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実桜は将棋部に入った。部費で将棋AIを作ろうと息まいている。そして、部活の同期もかなりやる気らしい。
指し将棋に関して、実桜はそんなに強くない。プログラミングもほどほど。でも、やる気だけは十分にある。美術部のどちらかというと空間的な世界理解より、言語とロジックがルールの将棋部の方が向いていると、実桜は判断したらしい。
関東の高校の将棋部は北参道が強い。夏の大会二回戦で当たり、赤坂見附は全員ボコボコにされた。
実桜は末席をいただいた。いいとこなしで、小さくなっていた。
流子は実桜を見守りがてら、下北沢の将棋部の応援に、浅草の会場まで行った。実桜がしょんぼりしているのを、よしよしと甘やかす役目を自らに任じていた。
実は、流子は結構将棋が強い。詰将棋を解くのが好きで、十三手詰めくらいなら、時間がある時だったらサクッと三十問くらいいける。
実桜の本棚に『りゅうおうのおしごと!』をつっこんだのも流子。
DVDを借りて「聖の青春」を一緒に観たりする。
実桜の推しの棋士は藤本渚さん。
流子の推しは永瀬拓矢さん。
お姉ちゃん、お姉ちゃん、とタイミングタイミングで可愛い声が聞こえ、下北沢生にも実桜の可愛さが伝わってしまう。
実桜は制服を着ていたが、流子は私服だった。
「大学生?」
実桜は同期の男子にこそっと聞かれた。
「一個上」
「えええー、見えなっ」
「お化粧してるからな。誰に見られるわけでもないのに」
「いや、見ちゃうよ。背高いし、モデルさんみたい」
「またまたぁ……実桜の方がかわいいと思いませんか?」
「それは、……そのぉ」
「言いよどむなよな」
「テストより難しい」
「そんなことないよ。即決即断で実桜の方がかわいいよ」
「自分で言うなよ」
「いーじゃん、事実なんだから。大体、大学生に見えるんだから、年増ってことじゃん」
そう言われると「謙虚」な姉の方がかわいく見えてくる。
下北沢の生徒と談笑して、流子は感想戦をしている。ついでに将棋部に勧誘されている。合唱が本務と言いつつ、バスケをやったりしていることから、将棋部からもラブコールを贈られる。
下北沢の面子は中学から一緒に上がってきているから、顔見知りでなんとなくひととなりがわかる。流子は男子からも女子からも声をかけられる。本人はまんざらでもないという顔。
「くすぐられてしまったな」
流子はいつも笑顔で明朗快活だから、先輩からの覚えもいい。かわいがられている。
応援も忘れない。チョコレートを配り、近くのコンビニで買ったアイスを気前よくふるまう。
「クーリッシュがいい人ー」
「はーい」
「ピノの派閥の人ー」
「はーいはーい」
下北沢の生徒は気持ちよくおごってもらう。午後の対局へ向け、みんな前を向いている。弱いのだが。
「はいこれ」
流子は実桜にもチョコレートとエナジードリンクを用意した。
「お姉ちゃん、赤坂見附のみなさんです」
どうもどうもと赤坂見附の銘々は会釈する。
「お化粧なんかしちゃって」
実桜がぼそっと言うと、流子はぽこんと実桜を叩いた。
「いたぁ」
「どうも愚妹がお世話になっています」
「愚妹とは如何に」
「ピノがひと箱余ったから、みなさんで分けてください。実桜にはあげなくていいです」
「なぜでしょう?」
「ご自身の胸中を探ってみてください」
流子は手近なところにいた、赤坂見附の男子生徒にピノを授ける。
「それじゃ、実桜、頑張ってね。敗者復活戦で戦うことになるかも」
「お姉ちゃんはもちろん実桜を応援するよね?」
「下北沢の心の結びつきの強さを軽視しないことね。妹であろうと敵は敵」
そう言って、流子は下北沢の陣営に帰っていった。
……しばらくして、実桜は驚いた。盤を挟んだ目の前に、姉が座っていたのだから。
様々なことが聞きたかった。想像するところでは、一人体調不良か何かで脱落し、たまたま応援に来ていた流子に、白羽の矢が立ったのだろう。そしてそれは事実だった。
敗者復活戦の最終戦、下北沢対赤坂見附。流子対実桜が図らずも実現してしまった。
実桜が流子と将棋を指したのなんて、もう何年も前のこと。
「べ、勉強しているのですよ」
実桜はつぶやいた。
「存じておりますよ」
流子はにこやかに応じた。
「負けられねぇのですよ」
「それは私も一緒」
「そんなちょっと席が空いたから座りましたみたいな人に、実桜負けるわけにはいかねぇです」
「つい先日将棋に目覚めた人に、負けられないなんて熱いせりふ、吐くのももったいない」
「ぶ、ぶ、ぶ、侮辱です。あー、実桜キレちゃったなー。こりゃ手加減できねー」(フラグ)
「フルパワーでかかってきなよ。ボコボコにしてあげる。三十分切れ負けだよね?」
実桜はうなずいた。
「それでは対局を開始してください」
【よろしくお願いします】
【お願いします】
チェスクロックをかちりと押す音がする。
実桜は飛車を振る。流子は端歩を突く。
(舐めプかよ)
実桜が舌打ちすると、流子がさらに端歩を進めて、一筋の位を取る。
実桜は慎重な手つきで駒組をする。
