第一話
「遅いぞ」
改札を抜けた瞬間、聞き慣れた声が飛んできた。
「いや、まだ十分前だろ」
「俺は五分前には来ていた」
「それを世間では早すぎるって言うんだよ」
呆れながら言うと、目の前の男は少しだけ眉をひそめた。
瀬戸健斗。
幼稚園からの腐れ縁で、小学校、中学校、そして今通っている高校までずっと一緒の親友だ。
身長百八十六センチ。
サッカー部のエース。
女子人気は校内でもトップクラス。
なのに本人は全く自覚していない。
神様は不公平だと思う。
「行くぞ」
「はいはい」
俺たちは並んで歩き始めた。
朝の通学路。
いつもと変わらない景色。
いつもと変わらない親友。
そしてこの時の俺は、本気で思っていた。
今日も昨日と同じ一日になるのだと。
「また朝飯抜いただろ」
「なんで分かるんだよ」
健斗がコンビニ袋を差し出してくる。
中にはツナマヨおにぎり。
俺の好物だった。
「顔」
「エスパーか?」
「違う」
「じゃあなんだよ」
「飼育員」
「誰が動物だ!」
思わずツッコむ。
健斗は少しだけ笑った。
こいつが笑うのは珍しい。
女子が騒ぐのも分かる。
悔しいが絵になるのだ。
「金払う」
「いらん」
「払う」
「いらん」
「半分」
「いらん」
「頑固か」
「倒れられる方が面倒だ」
さらっと言う。
こういうところだ。
だからモテる。
本人だけが気付いていない。
通学路を歩いていると、前方から自転車が近付いてきた。
しかもスマホを見ながらだ。
「危な――」
言い終わる前に、俺の肩が強く引かれた。
「うおっ!?」
次の瞬間。
自転車がすぐ横を通り過ぎる。
風圧が頬を叩いた。
「前見て歩け」
「サンキュー」
「礼より反省しろ」
「してるって」
「してない顔だな」
呆れたように言う健斗に、俺は苦笑した。
本当に昔から変わらない。
こうして助けられるのも一度や二度じゃない。
だから俺も。
こいつが隣にいるのが当たり前だと思っていた。
◇
教室へ入ると、いつもの喧騒が迎えてくれた。
「歩」
聞き慣れた声。
振り返る。
佐々木結衣だった。
肩まで伸びた茶色の髪。
少し勝気な目。
クラス委員を務めるしっかり者。
中学からの付き合いで、なぜか昔から俺の世話を焼きたがる奴だ。
「おはよ」
「はい」
いきなりノートを押し付けられた。
「なんだこれ」
「昨日の数学」
「あ」
「書き漏らしたでしょ」
「……はい」
図星だった。
結衣は大きなため息を吐く。
「昼休みまでに返して」
「助かる」
「毎回言ってる気がする」
「気のせいだ」
「気のせいじゃない」
即答だった。
周囲から笑い声が上がる。
「ほんと世話焼きだよな」
「誰のせいだと思ってるの」
「俺じゃない」
「あんたよ」
また即答。
容赦がない。
だが本気で怒っているわけではない。
昔からこんな感じだ。
口は悪い。
でも面倒見はいい。
「歩」
「ん?」
「顔色悪いわよ」
「そうか?」
「そうよ。ちゃんとご飯食べてんの?」
「一応」
「一応?」
「健斗におにぎりもらった」
「……そう」
一瞬だけ。
結衣が視線を逸らした。
「なんだよ」
「別に」
そう言ってノートを俺の机に置く。
「ほんとにちゃんと食べなさいよ」
「はいはい」
「返事が軽い」
「気のせいだ」
「気のせいじゃない」
また即答だった。
俺は笑った。
こういうやり取りも日常の一部だった。
◇
昼休み。
俺はタカシたちと机を囲んでスマホゲームをしていた。
「そこだ!」
「うおっ、ずるっ!」
「勝てば官軍だ!」
タカシが勝ち誇ったように笑う。
「絶対今インチキしただろ!」
「証拠は?」
「ない!」
「じゃあ俺の勝ち」
「くそっ!」
周囲から笑い声が上がる。
男子高校生なんて大体こんなものだ。
くだらないことで騒いで。
くだらないことで笑う。
ふと視線を感じた。
見ると結衣が女子グループと話している。
だが。
時々こちらを見ていた。
目が合う。
すると結衣は慌てて視線を逸らした。
「?」
なんだったんだろう。
「おい歩、次お前な」
「あ、悪い」
俺はすぐにゲームへ意識を戻した。
だから気付かなかった。
女子グループの一人が、
「また見てる」
と笑ったことに。
そして。
結衣が真っ赤になっていたことにも。
◇
放課後。
チャイムが鳴る。
「歩ー!」
後ろからタカシが声を上げた。
「今日ゲーセン行こうぜ」
「無理」
「なんでだよ」
「部活」
「あー」
露骨に嫌そうな顔をする。
「お前、真面目だよな」
「普通だろ」
「俺なら帰る」
「帰れ」
「先生に怒られる」
「知るか」
そんなやり取りをしていると。
「歩」
結衣が近付いてきた。
「ん?」
「数学のノート」
「あ」
返し忘れていた。
「ごめん」
「予想通り」
「信用ないな俺」
「あると思う?」
ひどい。
でも否定できない。
結衣はノートを受け取りながら小さくため息を吐いた。
「じゃあね」
「おう」
軽く手を振る。
結衣は何か言いたそうな顔をした。
でも結局何も言わずに教室を出て行った。
「お前ら仲いいよな」
タカシがニヤニヤしながら言う。
「普通だろ」
「普通ねえ」
「なんだよ」
「別にー?」
嫌な笑い方だった。
俺は無視して部活へ向かった。
この時はまだ。
その日常が終わろうとしていることに気付いていなかった。
◇
「ただいまー」
玄関を開ける。
