第六話 変わらぬ優しさに零れた涙
エリスがマリオンに連れて行かれたのは、大広間前の外回廊だった。
篝火に照らし出される回廊の一角では、華美に着飾った五人の令嬢が何かを取り囲み、しきりに黄色い声を上げている。
無論、彼女達の中心にいる人物はウィラードだ。
彼もその場から脱出を試みているようだが、穏便な対応が裏目に出て、まさに令嬢達の独壇場と化していた。
小柄なエリスは令嬢達の陰に隠れてしまい、ウィラードからは見えていないようだ。
一瞬、飛び跳ねて存在を主張しようとも考えたが、普通にはしたない行為なので止めた。踵が高い靴を履いているので、転ぶ危険性も加味した結果である。
(こんな状態で、どうやって口付けすればいいの!?)
マリオンやジュダに助言を求めようにも、彼等は少し離れた場所にある柱の裏で待機している。
乱闘にでもなったら駆け付けてくれるだろうが、まずは一人でどうにかしなければならない。
しかも、早急に手を打たねば解呪の効果が切れてしまう。
一度大きく深呼吸をしたエリスは、覚悟を決めて歩き出した。
だって、約束したのだ。
自分がウィラードを全力で守る――と。
今の彼にどう思われていようと構わない。
一度交わした誓いを反故にするのは己が主義に反する。
「あ、あの! すみません。そこを通して下さいませんか?」
勇気を振り絞って令嬢の一人に声を掛けるが、完全に無視された。
他の令嬢に狙いを変えても、彼女達はエリス以上の声量で、盛んにウィラードを褒めそやしている。
令嬢集団の甘ったるい猫撫で声が、キンキンと頭に響く。
誰も彼もが、自分こそウィラードの婚約者に相応しいと言い張り、美しい笑顔で他の令嬢を牽制していた。
次の瞬間、ムカッと怒りの感情が刺激される。
(どうしてウィラード様は、何も言い返さないの? 貴方の婚約者は私じゃない!)
お飾りの婚約者にはしない、生涯を掛けて幸せにすると言ってくれたのに。ウィラードは何故、「自分には既に婚約者がいる」と宣言しないのだろう?
まさか、婚約者だと思いたくもないほど、彼に嫌われてしまったのだとしたら――……。
そこまで考えたエリスは、一気に悲しみの海へ突き落された。
(やっぱり、平民の私が王子様の婚約者だなんて……おかしいよね)
気を抜くと零れ落ちそうになる涙を、目尻に力を込めて堪えていると、第一王子争奪戦の輪に、勝気そうな令嬢が強引に割り込んだ。
その際、ぼんやりと突っ立っていたエリスは、「邪魔よ!」と肘で小突かれバランスを崩し――、
「きゃ……っ!」
咄嗟に受け身も取れず、冷たい石畳の上に倒れてしまった。
強かに打った臀部がジンジンと痛む。せっかくの綺麗なドレスも、繊細なレースの部分が床で擦れ、見るも無残に破けてしまっている。
幸いにも怪我はしなかったが、落ち込む一方だった気持ちは、更にどんよりと惨めさが募る。
涙腺が緩み、じんわりと視界が滲み始めた時だった。
「君達、そこをどいてくれないだろうか?」
静かだが芯のあるウィラードの声が外回廊に反響する。
しかし、彼を取り巻く令嬢達は殊更華やかに微笑むばかりで、その場から動く気配すら見せない。
何も聞こえなかったかのように振舞う令嬢達に、再度ウィラードは告げる。
「次はない。今すぐ、そこをどいてくれ」
鋭い眼光と共に放たれたのは、温厚な青の王子が発したとは思えない、低く威圧感のある空恐ろしい音声だった。
刹那、「ひっ!」と恐怖に引き攣った声がいくつも上がり、それまで我を通し続けていた令嬢達が、泡を食ってウィラードから距離を取る。
肩を寄せ合って震え出した令嬢達など気にも留めず、床に倒れているエリスを見つけると、ウィラードは足早にそちらへ向かう。
「やっぱり、エリスの声だった。すぐに気付けなくてごめん。どこか痛む場所は? 打ち所が悪ければ取り返しのつかないことになる。決して我慢したりしてはいけないよ」
「わ、私は大丈夫ですが……」
解呪の方は大丈夫ではなさそうだ。
中庭にある時計台の鐘が鳴り始め、エリスの全身から冷や汗が噴き出す。
自分の記憶が正しければ、蒼の宮殿を出る直前に口付けをした時も、時計台の鐘の音が聞こえていた。
いつもは朝から夕方までだが、本日は第二王子の誕生祭なので、夜が更けても時計台の鐘は鳴り響く。
時計台の鐘は一時間毎に鳴らされるので、今のウィラードは、いつ半獣の姿に戻ってもおかしくない。
(手の甲は……駄目だわ、手袋を外してる余裕なんてない。こうなったら……っ!)
