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その流子の一カ月を少しだけ深く追いかけていく。
まず、下北沢に行くことはなかった。流子は少し時間ができるとその度ごとに新宿の紀伊國屋書店に通った。ラノベから学術書まで幅広く気に入ったものを買い、それを片端から読んでいく。
ノートに読書日記をつけ、名言集のようなものに仕立て上げた。
実桜は母親にお弁当を作ってもらい、毎日赤坂見附まで行っていた。
だから、実桜とはほとんど顔を合わせなかった。
合唱練習もさぼった。「私用で」と断った。本を読むのに忙しい。
水泳は一人で行ったし、昼ご飯も一人で食べた。
「流子、実桜と喧嘩してんの?」
母親は心配そうに流子に聞いた。
「いいや。実桜が忙しいだけだと思う」
「忙しいのは流子の方でしょ?」
「私は……まあ、ほどほどだよ。中だるみもあるし」
「そうは見えないけど。……まあいいわ。流子のことは信頼しているから」
母親に言われてもな、と、流子は思った。
体を動かさないと死にそうだったし、本を読まないと息ができない病気に罹っていたりもした。
西原のスポーツセンターまでの道のりは、うだるほど暑く遠かった。
母方の実家に帰るアクティビティも、流子はパスして、夏休みの父親と一緒に過ごした。
父親と話すことはあまりない。実桜はしばしば父親と話すが、流子は父親のひととなりが今一つわかっていなかった。そもそも父親の、医師という職業に、流子はあまり世話になったことがない。
夕食は協力して豚汁やらカレーやらを作って、二人で食べた。
部屋を掃除し、窓を磨き、シンクの曇りを取った。
父親の夏休みの中日に、父親は流子に「少し旅行でもしないか?」と聞いた。
「どこ行くの?」
「松本」
「長野?」
「そう」
「遠いんじゃない?」
「興味ないか?」
流子は首を振った。淡泊な返事だったと反省した。でもその淡泊さが、今の流子のテンションなのだ。
実桜はそれでもいそいそとリュックサックに旅行グッズを入れ、父親の気まぐれに付き合う。勉強したいなとか、泳ぎたいなと思わなかったわけじゃない。
でも、母親の実家に実桜と一緒に帰るなんて考えられないと思う反面、父親にはなんとなく寄り添いたくなった。父親からすると流子へのサービスだが、流子にとっては面倒でもある。でもそれが、流子が父親のことを知るための、一つのステップなのだ。
山肌が紺と灰。先鋒が天上に突き刺さる、空気の綺麗なところだった。
松本に来るのは、初めてだった。
父親は何回か来ているようで、行列のできる鴨せいろの店を迷わず選んで列に並んだ。
そこここで水があふれ流れている。水路が張り巡らされた松本の町は、清澄だった。
「北杜夫って知っているか?」
「『楡家の人びと』」
「そう。旧制松本高校の出身らしい」
「旧制高校って、響きがいいよね」
「北杜夫、特別な人だったんだろう」
「そう? なんか野蛮って感じがするけど。でも『どくとるマンボウ青春記』は、ちょっと羨ましかった。自分って小粒なんだなって思ったよ」
「実桜と比べたら誰だってそうさ」
「お父さんも実桜を評価するのね」
「あいつは異常だよ」
古本屋を併設している喫茶店で、流子はリンゴジュースを飲んだ。
父親は家では吸うことのないタバコを吸った。今にも片手から崩れてしまいそうな父親は、タバコとコーヒーで意識を保っていた。目が見えないわけじゃないけれど、彼の目には何も映っていなかった。流子は、「お父さん、一本くれない?」と聞いてみたかった。喉元までその言葉が出かかった。それは法律違反ではなく、道連れの提灯行灯だった。暗闇に光が吸い込まれていく。でも、流子はそういう風に言わなかった。父親は二本目に火をつける。
席を立ってぱらぱらと古本をめくる。瀟洒な店だった。広くて天井が高い。
「流子は、好きな人とかいないのか?」
「お父さん、そんなこと聞くようでは引退も近いと、そう思っていいですか?」
「お前が結婚して、実桜が医者になったら、勇退も勇退。完全隠居よ」
「お父さんはどうやって、あの燕みたいなお母さんを捕まえられたの?」
