第1話 坂本 葵
裏庭は、夕方のやわらかな光に包まれていた。
空はオレンジ色に染まり、木のフェンスも、小さな紫陽花の花壇も、芝生に伸びる長い影も、すべてがどこか暖かく、優しい雰囲気に見えた。
庭の真ん中では、子供の楽しそうな笑い声が響いていた。
弘志は娘の腕を持ち、まるで重さなどないかのように空へ持ち上げた。ワイシャツの袖は肘までまくられ、少し乱れた茶色の髪が、彼がくるくる回るたびに揺れた。
「ほらー!」
少女は大きな声で笑った。
葵はまだ六歳だった。明るい茶色の髪が揺れ、青い瞳は生き生きと輝いていた。
「もう一回!もう一回!」
弘志は笑いながら、もう一度彼女を持ち上げた。
玄関のところから、雪子が二人の様子を見ていた。黒い髪を簡単に後ろで結び、腕を組んで少し真面目な顔をしていたが、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
「二人とも、気をつけてね。」
葵はすぐに振り向いた。
「ママ!一緒に遊ぼう!」
弘志も笑って言った。
「雪子も来なよ!」
雪子は笑いながら首を振った。
「私は晩ご飯を作ってるの。カレーライスよ。葵の大好物。」
葵の目がぱっと輝いた。
「ほんと!?」
弘志は親指を立てた。
「これが幸せってやつだな。」
その後、三人は食卓に座っていた。
カレーの香りが家の中いっぱいに広がり、温かくて懐かしい匂いが、どんな家でも“帰る場所”のように感じさせた。皿からゆっくりと湯気が立ち上っている。
葵はまるで宝物を見るように自分の皿を見つめた。
「このご飯、大好き…」
彼女は手を合わせた。
「いただきます。」
三人は食べ始めた。
弘志は一口食べて、満足そうに息を吐いた。
「俺より幸せな男は、この世界にいないな。」
雪子は少し眉を上げた。
「あら、本当に?今日はずいぶん機嫌がいいのね。」
弘志は少し笑った。
「会社が、俺を昇進させたいって。」
少し間を置いてから続けた。
「ただ、職場が少し遠くなるんだ。」
葵はすぐに顔を上げた。
「パパ、遠くに行っちゃうの?」
弘志は箸を置き、落ち着いた目で彼女を見た。その笑顔は、優しくて、でもしっかりした、まるで約束のような笑顔だった。
「葵、俺は必ず家に帰ってくるよ。」
その時――
変な音が鳴った。
トゥルルル、トゥルルル、トゥルルル。
葵は瞬きをした。
「今の音、なに?」
父を見た。
弘志は口を開いた。
でも、声は出なかった。
彼の笑顔は、そのまま止まった。
世界が止まったようだった。
トゥルルル、トゥルルル、トゥルルル。
――次の瞬間。
葵は目を開けた。
目に入ったのは、自分の部屋の天井だった。ベッドの横の目覚まし時計は、ちょうど朝の七時を指していて、アラームが鳴り続けていた。
トゥルルル、トゥルルル、トゥルルル。
葵は手で顔を覆い、数秒間そのまま黙っていた。
それから手を伸ばして、目覚ましを止めた。
部屋は静かになった。
部屋の中はシンプルで、少し整理されすぎているくらいだった。小さな本棚には学校の教科書ときれいに積まれたノート。飾りはほとんどない。机の上にはデスクライトと、横向きに置かれた写真立て。そしてドアの近くには通学カバン。
部屋は空っぽではない。
でも、思い出でいっぱいという感じでもなかった。
葵はベッドから起き上がり、あくびをした。
「準備しないと…」
制服を持って、バスルームへ向かった。温かいお湯が肩に落ちる中、彼女はぼんやりとタイルの壁を見つめていた。
着替え終わって部屋に戻ると、鏡の前で立ち止まり、肩まで伸びた茶色の髪を丁寧にとかした。
(今日の授業、なんだっけ…)
数秒後。
(ああ…思い出した。)
カバンを持って、階段を下りた。
キッチンには緑茶の香りが少し残っていた。テーブルの上には朝ごはんと、小さなメモが置かれていた。葵は紙を手に取った。
「ちゃんと朝ごはんを食べて、学校も頑張ってね。お弁当はキッチンにあります。」
葵は小さくため息をついた。
「もう十六歳なんだけどな、ママ…」
それでも、少しだけ笑みが浮かんだ。
彼女は一人で朝ごはんを食べた。家の中は静かで、遠くで鳥の鳴く声だけが聞こえていた。
食べ終わると、お弁当をカバンに入れ、家を出て駅へ向かった。
