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高校の定期テスト、実桜の一回目が流子は楽しみだった。
他人事なのに、家族が赤坂見附なんかに行くと、わくわくしてしまうものなんだなと。
「三条さん」
ふと声をかけられる。百八十はあるだろうか。背の高い男は、やはり堂々としていると、感心してしまう。見上げて、会釈をした。
「松原くんでよかったっけ?」
「そう。この前、三条さんの妹さんが美術部の見学に来た」
「美術部?」
「そう。あまりに可愛かったからお持ち帰りしようとしたけど、理性が勝ったね」
「君もあれか? ジョークに本音を忍ばせるタイプの人か?」
「ご想像通り。というのは冗談なんだけど、実は少し手を焼いていてね」
「天真爛漫すぎる?」
「三条さんの教育方針なら、文句を言う筋合いはないのだけれど、如何せん、そう。天真爛漫」
「文系男子には刺さらないけど、理系男子にぶっ刺さるんでしょ?」
「うちはスーパーサイエンスハイスクール。理系の物静かな男子が多いんだ」
実桜のことを塾で話すことになるとはわからなかった。授業が始まる。「一人称『実桜』はやめていただきたい」松原は言った。
「そういう強い要望があったことは伝えておきます。詳しくはまた」
松原は赤坂見附の二年生。美術部員。
赤坂見附の美術室のことは、実桜から感動とともに伝え聞いている。流子はその写真を見て、赤坂見附の一等地に鎮座する、歴史ある都立高校の学生生活を文字通り美化していた。
松原は背が高いのに前の方に陣取るから、後ろに女子が座るとしても、一席空けて。
赤坂見附の生徒は、塾には松原の他に何人かいるようだったが、彼らがつるんでいるところはあまり見ない。
今回は流子の方から、松原に働きかけた。
「お疲れ様」
白山羊のように白い肌を、詰襟が包んでいる。松原の詰襟の袖に軽く触れる。
「三条さん、帰りは渋谷から?」
「ええ。松原くんは?」
「僕は千代田線。少し、喫茶店でも行かない? 僭越ながらケーキをおごるよ」
「にゃ? 私はコンビニのあんまんでもいいけど」
「時間がない?」
「そんなことないよ」
松原は流子をAOビルまで連れて、流子は遠慮なく高いケーキを注文した。
「よどみがないね」
「よくデートするの」
「彼氏と?」
「彼氏なんかいないわ。友達と」
「それをデートと言うのは、友達に悪い気がするけど。だってその友達、三条さんのこと好きでしょ」
「それは、松原くんも?」
にこやかに愛想笑いを向ける。
「僕は三条さんの友達ですらないから」
松原はそっけなく返事した。非常に高度なやり取りだった。
「あら」
流子は松原があまり笑わないことに気づいた。
松原の長いまつげが羨ましい。白い歯が綺麗だ。でも、流子はそういう印象を、敢えて深く考えないようにしていた。
客観的に見れば、流子と松原は背伸びをしたお客さんで、話す内容も特段大人びているわけではなかった。高いケーキとコーヒーが、単なる媒介であることを流子は知っている。
松原がコーヒーを飲んでいる様子を見ると、なんとなく、松原には特定の相手がいて、ここに一度来たことがあるというようなことが想像された。
「三条さん、大塚の子にいじめられてなかった?」
「彼は無事下のクラスに行ったので、問題ないよ」
「ごめんね。助けられればよかった」
「助からないよ。一人で助からない人が、人の手を介しても、助かるはずがない。それに、背の高い王子様が助けてくれても、私は王子様に惚れたりしない」
「負い目を、恋愛感情で返済しないってことでしょ?」
「そう。助けてくれた人を好きにならなくちゃいけないわけじゃないから。結論、まあ、あんまり気にしないで。……実桜、絵うまいでしょ?」
「ほどほどかな。線がまっすぐで力強い。……気がする。僕自身、そこまでうまいわけじゃないから」
「なんか、やらかしてる?」
「というより、部内全体が感冒にかかったみたいに熱を帯びている。複数の一年が恋風邪にやられている。上級生もそれを沈静化することができない」
「実桜、赤坂見附で彼氏作るって、息まいてたから」
「というより、そういう意図以前の問題で、彼女のコミュニケーション能力が、あまりに高すぎる。経験したことのない感情の揺さぶりを、新入生の男子は受けている。気がする」
「……松原くんは?」
「僕は、ほら、彼女がいるから」
「いいの? こんなところで私とお茶してて」
「もちろん見られたらまずいけど、まあ、問題はないよ、三条さん。お話はしてみたかったけど」
「気を遣わせたみたいね。ごめんごめん。私は気にしない」
流子はザッハトルテをひとかけら口に含み、ナプキンで唇を拭う。