エリスの身体の心配をするウィラードは、床に片膝を付いている。そんなウィラードの両肩を掴んだエリスは、彼の身体を力任せに引き寄せると、その頬へ自身の唇を押し当てた。
手の甲よりも柔らかな感触に心臓がトクンと高鳴る。
静かに唇を離したエリスは、面食らった様子のウィラードへ儚げに問う。
「……嫌では、ありませんでしたか……?」
「何故、そんなことを聞くんだ? 君の口付けを私が嫌がるわけないだろう」
――あぁ、駄目だ。
転んだら必要以上に心配してくれるし、突拍子もない質問を繰り出しても、真っ直ぐ目を見て実直な答えをくれる。
まるで、視察へ出発する前のウィラードに戻ったようで……エリスはここ数日の間に溜め込んでいた疑問を、堪らずにぶちまけてしまう。
「それならどうして、最近のウィラード様は私によそよそしい態度を取るんですか? 目も合わせてくれなくなって……き、嫌われてしまったのだと思って……っ」
くしゃりと顔を歪めたエリスの頬を、ついに一筋の涙が零れ落ちる。
一度緩んだ涙腺は制御不能で、小さな嗚咽を漏らして泣いていると――……一切の前置きもなく、ウィラードに横抱きにされてしまう。
突然の浮遊感に驚いたエリスは、咄嗟にウィラードの首元へしがみ付く。
泣いているエリスに、「そのまま掴まっていて」と優しく囁いたウィラードは、彼にしては珍しく乱雑な足取りで歩き出した。
✿ ✿ ✿
蚊帳の外に放り出されていた令嬢達は、尚も執念深く、去り行くウィラードを呼び止めようとしたが……とある女性の登場により、またしても彼女達は震え上がった。
「真の淑女ならば、引き際こそ美しくあるべきですよ」
いつからそこにいたのだろう。純白のドレスを纏った第二王妃ナターシャが、射干玉の髪を夜風になびかせ、令嬢達の前へ楚々と歩み出る。
白の王妃は口元を扇で隠し優雅に微笑する。
「あの少女はわたくしが手ずから育てている花です。今はまだ蕾ですが、遠からず美しく咲き誇るでしょう。無粋な邪魔立てなど企てようものなら――……分かっておりますね? わたくし、記憶力には自信がありますの。勿論、貴女方のお顔も覚えましたよ」
ナターシャの菫色の双眸が剣呑な光を宿し、令嬢達を真正面から射抜く。
「今宵、貴女方は何も見聞きしていない……そうですね?」
穏やかな声音で紡がれたはずなのに、その言葉には有無を言わせぬ迫力があった。
化粧の上からでも分かるほど青白い顔色になった令嬢達は、決して他言はしないと誓うや否や、全員揃って夜会が続く大広間の中へ戻って行く。
扇を閉じて短く息を吐いたナターシャは、柱の陰から出てきた息子の護衛騎士と、祭事を取り仕切る蒼華枢機卿へ告げる。
「近頃、花嫁修業に訪れるエリスさんが随分と気落ちしていたので、目を光らせておいて正解でした。大方、ウィルが原因なのでしょう? あの子達の周囲は、白華騎士団に警戒させているので、貴方達は少し離れた場所で待機していて下さい。いつまでもすれ違ったままでは可哀想ですから、今夜は二人きりにしてあげましょう」
息子と、その婚約者を心の底から気遣うナターシャ。
白の王妃の母性に満ちた思い遣りの心に触れ、マリオンとジュダは「御意」と折り目正しく礼をした。




