第20話 名字の継承
その日の夜、菜々さんは台帳の写しを何度も見返していた。
姓の並びは、ただの文字列じゃない。
何度も出てくる名前ほど、村の中で重い。
農地、祭り、選挙、草刈り。別の欄に見えるものが、実際には同じ家を通っている。
「これ、ひとりの悪人を探してもたぶん意味がないわね」
菜々さんはそう言って、写しを机に伏せた。
「仕組みのほうを見ないと」
僕も同じ考えだった。
ここまでで見えたのは、中心にいる誰かの顔じゃない。
中心に見えるように、名義が回されている輪の形だった。
翌日、あやかはその輪の外縁にいる人を一人だけ紹介してくれた。
村の東端で、古い農機具を直しながら暮らしている高齢の男性だった。
今はもう表立って何かを仕切る年齢ではない。
けれど、昔の名義の移り変わりと、土地の持ち回りを知っているのはこういう人だという。
「大滝さんの名前は、昔から強かったんですか」
僕がそう聞くと、老人は工具を置いて鼻で笑った。
「強いというより、残る家だよ。残る家は、村が困ったときに名前を貸す。貸した名前は、次に別の形で返ってくる」
庭先には、半分に切られた畦板と、錆びた境界杭が並んでいた。
見た瞬間に、僕はそれが単なるガラクタではないと分かった。
土地が細かく割られていくたびに、こういう杭が動いたのだろう。
「炭鉱の頃は、人がいたから土地の境目も動いた。閉山してからは、動かす人が減った。だから、名義だけが残る」
「名義だけ、ですか」
「そう。実際に耕す者より、誰の畑かを決める者のほうが強くなった。村は小さいから、誰が誰の名を預かってるかで、次の仕事が決まる」
菜々さんが、老人の前に台帳の写しを置いた。
「この姓、農地だけじゃなくて、祭礼の奉納にも出てきます」
「出るだろうね。そういう家だもの」
「選挙の応援名簿にも」
「出るさ。出るようにしてる」
老人は、それ以上は隠さなかった。
隠さないかわりに、話し方も変えなかった。
村の秩序の説明をしているだけ、という顔だった。
「名義ってのはな、持ってるだけじゃ弱い。誰が次に持つかが大事なんだ。だから家が続く。だから親が子に渡す。だから本家がある」
「本家が残るから、予算も残るんですか?」
菜々さんの問いに、老人は少しだけ目を細めた。
「逆だよ。予算が残るから、本家が残る」
その言い方は、村の空気をそのまま言葉にしたみたいだった。
金があるから人が集まるのか、人が集まるから金が回るのか。
答えはどちらでもなくて、両方が同時に回っている。
僕は、庭先の杭を見た。
古い境界杭には、かすれた赤字で同じような印が残っている。
誰かが何度も書き直した跡だった。
「この印、まだ使われてるんですか」
「使うさ。見せる相手がいるからな」
老人はそう言って、ひとつだけ工具を持ち上げた。
「村の仕事は、変わってるようで変わらん。名前を変え、担当を変え、年度を変える。でも、誰が面倒を見る家かは、そう簡単には変わらない」
僕は、その言葉を聞いて、昨日の倉庫で感じた『同じ手』の意味を理解した。
同じ手とは、一人の手ではない。
同じ名字を残すために、いくつもの役割が渡されていく、その連なりだ。
家があり、名義があり、祭りがあり、草刈りがあり、選挙がある。
その順番を守ることが、村では秩序になる。
夕方、帰り道であやかがぽつりと言った。
「大滝さんは、前に出る役なんだよ。……前に出て叩かれる人がいるから、後ろが残る」
「じゃあ、後ろを見ないといけないんですね」
「そう」
車窓の外では、畑の端だけが薄く光っていた。
その光の中で、杭の列が遠くまで続いているように見えた。
名義は、ただの紙じゃない。
村の中で次の順番を決めるための、静かな継承だ。
そして僕たちは、その継承の途中にいる。




