スラム
星風との別れを告げたあと、瑠衣は輸送機に乗り込んだ。
機体は天之都の結界範囲外を越え、更に荒野を飛び越え、やがて、濁った空気と鉄錆に包まれた地帯へと降下していく。
振動とともに扉が開いた瞬間、重く乾いた風が顔を撫でた。
降り立ったその場所は――別世界だった。
荒野。
崩れかけの家々。
至るところに放置された廃材と、瓦礫の山。
足元の地面すらひび割れ、あちこちに焦げ跡が残っている。
遠くで、幻影避けの護符らしき紙が風に吹かれて舞っていたが……その効力も、今や疑わしい。
「ここが、スラムか。もはや廃墟だな」
思わず呟いた声が、乾いた空に吸い込まれていった。
これまで見てきた都市――天之都の威容、大商丁の活気。
それらと比べれば、ここはあまりにも酷い。
まるで、国が存在を忘れた“切り捨ての地”。
整備も、支援も、秩序すらもない。
ただ幻影に喰われるのを待つかのように、放置された街。
「初っ端の配属先が、これか」
皮肉めいた笑みを浮かべながら、瑠衣は肩をすくめる。
だが、落胆はない。
むしろ、心は静かに研ぎ澄まされていた。
「――やるべきことを、やるだけだ」
この地がどれだけ腐っていようと。
どれだけ理不尽であろうと。
今の自分には、迷っている時間すら無駄だ。
輸送機は瑠衣を下ろすと、そのまま次の目的へと飛び去って行った。
荒野の中にぽつりと立つ、鉄骨と瓦礫が積み重なっただけの簡易基地。
歪んだ鉄骨とコンクリートの塊のようなその建物へ、瑠衣は迷いなく歩き出す。
この腐敗した拠点に、どんな連中が待っているのか。
そして――なぜ自分がここに送られたのか。
その答えは、すべて中にある。
埃っぽい風が吹き抜ける中、基地内へと入ると男が片手を上げて声をかけてきた。
「よう。お前が噂の新人か」
無精ひげを生やした男は、瑠衣を値踏みするように眺めながら、軽く口角を上げた。
「その顔……生き急いでそうだな。あるいは──死に損なった口か?」
嫌味とも冗談ともつかない一言。
だが、ここではそれが日常の挨拶らしい。
瑠衣は足を止め、男の視線を真正面から受け止めた。
「どっちかと言えば、“生き残った”方だな」
「ほう、面構えは合格だな」
男は鼻を鳴らし、懐から煙草を取り出すと、火をつけた。
その煙の中で、まるで演出のように言葉を継ぐ。
「俺は鴉羽一平。序列は第840位。……ま、見ての通り底辺だが、一応この拠点のまとめ役ってとこだ」
「ずいぶん正直な自己紹介だな」
「信用されない場所ではな。正直者は早死にする」
くっくっと笑う。
「で? いきなりここに飛ばされるとは、よほどの問題児か、お偉いさんの機嫌でも損ねたか。何やらかした?」
「さあな」
短く答える瑠衣。
しかし、その無表情の裏には、何かを測るような静かな警戒がある。
鴉羽は片眉を上げた。
「おいおい、ここは“前科披露会”が入隊儀式だってのに」
「だったら、あんたの武勇伝から聞かせてくれよ」
「残念、俺の武勇伝は──あんまり血なまぐさくないんでな。面白くないぞ?」
「……なら、興味ないな」
即答だった。
鴉羽は目を丸くして、数秒後に吹き出した。
「ははっ、こりゃ一本取られたな。お前、案外面白い」
肩をすくめながら、ふと表情を緩めた。
「さて、冗談はここまでにして……そろそろ名前くらい教えてくれないか? “噂の新人”さんよ」
ようやく、瑠衣は名乗る。
「義影瑠衣だ」
短く名乗り、周囲に目をやる。
人影はまばら。隊員の数は、思った以上に少ない。
7名、といったところか。
「……これだけか?」
「ああ。これで全員だ」
鴉羽は肩をすくめ、乾いた笑いを漏らした。
「何せ、ここは刑務所みたいなもんだからな。表向きは前線基地、実態は左遷先。《《上から目をつけられた問題児を押し込める場所だ》》」
「左遷……?」
「そう。で、運が悪けりゃ殉職」
鴉羽の冗談めかした口調とは裏腹に、その目は笑っていない。
「現場で死ねば事故扱いだ。書類一枚で終わり。上層部にとっちゃ、これ以上都合のいい処理はねえ」
