第三話 奇跡の御業
そこまで一気に話して軽く酸欠になっていると、普段のオネェ口調に戻ったマリオンが、「少し休んでなさい」と説明役を変わってくれた。
「バッツドルフ殿はご存知かしら? 六花枢機卿の中でも、次期教皇に選ばれやすい立場が存在するの。それが、次期国王と同じ色を持つ祭事担当の枢機卿よ。現段階で最も教皇の座に近いとされているのが、あたしとグレアム・エイボリーなの」
「馬鹿馬鹿しい! 私に第一王子の暗殺を命じたのはクリストファー殿下よ。グレアムは殿下に脅されて、指示通りに動いているだけの被害者だわ!」
「それじゃあ、グレアム・エイボリーがあたし達に助けを求めないのは何故かしら?」
スッと動いたマリオンの紺碧の眼差しが、これまで沈黙を貫いているグレアムを捉える。
調合室内で起きた一連の騒動に臆した様子もない。それどころか、紅花枢機卿は普段の紳士然とした態度を崩さず、大人の余裕を感じさせる微笑すら浮かべている。
その傍観者じみた振る舞いはいっそ不気味で、マリオンは端整な顔立ちを顰めた。
「落ち着いて考えてごらんなさいよ。この場にクリストファー殿下はいらっしゃらないし、監視も付けられてないわよね? あたしが同じ立場だったら、こんな絶好の機会を逃したりしないわ。真っ先に助けを乞うのが普通じゃないかしら?」
「そ、それは……」
「もうお止しなさい。グレアム・エイボリーは頻繁に偽りの噂を聞かせることで、あんたの心理操作を行い、意図的に魔女へと堕としたのよ。花の女神に仕える六花の一片が、忌むべき魔女を生み出すなんて――……決して許されない背任行為だわ」
自分よりも能力が劣る人間をライバル視する者はいないだろう。
グレアムの実力を認めて研鑽を重ねてきたマリオンも、彼に裏切られたうちの一人である。
同僚が犯した禁忌を暴くマリオンの声は、怒りや失望が綯い交ぜとなり微かに震えていた。
真相を打ち明けられたギーゼラは、混乱のあまり髪をぐちゃぐちゃに掻き乱す。
何が正しくて、誰を信じたら良いのか……心に闇を抱えた魔女のままでは答えが出せないのだろう。
「師匠は私を守る福音を作って下さいました。だから私も、師匠にお礼の福音を作ってきたんですよ。――ほら、見て下さい」
すっかり戦意喪失したギーゼラの前に片膝を付き、エリスは手にしていた思い出の福音をしまうと、逆側のポケットから丸いガラス瓶を取り出す。
神聖なオイルの中心には、長い茎に葉を多く残した青色のヒソップが三本、寄り添うように立っている。
その周囲に散りばめられているのは、放射状に細い花弁を広げる白いユーカリと、茎の部分を取り除いた白いヒヤシンスだ。
ヒソップは【浄化】、ユーカリは【再生】。
白のヒヤシンスは【あなたのために祈ります】が花言葉だった。
「師匠は自ら望んで魔女になったわけではありません。だから、偽りで形作られた悪しき感情を浄化して、魔女になる前の心優しい師匠に戻りましょう?」
「そんなの無理よ! 一度魔女に堕ちてしまえば、二度と聖花術師には戻れない。こんなの、幼い子供でも知っているような常識だわ」
「だけど、奇跡は必ず起こると歴史が証明しています。初代聖女セラフィーナ様の祈りを、国教神様がお聞き届けになられたように」
きっぱりと断言したエリスはコルクの栓を掴む。
「この福音に私の祈りをすべて詰め込みました。どうか、受け取って下さい」
開栓されると同時に、瓶の中から金色に輝く温かい風が巻き起こった。
青と白の花弁を振り撒きながら、聖なる祈りが込められた風は、ギーゼラの身体を柔らかく包み込む。
すると、風の色が一瞬で呪いのような黒に染まった。
(花の女神フロス・ブルーメ様。お願いです、師匠を魔女の呪縛から解放して下さい!)
我知らず福音の瓶を両手で強く握り締め、エリスは胸中で国教神へ祈りを捧げる。
神力不足で今にも倒れそうな中、誠心誠意祈り続けていると、淡い色合いの幻想花が彼女の周囲で咲き始めた。
空中に発現した幻想花を吸い込むと、闇色の風はホウセンカの種が弾けるが如く、再び目が眩まんばかりの金色に発光した。
神聖な輝きを取り戻した風は、慈しむようにギーゼラの全身を螺旋状に吹き上ると、天井付近で勢い良く四散する。
「…………」
青と白の花弁に混じって、金色にきらめく風の粒子が降り注ぐ。
そんな幻想的な光景を、相変わらず床に座り込んだままのギーゼラは、銀朱の瞳を見開いてジッと眺めている。
固唾を呑んでエリスがその様子を見守っていると、ギーゼラの眦がふわりと下がった。
「……綺麗な、福音ね……」
柔らかく双眸を眇めたギーゼラが、おっとりと微笑みながらぽつりと呟く。
「頭の中で響いていた怨嗟の声も、心に溜まって溢れかえっていた澱も……全部、溶け消えてしまったわ。……私、もう魔女じゃないのね……」
理性の光が蘇った銀朱の瞳の表面に、じわりと涙の膜が張る。
瞼がゆっくり閉ざされると、透明な雫が頬を伝い落ち――ふらりと傾いだギーゼラの身体を、マリオンが咄嗟に抱き留めた。
「マリオンさん、師匠は……」
「大丈夫、気を失ってるだけよ。正確な結論を出すのは厳しい詮議をしてからになるけど、この様子だと奇跡は起きたようね」
倒れたギーゼラを軽々と抱き上げ、マリオンは彼女を調合室の奥へ運んで行く。
「良かった」と胸を撫で下したエリスだったが――……次の瞬間、金属同士がぶつかる鋭い音が響いた。