流子の手は、奇抜な手ではないが、実桜の研究にはないことが確信できる変化を含んでいた。
実桜は未知の局面で時間を使い、流子は自分だけが知っている局面に誘導する。
時間が無くなってきたと思う頃、実桜に緩手が出た。
実桜は指した後、ハッと息を呑む。その音を聞かれたら、と思い口に手を当てる。
実桜は流子を見た。流子は、それに気づいているのかそうでないのか、盤面をじっと見て、選んだ手は、果たして実桜が一番恐れていた手だった。
それから先、転がり始めた石は止まらずに、形勢は徐々に流子に傾く。
なんとかして打開する手はないかとはやる気持ちが、実桜を心理的に追い詰めていく。一手一手好手は選択されず、崩れた陣形はまとまらなかった。
流子玉に結果王手はかからず、実桜は言った。
「負けました」
実桜はそれまでも負けていた。でも、どうでもいいやと思っていた。流子に負けたのは、どうでもよくなかった。悔しい。悔しいと思うと熱がこもって、それから涙腺が緩み、肩で息をする。
流子は実桜に何も言わない。ただ席を立って、他の面子の将棋を見る。
結果的に、実桜の黒星が白星だったら、赤坂見附の勝利だった。他の人だって黒星を献上していると、実桜は思わなかった。「私が負けたから、負けたのだ」という事実に、実桜は涙を禁じえなかった。
実桜にとって将棋がどうでもいい遊びから、負けられない重要なことに変わった瞬間だった。
流子は、気づいたらいなくなっていた。
勝利に貢献したのに、油を売っている暇はないとばかりにひけた。
それはもしかしたら実桜に対する配慮だったのかもしれない。少なくとも流子は、妹から刈り取った勝利で、下北沢の生徒と歓談する気にはならなかった。
実桜は饒舌な口を閉ざし、不服を不服と感じさせてくれない実力勝負をかみしめて、先輩たちに雷門前のスタバでおごってもらった。
「お姉さん強かった?」
「三段くらい違う気がする」
「伸びしろじゃん。頑張ろうぜ。何飲む?」
「うん。チャイティーラテ、ベンティーサイズでいいですか?」
「もちろん。ホット?」
「ホット」
銀座線に乗り、赤坂見附で降りると、みんなで反省会をした。短い持ち時間で練習対局をし、気がついたらベンティ―サイズのチャイも空になっていた。
谷川十七世名人が、小さい頃、兄に負けて駒を噛んだという話を思い出した。
「お姉ちゃん飄飄として、勝って当たり前みたいな顔して、実桜悔しいよ」
「悔しいと思えるのは強さだよ。次は負けないって」
「次は負けない。頑張る!」
流子は、幡ヶ谷のサイゼリヤでティラミスを食べ、本を読んでいた。
LINEのメッセージで将棋部から後日の部内打ち上げに参加しないかと言われたが丁重にお断りしたところだった。指し将棋より、詰将棋の方が性に合っていると思ったし、自分の身体的リソースは無限ではない。バスケ部からのお誘いも、ただでさえお断り気味なのだ。
姉という、底を割らない職業も、なかなか疲れるというもの。
本を読んでいたら眠くなってきた。しおりを挟んで伸びをすると、お会計をして外に出た。
薫風と夏風が混在したような、やわらかい風が吹く午後六時、まだ明るい。
いつもは暗くなるまで学校で勉強しているから、変な感じがした。
洋食屋のマスターとすれ違って、流子はかしこまって挨拶する。
「おーう、頑張ってるかー?」
「もちろんですよー」
「無理すんなよ」
「マスターも、無理しないでください。また行きますー」
ぶんぶんと手を振って別れる。
家に帰ると、母親がご飯を作っていた。
「実桜はまだ帰ってきてないの?」
「んー、まだみたい。高校に寄って帰るって連絡が来たとこ」
「寝てていい?」
「あんた、まさか実桜と指したの?」
「だめ?」
「だめじゃないけど……、流子の方が強いんでしょ? 実桜悔しいんじゃない?」
「泣いてた」
「え」
「めっちゃ悔しいんじゃないかな」
「あんた、冷静ね」
「姉はそんなに簡単に土俵を割らない」
「本心は?」
「勝ててよがっだよぉー」
「妹想いね」
「そんなことお母さん、ここだけの話にしてね」
早めのご飯を食べて、実桜の顔を見ずに流子は自室に戻って眠った。
実桜の泣き顔がちらつく。
流子は、もうたぶん実桜と将棋を指すことはないだろうと思った。
実桜は流子の部屋から将棋関連の書籍をことごとく奪い、詰将棋を解き、戦型本を読みつくした。
流子はその空いた本棚に、小説を入れていった。
夏休み、流子は一日一冊本を読み、スポーツセンターで泳ぎ、喫茶店で勉強した。
読書日記をつけ、簡単な中国語の教本を買い、実桜とはほとんどしゃべらなかった。
夏期講習は単発的なものが多かったから、復習をするだけで事足りた。学校には足が向かなかった。遊びに誘われたが、それもほとんど断った。
生活リズムは運動と読書と語学学習で構成されていて、それを崩したくなかった。
体はまだ少し背を伸ばしたいと思っているみたいだった、身長は170センチちょうど。
「男の腕に収まらんのだけど」
長い脚を組み、机の前でコーヒーを飲みながら読書する。
冷房を利かせた部屋で、物語から養分を吸収するように。
それが、久々に勉強から離れた、流子の一カ月だった。




