目蓋がピリリ③
「さっき、帰ってくる時にずぅーと後ろを追ってくる足音がしたんだよね。これってさ」
「たまたまだろ」
唾棄するように自意識過剰な早合点とする同居人の姿勢から、私が受けた不快感など糞にも劣ると言われたような気分だった。このままでは、世間話すら煙たく思われ、長く連れ添った夫婦ならではの無味乾燥な関係に至ってしまう。そんな気運がした。
「立ち止まったら足音は止むし、歩き出すのもほとんど同じだったんだけどなぁ」
「妄想も大概に」
悪魔の証明を想起する辛気臭さが漂い、私はこの問答の果てに互いが納得するような答えは待っていない事を悟る。携帯電話の普及に伴い、テレビの役目は半ば形骸化した。居間のテレビは形式的に置かれ、置観葉植物と変わらぬ景色の一部として脇を固める存在だったが、沈黙を嫌った私のすがる相手に都合は良かった。リモコンを手に取って、電源をつける。
「今日、夕方」
女のニュースキャスターが厳しい顔付きと整然なる口調で事件の捜査を行う警察の発表をなぞった。それは、私達が暮らす同市の出来事に由来し、夥しい数の打撲痕を浴びた見るも無残な姿になった成人男性が命を引き取った事件の言及であり、犯人の行方は今もわからないとして、近隣住民に注意喚起を促した。
「頬に大きな裂傷も見られ、強い殺意で襲われ」
聞き捨てならない報道にも同居人は一瞥もせず、ひたすら目の前の携帯電話に傾注する。わたしは、温め終わったコンビニ弁当を片手に自分の部屋へ逃げ込む事で、互いの虫の居所を尊重した。寝て起きるだけの殺風景な部屋は、私が心の拠り所とする唯一の場所である。振り返る過去もなければ、思い描く未来もない。ただ息を吸って吐く物質世界の一個体として馴染む。軋むベッドの音色が今日は悲しげに聞こえたのは、沈んだ気分を寓意に表し、浅はかな自己憐憫を催した私の患いに違いない。
鳥の囀りと共に起き上がる。呼吸のたびに待ち針を飲み込んでいるかのような痛みが走り、空気の乾燥を察した。咳払いを反芻しながら痛みを紛らわせると、洗面所で歯ブラシを咥え込む。朝の日課である動作を昨晩のゴタゴタをこの洗浄に結び付けて水へ流し、晴れやかな表情と共に居間の扉を開けた。
「……」
そんな私の心掛けは、ソファーの隅で見るなと言わんばかりに丸まり、ハリネズミさながらの刺々しさを体現する同居人の扱いづらさを前に霧散した。私はどう接してやればいい。黙殺して問題を先送りにした場合、誰が尻拭いをする。わたしはなるべく柔和な声色を取り繕い、一挙手一投足に温厚なる緩やかさを醸成する。
「どうかした?」




