平成二十年、三月五日に起きた焼身自殺について②
「悪戯はやめてくださいよ!」
少し言葉を荒げて、同僚の出来心を諌めようとすれば、
「はぁ? 馬鹿なことを云ってないで、仕事に集中しろ」
私の怠慢な勤務姿勢を直ちに指摘し、あしらわれた。赤色灯の光りと相まって顔は一段と赤く染まり、高鳴る鼓動によって曖昧模糊に感情が吹き上がった。
人は長い時間、無為に過ごすと透明な疲労感を身体に抱える。白けた空から降ってくる鳥の囀りや、開き切らない目をした歩行者の低血圧な様子。法定速度を無視する原付バイクが颯爽と道路を駆け抜ける危なっかしさを横目に、私は帰路を歩き終わり、時代錯誤な木造アパートの我が家へ辿り着く。不必要に分泌された頭皮の脂にまみれる従順な髪は、工事現場を警備する者としてヘルメットを被った名残りである。その姿が、駐車場に止められた軽自動車のサイドミラーに映り込み、私は髪を手で乱しながら自分の部屋に逃げ込んだ。カーテンを閉めきった部屋は当然暗く、急激に肥大する瞳孔と合わせて、目眩を起こし、脳は身体の疲労を慮るように運動信号を瞬間途絶した。
「おー……危ない、危ない」
私はとっさに玄関で座り込み、頭をぶつけなように壁へ身体を預ける。これまでに何度か経験していたこともあって、淀みなく対処した。つらつらと背中を流れる汗は多くの悪寒を含み、拙速に襟を正す。砂浜に打ち上げられた塵芥とさほど変わらない、雑多な居間の現状を今更ながら憂うようなことはしない。地引き網さながらに足を引き摺って、長らく敷いたままの万年床に倒れた。せんべい座布団に等しい平べったい枕に頬を当てると、粘土のような臭いが鼻にまとわりつく。雨戸を長らく開けていない部屋は、その湿度の高さから常に臭いが滞留している。隣の部屋から起床する音を聞きながら、目蓋は見る間に重くなっていく。
「浴びなきゃ……」
出先から帰ってきて早々に布団の上に寝っ転がったことを度外視し、私は身体の汚れを落とす為に風呂場へ向かう。脱衣所で身ぐるみを粗野に脱ぎ捨て、洗濯機の中へ放り投げる。気怠い身体に鞭を打つかのように、シャワーを浴びた。飛沫が弾けて飛ぶ強い水圧を首筋に当てると、四十度に設定されたお湯が胴体へ伝い落ちる。余った左手で全身を撫で回し、ボディーソープを使う前に大雑把に汚れを落とす。いつもと変わらない光景であった。背にする湯船から、ゴキュッ、ゴキュッ、というポンプで水を吸い上げているような音を聞くまでは。
一定のテンポで繰り返されるその異音は、拙速に振り返って正体を確かめようとする勇気をやおら奪っていく。何故ならば、微かに聴こえてくるのである。息遣いと思しき呼気が。そして、瞬く間に湯船の底に僅かに残った水を背中を丸めて吸い上げる影法師があまりに自然に脳裏へ浮かんだ。聞き間違い、虚像などと決め付けて、あっけらかんと振る舞うことも決して間違いではないだろう。夜勤を終えたばかりの疲労感を慮れば、全くもって不自然なことではないのだから。




