僕は新しい見出しを作った。
『山ノ上保管場所 費目分類』
初期設置。
消耗品。
修繕。
補充。
記録用品。
その上に、一行を足す。
『過去支出の評価ではなく、今後運用の分類』
あやかが紙を見て言った。
「これ、古い帳面と並べたら怒られるやつだね」
「並べません」
「でも、頭の中では並んでる」
その通りだった。
翌日の会合では、『費目分類』と『読む順番』を出した。
1. 運用帳
2. 次回準備メモ
3. 支出一覧
4. 領収書
「まず動き。次に金です」
僕は言った。
「支出一覧から見ると、金額だけが先に立つので。現場で必要だったかを見る時は、運用帳へ戻れるようにします」
年配の男が言った。
「手間が増える」
「増えます。でも、支出だけが残って用途が人の記憶に戻るよりは、後で読めます」
大滝が、そこで初めて口を開いた。
「黒部くん」
「はい」
「それを出すなら、村の昔の仕事を全部疑うことになるぞ」
部屋が止まった。
松原さんが目を伏せる。
「読める帳面を作るということは、読めない帳面があったと言うことだ。今までの仕事を支えてきた人間に、そう聞こえる」
正しかった。
だから、すぐには返せなかった。
「それでも」
僕は、ゆっくり言った。
「これから同じ形では回らないと思います。昔が悪いからではありません。人が減って、覚えている人が減って、口で閉じられる範囲が狭くなっています。だから、これからの分は読める形にしたいです」
部屋は静かだった。
大滝は、すぐには答えなかった。
やがて、紙を置いた。
「言い方を間違えるな」
それだけ言った。
その夜、僕は宮本さん、吉岡さん、松原さんの三人にもう一度話を聞いた。
「読める帳面を作ると、昔の仕事を疑うことになる、と言われました」
宮本さんは、ゆっくり頷いた。
「なるね。だって、昔は読めなくても回ったんだから」
吉岡さんが続けた。
「読めなくても、誰が何をしたか知ってる人がいた。家の名前で分かった。道具の置き場所で分かった。今は、その人がいない」
松原さんは、赤鉛筆を指で転がしながら言った。
「曖昧にしたのは、悪意だけじゃない。欄を作っても埋める人がいない。費目を分けても、出す先がない。そういう時代の帳面だった」
「じゃあ、今の紙は」
あやかが聞いた。
「今の人の少なさに合わせてる」
宮本さんが答えた。
「昔の紙より偉いわけじゃない。今は、口で閉じる人が足りないから紙にする。それだけだよ」
それだけ。
でも、その言い方で少し救われた気がした。
僕は『費目分類』の前に、一枚だけ短い紙を足した。
『引継ぎの前提』
過去支出の評価ではない。
今後運用で同じ人の記憶に依存しすぎないための分類。
昔の帳面が支えた役割を確認した上で、今後の記録へ移す。
菜々さんは紙を見て言った。
「次は、仮運用に入れるわね」
「もうですか」
「紙だけだと、これ以上は重くなる。三十日全部じゃなくていい。まず一回、実際に回す」
たしかにそうだった。
名前。
場所。
鍵。
帳面。
終了確認。
費目。
ここまで来ると、次は動かさないと見えない。
夜、僕は運用帳の表紙に一行を足した。
『仮運用初回』
その下は、まだ空白だった。
紙の上で整ったものが、実際に動いた時にどこで破れるのか。
次は、それを見る日になる。