「それには秘訣が、あってだな、と言いたいんだが、ようわからんのよ」
「まあ、お母さんかわいいし、頭もいいもんね。お父さんが選んだと言いつつ、選ばれたっていうのが本筋なんでしょ?」
「でも、流子が家族じゃ一番綺麗だ」
流子は息を呑んだ。そういう本音を父親から聞いたのは、初めてだった。それに少し性的でもあった。嫌悪するわけじゃないけれど、やはり驚いた。流子はその瞬間に自分の精神のゆらぎと、自分の身体の起伏を意識した。
父親はタバコを吸って、彼方を見ていた。娘のことなどどうでもいいというように。
昭和のコミュニケーションと思うと、かなりうざったいが、時代性を取り外してみると、父親は一つの気づきを流子にもたらしたということになる。
流子は、父親の庇護下の中で、いまだ子供だった。
例えば父親を恨んで、はらいせに体を売り傷つけたとしても、それはその体が父親に属するということを強く意識させる、単なる原点回帰にしかならない。
卵の殻の中にいる。その殻を破ることを求められているのだと、暗黙の裡に理解した。
タバコを吸いたいと思うのは、まだ子供でいたいということだし、自分の未成熟を心中強く拒否するのは、未熟であることで与えられる快が、あまりにもつまらないものだと気づくから。
「少しやつれているところなんか、男好みするだろうな」
「お父さん、お黙りあそばせ」
「すまない。少し冗談が過ぎた。でも、流子はびっくりするほど美人だ。お母さんの若い頃より、ずっと」
「それは……、お父さんの遺伝子がいいんじゃない?」
「面倒見もいい。実桜なんかは、すぐ冷酷になりそうだから怖いな」
「よく見ているのね」
「見ていてもどうしようもない。君たちを導くことはできない」
父親は三本目に火をつけた。コーヒーをお替りし、流子はもう一杯リンゴジュースを賜った。
「娘に対する父のスタンスというのは、難しいよ」
「種明かししてくれるのね?」
「娘が、SNSでコアなフォロワーを獲得していても、父親はどうすることもできない。父親というのは本質的に素朴な存在だし、高度に情報化された娘の脳内に、足場を築くことはとても難しい」
「それは、そう」
「細い道を歩くと転ぶから、みんなが歩く広い道を歩んでほしいと思うよ」
「お父さんは、『それはお前の勝手だ』説は支持する?」
「そうとしか言えない時はある。流子が下北沢に受験する時も、何を好き好んでそんなに厳しい道を歩むんだと思ったよ。お母さんの適切な誘導で、流子は果たして上昇気流に乗ったが、そうじゃない場合も考えられた。ぶん殴ってでも止めたい時は、私は、どうするのだろうな」
父親は何かを待っているようだった。スマホをいじり、時折画面を見ていた。
「お父さん、誰かと約束している?」
「いや、……実はそうなんだ」
「先帰るよ。女の人じゃないよね?」
「大学時代の友達がね、故郷の松本でクリニックを開いていて」
「女医さんじゃないよね?」
「男性さ。流子、ありがとう」
流子はにっこりと笑って手を差し出した。父親は何も言わずに流子に四万円握らせた。金額は高いのに、流子は足りないとすら思った。何に使うというわけでもないのに。
熱い夏、あずさの列車は人で一杯だった。
予約していた座席に座って、流子はコンビニで買ったアーモンドチョコレートと炭酸水を用意して、カバンから取り出した本を読みながら三時間ばかりの新宿への旅を充実したものにした。
時折メモを取りながら、イヤホンで音楽をつけて。
どこかのCM女優かと紛うばかりのアンニュイな感じで。
気づいたら眠っていて、東京駅までリープしていた。
何のこと何のことと、改札で不足分の運賃を払って東京駅に降りる。
七時の東京駅は油を垂らしたように鬱陶しい空気が充満していた。
流子は笑い声を抑えるのに必死だった。
早足で歩くと、向こうから当たりに来る人がいる。はらりと避ける。イノシシは酔っ払わない、だから、酔っているのは流子だった。炭酸水のせいだろうか?
家族のことも、学校のことも考えず、今、財布の中には四万円あって、それが自由への切符だと思いたかった。中央線の列車の音が、近づいていた。片道だけの切符。
足が前に向きそうなところで、手をつかまれた。
「三条先輩!」
文継だった。