「渋谷から、電車?」
「バスの時もある。代々木八幡の交差点の右折が長いから嫌だけど」
「ああ、63系統?」
「そう。ご存知?」
「僕は、代々木公園に住んでいる」
「歩けよ」
「確かにそうだ。三条さんは、初台?」
「いや、幡ヶ谷」
「そっか。案外近いところに住んでいるもんだね」
松原はコーヒーを飲む。
そこにミルクを少し足して、またすする。
それに砂糖を加える。またすする。
「AOビル、久しぶりに来た」
「一階の靴屋さんに来るの?」
「松原くんも?」
「まさか、安物のローファーだよ」
松原は笑わなかった。こういう男を好きになる人はいるのだろうか。こういう男だから好きになるのだろうか。それにしても「男」なのだ。松原は「男の子」ではない。男。少し警戒しないといけない。流子は開きかけていた自分の心の扉を静かに閉めた。
「そろそろ定期テストだよね?」
流子は聞いた。
「部内の新入生に期待はできない。恋している男子に、勉強ができるはずがないから。実桜さんは、そういう意味では相対的に浮上するかもね」
「実桜って、赤坂見附でやっていける?」
「いけるんじゃない? 少なくとも、かなり速い進度で数学をこなしているみたいだし。僕がまあ、偉そうなことは言えないけど。ふ、なんとなく考えが修正された。実桜さんに常識が備わっていないような気がしていたけど、三条家では、そういう立ち位置ではないんだね?」
「三条家で? それは秘密。あと、実桜をディスるのもいいけど、先に免疫つけとけよなっていうのが、私の個人的な意見かな」
「失礼。それも一理ある。ありがとう。渋谷まで」
「ううん、一人で帰るよ。おごってくれてありがとう。また気が向いたら話して」
松原は、表参道駅に降りていった。
松原のことは別に嫌いじゃないし、何なら好意すら抱くけれど、流子は最後の最後で実桜を擁護した。コツコツと革靴で地面を叩きながら、募る苛立ちを表現する。
渋谷から、井の頭線に乗る。プラットホーム一番奥の、一番空いている車両のドアから乗ると、明大前では乗り換え口から一番遠いところに降ろされる。
プラットホームに開いているカレー屋に入って、大盛りカツカレーをかき込む。これが今日の夕食だった。イラつく。
幡ヶ谷に着くともう九時。テスト勉強をしなくてはいけないけれど、今日はとても疲れていた。
帰ると実桜は部屋で勉強しているみたいだった。何の企ても、実桜は抱いてはいない。思ったことをやって、顰蹙を買っているだけ。迷惑だったからなんだというのか。裏から手を回して、流子を弱毒化させることが、松原の希望なのだろうか。たぶんそうだ。だから流子は、個人的な意見を述べてそれを拒否したのだ。
家に帰ると、昂る気持ちが落ち着いた。
母親がモンテーニュの『エセー』をちびちびと読んでいたから、流子もその隣でテスト勉強を始めた。小テストで出された古典単語を整理し、世界史の出題必至の論述テーマをノートに整理し、問題集の解答を暗記する。フランス革命が勃発していて、ジャコバン派が大活躍している。出てきそうな世界史単語も、流子はいくつか書き出す。地理は共通テストの過去問を一年分やる。丁寧に解説を読む。それだけで、もう十二時だった。
母親がホットミルクを作ってくれる。ミルクの香りに誘われた実桜が、ふらふらとリビングにやってくる。
「実桜、おつかれ」
「お姉ちゃん、おつかれー……?」
「松原くんって知ってる?」
「知らない。誰?」
「赤坂見附の二年生、美術部だって」
「知らない。あんま名前覚えてない」
「そっか、それならいいんだ」
「美術部の先輩って、静かな人ばっかだし、あ、背の高い人?」
「そうね」
「あー、松原先輩ねー。ちょっと背が高すぎるかな。お姉ちゃんの知り合い?」
「いや。今日ちょっと嫌な思いしちゃった」
実桜に直接何かを言うのは、違う気がした一方で、今日の松原との会話を細かく話したい気もした。
「お姉ちゃん、塾でいろんな風邪拾ってくるよね」
「うっ、否定できない」
「やめる?」
母親がぼそっと吐いた。
「やめないよ。あの塾結構気に入っているんだ」
流子は久々に嘘をついた。
「マゾね」
やせ我慢もほどほどに。母親はそう付け加えた。マゾは長女の宿命なのかもしれない。
「お姉ちゃんらしいよ」
実桜は立ったままマグのミルクをすする。「ほわわー」という効果音が実桜の周りで鳴る。
母親は『エセー』を仕舞うと、自室へと戻っていった。
三人分のマグを実桜が片づけた。洗面所で姉妹二人歯を磨く。
「美術部は、たぶん入らない」
実桜が言った。
「そっか。絵は、自分で描けるもんね」
「お姉ちゃんも、松原先輩を気にすることないよ。なんとなくお姉ちゃんの言われたこともわかる」
