第一話 もう思い残すことはありません
王太子アルディーン・ヴェルシャイアには、幼い頃から婚約者候補が絶えたことがなかった。
銀の髪に紫の瞳。剣も政務もそつなくこなす、完璧な次期国王。
社交界の令嬢たちは彼の視線ひとつで一喜一憂し、舞踏会の主役はいつだって彼だった。
なかでも最有力と目されていたのが、グレイス・ヴァンドール侯爵令嬢だ。
王家との結びつきが深い侯爵家の一人娘で、妃教育もすでにひととおり終えている。
家柄、教養、政治的な後ろ盾。どれを取っても申し分なく、父王も重臣たちも、いずれ彼女が選ばれるだろうと考えていた。
アルディーン自身も、それが最も妥当なのだろうと思っていた。
だから、ミラ・オーウェンという伯爵令嬢が二年もの間、静かにそばにいたことを、特別だと考えたことはなかった。
派手な装飾を好まず、取り巻きを引き連れることもない。
図書室の隅で本を読んでいるか、文官たちに頼まれて資料を整理している姿ばかりが目についた。
執務に追われているときには、誰に頼まれるでもなく茶を置いていく。
剣の稽古で怪我をしたときには、医務官を呼びに走るより先に、どこからともなく包帯を持って現れた。
「オーウェン嬢は、いつもそこにいるな」
そう思ったのは、彼女がそばにいることが当たり前になった、二年目の冬だった。
雪の降る夜会の帰り際、ミラは静かに彼の前へ立った。
「殿下。少しだけ、お時間をいただけますか」
声には、いつもと変わらぬ落ち着きがあった。
何を言おうとしているのか、ほとんど察していた。
二年間そばにいた令嬢が、こういう改まった顔をするときの意味くらいは分かる。
「殿下のことが、ずっと好きでした」
返事を急かす様子も、涙ぐむ様子もない。
ただ、自分の中にある事実を差し出すような口調。
アルディーンの答えは、すでに決まっていた。
王太子妃は、恋情だけで選べるものではない。
家柄や政治的均衡、周辺国との関係まで見据える必要がある。
オーウェン伯爵家は堅実だが、王家に大きな利をもたらす家ではなかった。
何より、彼女を「そばにいて心地よい人」だとは思っていても、それ以上の感情を自覚したことは一度もない。
こうした告白も、初めてではない。
いつもと同じ言葉を伝えて、それで終わるはずだった。
「オーウェン嬢、光栄に思う。だが……」
「大丈夫です」
ミラは言葉を遮るように微笑んだ。
「お返事は求めていません。この想いに応えてほしいとも思っておりません。ただ、伝えたかっただけですから」
「しかし……」
「二年間、ずっと言いたかったのです。ようやく伝えられましたので、もう思い残すことはありません」
深く一礼し、ミラは振り返ることもなく、そのまま雪の中を去っていく。
残されたアルディーンは、妙な違和感を覚えた。
断る言葉を、まだ何ひとつ口にしていない。慰めも、感謝も、今後の関係についても伝えていない。
なのに、会話はもう終わっていた。
断る場所がないまま、次の日からミラの姿が消えた。
毎朝当たり前のように置かれていた差し入れの茶がなくなった。
執務室の前で待つ姿も、剣の稽古を見に来る姿もない。
廊下ですれ違えば穏やかに一礼するが、それ以上は何も言わずに通り過ぎていく。
最初の数日は、ようやく静かになった程度にしか思わなかった。
茶なら侍従が淹れる。怪我をすれば医務官がいる。
資料の整理も文官の仕事だ。彼女がいなくなったところで、困ることなど何もない。
それなのに一週間が過ぎる頃には、仕事の合間に何度も扉を見るようになっていた。
古い条約の奇妙な言い回しを見つけたとき、真っ先に彼女へ見せようとした。
珍しい地方菓子が届けられたときには、甘いものが好きだったことを思い出した。
何かをしてもらいたいのではない。
面白いものを見つけたときに、隣で笑う相手がいない。
それが、思っていたよりも味気なかった。
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