「……除名すればいいだろう。わざわざ危険地帯に送る意味があるのか?」
瑠衣がそう言うと、鴉羽は一瞬だけ言葉を切り、地面に落ちた小石を蹴った。
「除名ってのは案外面倒でな。手続きも多いし、下手を打てば功労者を切ったって話になる。それに、身内が騒げば面倒が増える。SEUという組織は規律に厳しい分、その辺りも厳しいんだよ」
そして、淡々と続ける。
「だから、こうだ。重要任務に再配置。聞こえはいいだろ?」
吐き捨てるような言葉だった。
「要するに――俺たちは《《死ぬ予定だった奴らの吹き溜まり》》ってわけさ」
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
「このスラムには下級幻影だけじゃねえ。中級、運が悪けりゃ上級も出るって噂だ。補給も人員も最低限。いつ死んでも不思議じゃない」
鴉羽は指を三本立てた。
「今月だけで、もう三人殉職だ。しかもそのうち1人は俺と同じ、序列がトリプルナンバーの実力者だ」
その言葉に、瑠衣は眉一つ動かさなかった。
スラムがそれほどまでに過酷な環境だというのは想像に容易い。
けれど、頭の片隅に、どうしても引っかかっていた。
(なぜ、俺がここに?)
問題を起こした覚えはない。
模擬幻影訓練も突破し、座学もすべて修了したばかり。
それなのに、説明もなく、いきなり“吹き溜まり”に放り込まれた。
(……偶然か?)
だが、そんな疑問も、言葉にする前に潰される。
「あ、そうだ。先に忠告しとく。ここで生き残りたきゃ、余計なことは考えるな。
特に《《上の意志には絶対に逆らうなよ》》」
「上?」
瑠衣が首を傾げると、鴉羽は少しだけ声を潜めて言った。
「……このスラムの最高責任者だよ。
名前ぐらいは知ってるだろ。黒羽真白上官だ」
その瞬間、脳裏に一つの記憶がよみがえった。
訓練場でのあの少女。
白いメイド服に身を包み、嬉々としてナイフを振るっていた。
殺気を遊びに、狂気を静寂に溶かしたような存在。
(……黒羽真白)
今まで結びついていなかった。
だが、聞いた瞬間、すべてが急につながった気がした。
訓練場での奇妙な空気。
瑠衣に向けられた、あの興味深げな視線。
(まさか……)
胸の奥がざわつく。
いや、ざわつきすら遅すぎたのかもしれない。
(――まさかあの少女が?)
「真白上官の命令は、命令ってレベルじゃねえ。
言葉一つで、配属も任務も覆る。
あの人が黒と言えば白も黒だ。逆らえば、面倒なことになる」
鴉羽の言葉が続く。だが、瑠衣の思考はその名前に釘付けだった。
(……だからか)
納得と、答え合わせのような冷たさが、背筋を這い上がる。
訓練場で刃を止めた時。
冗談のように「気に入った」と言われたあの一言。
そしてその直後に告げられた、突然の異動。
まさか――という疑念は、もう否定できなかった。
「……忠告、感謝するよ」
そう口にした瑠衣を見て、鴉羽は意外そうな顔をした。
「……お前、わりと素直なんだな。もっとツンツンしてるかと思った」
「素直じゃないと、生き残れない場所なんだろ?」
瑠衣はそう言い、わずかに目を伏せる。
今まで引っかかっていた疑問が、急に冷たく収束していく感覚があった。
訓練場での邂逅――それが、始まりだったのか。
(黒羽真白……)
その名を、改めて心に刻む。
(試しているのか。それとも――殺しに来たのか)
答えはまだ出ない。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
(あの女が関わってるなら……俺の配属は、恐らく偶然じゃない)
瑠衣は内心で静かに呟いた。
今まで結びついていなかったが、「スラムの最高責任者=黒羽真白」と聞いた瞬間、すべてが腑に落ちた。
偶然ではない。
これは、選ばれた結果なのだ。
――彼女の、気まぐれで。
「……なるほど、どうやら俺は、遊び相手”として目をつけられたらしい」
「は?」
「いや、なんでもない。こっちの話だ」
苦笑したくなるような状況だった。
だが、瑠衣の思考は冷静だった。
