吉報
次の瞬間、そこにいた全員の意識が、一斉に入口へ向く。
悠々と歩いてきたのは、金髪にピアス、どこか夜の街の男を思わせる軽薄そうな笑みを浮かべた青年――序列第2位、薬師寺亮だった。
その登場はあまりにも自然で、あまりにも唐突だった。
まるで、初めからここに来ることを知っていたかのように。
「……薬師寺ィッ!!」
五十嵐の声が、低く沈む。
鬼面をつけていない今の彼女は、その鋭い眼光も相まって、普段とは別種の迫力を纏っていた。
だが、それでも薬師寺の足はまったく止まらない。
彼は闘技場の惨状をざっと見回し、瑠衣の腕の中で意識を失っている黒羽を見ると、わざとらしく眉を上げた。
「うわぁ……真白ちゃん、だいぶ派手にやられとるなぁ。そら早よ運ばなあかんわ」
「……あんたか。一体何の用だ」
瑠衣が短く問う。
薬師寺は、そんな瑠衣にへらりと笑ってから、まるで何でもない報告でもするかのような口調で言った。
「朗報や。黒羽真白の抹殺命令および除名処分――それ、いったん止まったで」
一瞬。
空気が、凍った。
「――何だと?」
最初に反応したのは五十嵐だった。
彼女の目が見開かれる。
驚愕、困惑、そして即座に燃え上がる怒気のオーラ。
「何故そんな事になっているッ!!」
今にも飛びかからんばかりの勢いで詰め寄ろうとした五十嵐を見て、薬師寺は目を丸くした。
「ん? あれ? てかお前……もしかして桃ちゃ――」
わざとらしく覗き込むように顔を寄せる。
「――五十嵐か⁉」
「……っ」
「いつもの鬼面はどないしたんや? ていうか、初めて顔見たけど……えらい童顔やったんやな。なんや、イメージと全然違うかったわ!」
けらけらと笑う薬師寺。
その瞬間、五十嵐の表情が固まった。
「…………」
彼女は反射的に、自分の口元と頬を隠すように片手を上げた。
ほんの一瞬だけ見えたその反応は、あまりにも“素”だった。
いつも鬼面の奥に隠されていた冷徹な規律の番人。
その印象からは想像もできないほど、人間臭い反応。
だが次の瞬間には、彼女は再び怒りでそれを塗りつぶす。
「答えろ、薬師寺っ!。何故そんな事になっている」
「いややから、俺が神凪に交渉したんや。真白ちゃんの抹殺命令を取り消してくれ、ゆうてな」
「会議の際に却下されたはずだ! 何故それを今になって……!」
五十嵐の声には、明らかな焦りが混じっていた。
規則が覆ることそのものに対する怒り。
いや、それだけではない。
自分が“決まったはず”と思っていた結論が、ひっくり返されたことへの苛立ち。
そして何より、それを知らされていなかったことへの屈辱。
薬師寺は肩をすくめる。
「それはな――」
そこで彼は、ふいに視線を瑠衣へ向けた。
先ほどまでの飄々とした雰囲気が、ほんの僅かだけ変わる。
「義影。神凪がお前を呼んどる」
瑠衣の眉がぴくりと動いた。
「……神凪が?」
「せや。真白ちゃんを治療したあと、二人で来い、やと」
その言葉に、瑠衣の胸中に僅かな緊張が走る。
神凪双馬。
SEU序列第1位。
混血新人類を単独で討ち取った唯一の男。
そんな存在が、自分と黒羽を名指しで呼ぶ。その意味が軽いはずがなかった。
「だから答えろと――ッ!!」
五十嵐の怒声が、空気を震わせる。
「何故だ! 何故そんな事になっている! 私に納得のいくように説明しろ、薬師寺ぃぃ!!」
今度こそ本気で詰め寄る五十嵐。
だが薬師寺は、まるで酔客を軽くいなすホストのような身のこなしで、その勢いをするりとかわした。
「まぁまぁ五十嵐。そないカッカすんなや。せっかくのべっぴんが台無しやで?」
「……ッ!」
「どや、これを機にその仮面を外すってのは? 案外、そっちの方が人気出るかもしれへんで?」
「ふざけるな!!」
五十嵐の怒気が一気に膨れ上がる。
「そんな事、できるわけがないだろう!!」
その叫びには、ただの羞恥や怒りだけではない、何かもっと根深いものが滲んでいた。
だが薬師寺はそこを深掘りしない。
軽薄に見えて、踏み込むべきではない線は見極めている男だ。
彼はぱん、と一つ手を叩くと、瑠衣へ顎をしゃくった。
「ほら、義影。はよ行き。真白ちゃん死んでまうで? 輸送機はもう手配しとるさかい」
「ああ、礼を言う」
瑠衣は短く答える。
だが、それだけでは終わらない。
「それともう一つ。幻影クラスターとかいうのが発生したらしい」
「ああ、その情報はもう入っとる」
薬師寺は笑みを消さずに答える。
その軽い口調に反して、目だけが鋭く細められた。
「それに関しては、俺が何とかするから安心せえや」
その一言には、不思議な重みがあった。
虚勢ではない。
序列第2位としての、揺るがぬ自負。
瑠衣は一瞬だけ彼を見つめ、そして頷く。
「……そうか。なら頼んだ」
薬師寺亮。
軽い。胡散臭い。何を考えているのかわからない。
だが少なくとも今この場で、彼が味方に回っているのは確かだった。
瑠衣が黒羽を抱え直し、その場を離れようとした――その時。
「――そうはさせるかッ!!」
五十嵐が吠えた。
次の瞬間、彼女の指先から放たれた無数の糸が、空気を裂いて瑠衣へ襲いかかる。
影縫いの糸。
獲物の動きを封じ、肉を裂き、時に骨すら断つ、五十嵐の得意技。
今の瑠衣なら単独であれば躱せる。だが――
(黒羽を抱えたままでは、避け切れないっ!)