足取りは落ち着いていて、ほとんど無意識のようだった。
駅の近くまで来たとき、後ろから声がした。
「葵ちゃーん!」
振り向くと、黒髪を後ろで結び、少しずれたメガネをかけた少女が走ってきた。
「間に合った…電車間に合ったよ!」
葵は笑った。
「またゲーム遅くまでやってたの?ひな。」
ひなは得意そうに指を立てた。
「うん!でもボス倒したんだよ!」
嬉しそうに笑う。
「すごく面白くて…ちょっと悲しくて…でも達成感あって!」
葵は少し笑った。
「本当にそういうゲーム好きだよね。」
「ストーリーRPG最高だよ!」
その時、電車が近づき、風が二人の髪を揺らした。
「ゲーム貸そうか?」とひなが聞いた。
「うーん…いいや、大丈夫。」
「前はゲーム機持ってたじゃん。」
葵は一瞬だけ黙った。
「あれは…お父さんのだったから。」
ちょうどその時、電車が到着した。ひなは友達の表情の変化に気づいた。
「ご、ごめん、葵ちゃん…」
葵はやさしく笑った。
「大丈夫だよ、ひなちゃん。」
ドアが開き、二人は電車に乗った。電車の中で、葵は窓の外を見ていた。街の景色が、まるで流れる背景のように通り過ぎていった。
学校の近くで電車を降りると、二人は星見市立高校へ向かって歩き始めた。
「放課後、一緒に来ない?」とひなが聞いた。
「何するの?」
ひなは手を合わせた。
「ゲーム買いたいんだけど、一人で行くのちょっと嫌で。」
葵は目を細めた。
「本当にゲーム?」
ひなが答える前に、後ろから声がした。
「おはよう、二人とも!」
振り向くと、少し赤みがかった髪の少女が、自信満々の笑顔で歩いてきた。
「美緒ちゃん?」
「二人とも遅いよ。」と美緒が言った。
「美緒もね!」とひなが返した。
葵は小さく笑った。
三人は学校に入り、靴を履き替え、二年B組の教室へ向かった。
教室の中では、あちこちで小さなグループが話していた。三人は後ろの席に座った。
「後で数学手伝ってくれる?」と美緒が聞いた。
「いいよ。」
「あと、化粧品のお店にも寄りたいな。」
ひなが手を挙げた。
「葵は先に私と行くの!」
美緒はにやっと笑った。
「どうせエロゲー買うんでしょ?」
ひなは一瞬で顔が真っ赤になった。
「ち、違うよ!」
美緒は肩をすくめた。
「私はそういうの分からないけど、藤本先輩だったらちょっと考えるかも。」
葵は不思議そうに美緒を見た。
「武夫先輩?好きなの?」
美緒は少しだけ笑った。
「すごいよ。かっこいいし、背高いし、三年生で、演劇部のエースだし。葵が興味ないみたいで良かった。ふふ。」
葵は笑った。
それから美緒が聞いた。
「葵は?どんな人がタイプ?」
葵は少し考えた。
「うーん…あんまり考えたことないかも。」
「つまんないの。」とひなが言った。
その時、先生が教室に入ってきた。
「授業の前に、転校生を紹介します。」
先生はドアの方を指した。
「入ってください。」
一人の男子生徒が入ってきた。
背が高く、黒い髪。落ち着いた雰囲気。
少し恥ずかしそうで、でもどこか自信もあるような表情だった。
教室の前で止まった。
「おはようございます。山本蒼真です。十六歳です。走ることとアクション映画が好きです。よろしくお願いします。」
そう言って、お辞儀をした。
教室から拍手が起きた。
美緒が小さな声で言った。
「ごめんね、藤本先輩。ライバル登場かも。」
葵は小さく笑った。
蒼真は顔を上げた。
そしてその瞬間、彼の目が葵と合った。
数秒間、世界が静かになったようだった。
二人とも、目をそらさなかった。
先生の声が聞こえるまで。
「蒼真、後ろの席に座ってください。」
その瞬間が終わった。
美緒がにやにやしながら葵を見た。
「今の見た。」
葵は瞬きをした。
「な、何を?」
ひなが答えた。
「二人、ずっと見つめ合ってたよ。」
葵の顔が少し赤くなった。
「そ、そんなんじゃないよ!」
でも授業が始まった後も、葵は何度か、窓際の席に座った彼の方をこっそり見てしまった。
そして、心の中で静かに思った。
(なんで…あんなふうに見つめ合ってたんだろう。
作者です。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
感想をいただけると、とても嬉しいです。