「大したこと言われてないから、実桜もあんまり気にしないで」
「お姉ちゃんはそうやってため込むから」
「確かにそれはそう」
「じゃ、おやすみ。テスト、がんばろ!」
歯ブラシをすすぎ、口をゆすぐと、実桜はパタパタとスリッパで廊下を擦る。
流子は何も考えず湯船につかると、午前一時に就寝した。
明日は定期テストの一日目。古典、世界史、英語リーディング。
世界史は流子の得意科目だから楽しみだった。
眠るうちに記憶が整理されていく。
朝起きて、朝ごはんを食べ、髪を整え、見えるか見えないかのところにネックレスをし、綺麗に手入れされた革靴を履くと、まるで天使の羽根が生えたかのように、実桜とともに軽快に家を飛び出した。
赤坂見附もまた、定期テスト。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「がんばろ」
「応。実桜、楽しみしてる」
「がぜんやる気出てきた。じゃあね!」
流子は手を振る。
朝の下北沢は、とても静かだ。通学路を歩く都立下北沢生が話す声がうるさいと苦情がくるくらい、しぃんとしている。
教室に着くと、それなりに早く来たはずなのに、もうクラスの2/3が出席して、静かに勉強していた。問題を出し合う生徒は、廊下やテラスで声を上げている。教室の静寂勢に配慮していた。
二年の最初は『源氏物語』。複雑な文法と色とりどりの形容詞。
まさか本居宣長の源氏評が、25点分出されるとは、まだクラスの誰も知らない。
「まじかぁ!!!」
「ありえねーだろ、範囲外にもほどがあるぞ」
「授業で紹介されただけで、誰も勉強してねえよおおお」
「実力模試か、これ?」
雪屋ほのかだけが、うんうんとうなずいて、驚愕の満点を取ったことを、彼らはまだ知らない。
こういうのは切り替えが大切。次の世界史頑張ればいい。
流子は自分にそう言い聞かせた。
世界史のフランス革命で憲法にも記された「私的所有権」が驚くほど深堀されることを、彼らはまだ知らない。
「いや、フランス革命の範囲でジョン・ロックが出てきたんですけどぉ?」
「いや、ロックだってわかるけど、範囲じゃねえだろぉがあ!」
流子は「れ、れ、冷静になれ」と自分に言い聞かせた。心中思惟が震え声なのは、もはやどうしようもない。
……どこかで見たことのある問題だった。英語リーディング。問題文は授業で使われた文章の気配のかけらもない。完全初見問題。
「村上春樹? おおぉい、それ先生の趣味じゃねえのぉお?」
「これ、『羊をめぐる冒険』じゃん。呼んだことあるからわかったああ!!!」
流子たちは、先生たちがどれだけ本気で鼻っ柱を折ろうとしているか、痛烈に理解した。高二の勉強で揺さぶるのは、高三で揺さぶられるよりなんぼかましだろうと言わんばかり。でも確かにこのままの勉強方法では単なる暗記マシンと化し、一度もやったことのない入試の問題に対応できない。
続く三日間のテストで、流子は徹底的に打ちのめされた。
流子のテストの平均点は驚きの55点。それまで平均が70点だったことを考えると、壁も壁、障害も障害、悔しいが下北沢は簡単には通してくれない。
平均点55点の生徒が、学年順位で10番台に入るのだから、今回のテストの鬼畜さが伝わってくるというもの。どこの駿台模試だよ!? とみんな嘆いた。
赤点補習だったが、赤点でない者も補習に参加した。
「それにしても、先輩、教えてくれてもいいじゃないですか」
流子は補習の合間合唱部の練習に参加し、先輩に文句を言った。
「わかんないの? だって、過去問が役に立たないんだよ」
「それはそう」
「平均55点って、70点のテストもあったんでしょ?」
「英語と数学。塾行ってたからなんとか」
「それ、すごいよ」
「得意の世界史がまさかの32点……ぽよぉぉ」
「ぽよぽよ、ぽよぽよぽよ(大丈夫、みんな一緒よ)」
「ぽ、ぽよぉ(せ、せんぱい)」
家に帰るとしょんぼりした実桜。かなり手痛い仕打ちを受けたらしい。悔しそうな顔でスヌーピーのクッションにパンチを繰り出している。
順位が悪かったわけではないが、公立中学では(誇張でなく)100点しか取ったことのないような赤坂見附一年が平均5割のテストに臨むのだ。落差は著しく衝撃も大きい。
実桜はクッションに憤りをぶつけ終わると、勉強したのに6割しか取れなかったふがいなさを嘆き、しばらく本を読んでからソファでふて寝した。
ここ最近ずっと根詰めて勉強していたなと思った流子は、梅雨空の外の白い雲を眺めつつ、休みの両親と実桜を麻雀に誘った。
父親と母親は顔をほころばせ、実桜は腕をぶんぶん振ってストレス発散する気満々。
誰も自分が負けると思っていない家族麻雀が……始まるのであった。