瑠衣は即座に判断する。
抱えた黒羽を庇うように身を捻り、自らが受けるつもりで防御姿勢を取る。
だが、その直前。
「おおっと。桃ちゃん、いかんで」
ひゅっ、と風が鳴った。
次の瞬間、瑠衣の目の前に薬師寺が立っていた。
速い――と認識した時にはもう、彼の手が五十嵐の糸を素手で掴んでいた。
「な……っ!?」
五十嵐が目を見開く。
影縫いの糸は、ただの糸ではない。
触れれば指が裂け、下手をすれば腕ごと持っていかれる危険すらある。
それを、この男は。
まるで細いロープでも掴むような気軽さで、素手で掴み取った。
「くっ……!」
五十嵐が引こうとする。
しかし逆に、ぐいと強い力で引き返された。
「うおっと」
体勢を崩した五十嵐の背後へ、薬師寺が滑り込む。
そのまま彼は器用に糸を絡め取るように制し、五十嵐を後ろから羽交い締めにした。
「くっ!? 何をする薬師寺、放せッ!!」
「だーから言うたやろ?」
薬師寺の声は、どこまでも軽い。
「真白ちゃんの抹殺命令は一時的にストップや。規則大好きな五十嵐が、ここで規則破る気か?」
「……ッ!」
その一言が、決定打だった。
五十嵐の表情が憤怒に染まる。
だが、反論できない。
規律を何より優先する彼女にとって、“規則違反”という言葉は、自らの首を絞める鎖に等しい。
「義影! ほらはよ行かんかい!」
鴉羽の声が飛ぶ。
瑠衣は振り返らない。
黒羽を抱えたまま地を蹴り、鴉羽とともにその場を離脱する。
背後から追ってくる気配はなかった。
ちらと目を向ければ、五十嵐の部下たちは皆、身じろぎもできずに立ち尽くしている。
薬師寺が出てきた時点で、自分たちではどうにもならないと悟ったのだろう。
(……ますます底が知れない男だ)
だが今は、それを考えている場合ではない。
瑠衣は基地の外に待機していた輸送機へ飛び乗った。
機内で医療班がすぐさま黒羽を担架へ移し、応急処置を始める。
血まみれの彼女の姿を前にしても、彼らの手は驚くほど冷静だった。
「かなり危険な状態です!」
「輸血の準備急げ! 内臓損傷の可能性あり!」
「脈拍低下! でも反応はある、まだいける!」
怒号が飛び交う中、瑠衣はただ壁にもたれ、無言でその様子を見ていた。
助かるのか。
そんな問いを口にするのは簡単だ。
だが今、そんな言葉に意味はない。
助けるしかない。
それだけだ。
輸送機は第一療養所へ向け、夜空を裂いて飛ぶ。
その間、瑠衣は一度も目を閉じず、黒羽の様子を見守った。
◇
黒羽は、死ななかった。
第一療養所に搬送された直後、彼女はそのまま緊急治療室へ運び込まれた。
医師たちでさえ、一時は表情を強張らせるほどの重傷だったらしい。
だが、彼女は混血新人類に等しい領域に片足を突っ込んでいるような、異常な回復力を見せた。
一日で意識を取り戻し。
一週間で、退院も視野に入るほどまでに回復した。
その報告を受けた医師が、半ば呆れ、半ば畏れるように呟いていたのを瑠衣は覚えている。
新人類は、通常の人間よりも回復力は高い。とはいえ千差万別でありここまでの回復力は、前例がないという。
「……信じられん。人間の治癒速度じゃない」
だが、それは瑠衣にとって驚くべきことではなかった。
黒羽真白はそういう女だ。
常識で測れる相手ではない。
そしてその一週間――。
瑠衣はSEU基地の一室に“待機”という名目で留め置かれていた。
実質、軟禁だった。
窓のない部屋。
外へ出るには必ず監視の視線がある。
武装刀も一時預かり。通信も制限。自由行動は許可制。
建前は、事情聴取と安全確保。
本音は、監視。
五十嵐にとって、自分は黒羽を庇った危険人物。
上層部にとっても、元序列3位を抱えて逃走を試みた隊員として、扱いは難しいのだろう。
その部屋に、何度か薬師寺が顔を出した。
いつも通り軽い足取りで、まるで面会というより差し入れでも持ってくる友人のような顔をして。
「よう、軟禁生活は快適か?」
「見てわからないか? ずっと監視されてうざったい事この上ないな」
「せやな。全然快適そうやないわ」
そんなふうに笑っていたが、肝心な事を聞くと、薬師寺は巧みに核心を避けた。
「何故処分が止まった?」
「言えへん」
「神凪は何を考えている」
「それも言えへん」
「あんたは何を知っている」
「いっぱい知っとる。でも言えへん」
「……」
殴りたくなるほど人を食った返答だったが、それでも薬師寺は敵ではない。
それだけは確かだった。
帰り際、彼は珍しく真面目な声音でこう言った。
「こないだも言うたけどな。真白ちゃんが意識取り戻して、ちゃんと回復したら、神凪のとこへ行くんやで」
扉に手をかけたまま、振り返らずに続ける。
「真白ちゃんの今後は、義影にかかっとる。俺ができるんはここまでや。……ほな、吉報を祈るわ」
その言葉だけが、妙に重く胸に残った。
(黒羽の今後が……俺にかかっている)
それはつまり。
神凪が、何らかの形で自分に選択を迫るということだ。
責任。
証明。
あるいは覚悟。
何を求められるにせよ、簡単な話では済まないだろう。