返事はなかった。
母さんは買い物だろう。
父さんは研究所。
いつものことだ。
「あー疲れた」
部活終わりの身体は重い。
とにかく喉が渇いていた。
俺はそのままキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開く。
冷気が顔に当たった。
「生き返る……」
飲み物を探していると、一つだけ見慣れないペットボトルが目に入った。
透明なボトル。
ラベルなし。
中身は綺麗なエメラルドグリーン。
「また父さんの試作品か」
俺は苦笑した。
父さんは研究者だ。
たまにこういう怪しいものを持ち帰る。
大抵は栄養ドリンクとか健康食品とか。
正直よく分からない。
「スポドリみたいなもんだろ」
持ち上げる。
冷えている。
今の俺にはそれだけで十分だった。
キャップを開ける。
ふわりと甘い香り。
「お、意外と美味そう」
ゴク。
ゴクゴク。
ゴクゴクゴク。
一気に飲み干した。
「うまっ」
フルーツ系の爽やかな味。
後味も悪くない。
ただ。
一瞬だけ。
舌がピリッと痺れた気がした。
「……?」
首を傾げる。
まあいいか。
父さんの作ったものだ。
たぶん大丈夫だろう。
たぶん。
◇
夜。
ベッドへ倒れ込む。
スマホが震えた。
健斗からだ。
『明日遅れるなよ』
短い。
相変わらずだ。
俺は笑いながら返信する。
『善処します』
数秒後。
『信用ならん』
即レスだった。
「ひでえ」
否定できないのが悔しい。
そんなことを考えていると、身体の奥が妙に熱いことに気付いた。
「……ん?」
熱?
風邪か?
いや。
なんか違う。
身体の中心がじんわり熱を持っているような感覚。
気持ち悪いわけじゃない。
でも変だ。
「疲れてんのかな……」
部活もあった。
きっとそのせいだ。
そう自分に言い聞かせながら目を閉じる。
そして。
俺は眠りについた。
◇
「……ん」
目が覚めた。
カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
いつもの朝。
のはずだった。
「……なんか身体重いな」
寝返りを打とうとして違和感に気付く。
胸の辺りが妙に重い。
布団でも絡まっているのかと思い、無意識に触れた。
柔らかい。
「……ん?」
もう一度触る。
柔らかい。
嫌な予感がした。
ものすごく嫌な予感だった。
俺は勢いよく飛び起きる。
その瞬間。
視界に入った自分の腕を見て固まった。
「……は?」
白い。
細い。
昨日までの俺の腕じゃない。
慌ててベッドから飛び降りる。
そして姿見へ駆け寄った。
鏡の中。
そこにいたのは。
「……誰だよ」
知らない少女だった。
いや。
面影はある。
髪型も昨日までと同じ。
でも。
顔立ちも。
肌も。
身体の線も。
全部が女だった。
「うわあああああああああああああ!!」
◇
「歩!?」
勢いよく部屋のドアが開いた。
母さんだった。
「どうしたの!?」
そして固まる。
「……え?」
「母さん!」
俺は半泣きだった。
「なんか変なんだよ!」
「変ね」
「そこじゃねえ!」
どう見てもそこだろ。
母さんは俺を上から下まで見た。
そして。
「可愛い」
「違う!」
「すごい!」
「違う!」
「写真撮っていい?」
「ダメだ!!」
◇
三十分後。
研究所から父さんまで帰ってきた。
「歩!」
部屋へ飛び込んでくる。
俺を見る。
固まる。
眼鏡を外す。
もう一回見る。
そして。
「……飲んだのか」
嫌な予感しかしなかった。
「何を」
「冷蔵庫の試作品」
昨日のペットボトルが脳裏に浮かぶ。
「あれか!?」
「飲んだな」
「飲んだ」
「全部か」
「全部」
父さんが頭を抱えた。
「どうなってるんだよ!」
「本来は若返り薬だった」
「失敗してるだろ!」
「大失敗だ」
即答だった。
「戻せるのか!?」
父さんは少し考え込んだ。
「理論上は可能だ」
「理論上!?」
「ただし時間はかかる」
「どれくらいだよ!」
「分からん」
「終わった……」
俺はベッドへ倒れ込んだ。
人生終了のお知らせだった。
◇
その時。
スマホが震えた。
画面を見る。
健斗。
心臓が止まりそうになった。
『改札いる』
そうだった。
待ち合わせ。
今日もある。
『遅いぞ』
通知。
『寝坊か?』
通知。
『返信しろ』
通知。
嫌な汗が流れる。
『何かあったのか?』
来た。
『家行くぞ』
来た。
「終わった」
俺は呟いた。
「何が?」
母さんが首を傾げる。
「健斗が来る」
数秒。
沈黙。
そして。
「大丈夫!」
母さんが笑った。
嫌な予感しかしない。
「全然大丈夫じゃねえ!」
叫んだ瞬間。
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
全員が固まる。
そして。
一階から聞こえてきた。
『おーい歩!』
聞き慣れた声。
『いるんだろ!』
俺の人生で。
今。
間違いなく。
一番会いたくない男だった。
『返事しろー!』
ドアが開く音。
足音。
階段を上がってくる。
近付いてくる。
確実に。
この部屋へ。
昨日までなら歓迎していただろう。
でも今は違う。
だって。
俺はもう昨日までの俺じゃない。
ドン。
ドン。
ドン。
足音が近付く。
そして。
俺の女体化生活は、最悪の形で幕を開けようとしていた。