むしろ――利用できると考えていた。
黒羽真白。
SEU序列第3位にして、狂気の象徴。
だがその裏にあるのは、退屈と飢え。
彼女は恐らく、自分より強い何かを求めている。
訓練場での一撃。
あの瞬間に彼女が見せた表情――それは、“怒り”でも“敵意”でもない。
明らかに、“歓喜”だった。
戦いを、遊びと捉えている。
血の匂いも、命のやり取りも、彼女にとっては退屈を満たす娯楽に過ぎない。
そこでふと、瑠衣は以前黒羽について星風が言っていたことを思い出す。
『はい。謎の多い人で……私も詳しいことは知らないんです。ただ、噂によると『理想のご主人様』を探してるとかで、誰かに仕える形で任務に就くんですけど……不思議なことに、その人たち、みんな謎の死を遂げてるって……』
(……そうか。あいつは、“ご主人様”を探してるのか)
その結論に辿り着いたとき、瑠衣の中で思考の全てが繋がった。
当時は半ば冗談として受け流していた。
だが、星風は珍しく、真剣な顔をして続けていた。
その記憶が、今になって重く胸に落ちる。
事故死。
戦死。
任務中の不慮の事故。
記録上はきっとそう処理されているのだろう。
だが、瑠衣には理解できてしまった。
それは偶然ではない。
“選別”の結果だ。
黒羽にとって、“主人”とは玩具ではない。
同等でも、従うだけの存在でもない。
――上に立つ者。
だが、もし期待を裏切れば。
もし飽きれば。
もし、弱いと判断されれば。
その結末が、“謎の死”なのだ。
背筋に、ひやりとしたものが走る。
(なるほどな……)
ここまで条件が揃えば、答えは一つしかない。
瑠衣は、静かに息を吐いた。
それは、“主従”という歪んだ理想に縛られた狂気。
黒羽にとって、自分よりも圧倒的に強い“主人”に仕えることこそが、彼女の生きる価値であり、願望なのだろう。
――面白い。
その瞬間、瑠衣の口元に小さな笑みが浮かんだ。
(つまり――俺が、理想のご主人様になれればいい)
彼女に気に入られれば、遊び相手として扱われる。
だが、それでは不十分だ。
同等でもなく、下でもない。
上に立たなければならない。
黒羽が心の底から従いたくなるような存在。
すべてを委ねたくなるような、絶対の“格”。
彼女を“味方”にするためには、その領域まで到達する必要がある。
(大変だが、やってみる価値はあるか)
瑠衣はすでに知っていた。
黒羽の影響力は、ただの序列数字以上のものを持っている。
上層部さえ口出しできない“特例”。
規律すら捻じ曲げる“狂気”。
その全てが、“味方”になった時にこそ最大の武器となる。
(敵に回せば厄介だが、手懐けられれば――これ以上頼もしいことはない)
そのために必要なのは、“力の証明”。
ただ強いだけでは足りない。
真白が“従いたい”と思えるような、“王”としての格を見せつけなければならない。
――無言でねじ伏せる、圧倒的な力。
それこそが、最初の鍵だ。
(わざとらしく振る舞う必要はない。結果だけを突きつけてやればいい)
幻影を瞬殺した時のように。
誰も理解できない速さで、誰にも真似できない精度で。
徹底的に、静かに、“格”を植えつける。
それを見たとき――彼女は、動く。
飢えた獣のように。
自分よりも強い“何か”に惹かれて。
そして、自ら進んでその“飼い犬”になる。
(……全く狂ってやがる)
思わず、吹き出しそうになる。
あの少女を味方に付けるだなんて本気で思っているのは自分ぐらいだろう。
だが、瑠衣は心の中でその狂気に対し、静かな興味を抱いていた。
(なら、こっちも徹底的に乗ってやる)
黒羽の理想のご主人様になってやればいい。
そうなれば、彼女はきっと笑って、こう言うだろう。
「はい、ご主人様」――と。
スラム――命を棄てる場所。
その吹き溜まりの中で、誰よりも鮮烈に、強く、ただ一人、支配者として立つ。
その時が、狂気のメイドとの“主従ごっこ”の始まりとなる。
瑠衣の目が、微かに光を帯びた。
静かなる征服者としての覚悟が、確かにその中に宿っていた。




