第9話「妥協案と、秘密の契約」
地上を目指して歩き始めてから、1日が過ぎた。
74階層から73階層へ。刃が開けた天井の穴を通って一つ上の階層に出てからは、比較的なだらかな洞窟通路が続いていた。
レイラの体力は少しずつ回復しているが、魔素はまだ半分も戻っていない。普通に歩く分には問題ないが、戦闘は不可能に近い。
道中に現れた中型の魔獣は、刃が何の前触れもなく一刀で斬り伏せた。レイラが気配に気づくより前に、全てが終わっていた。
「……今の、何が出たのですか」
「岩顎蜥蜴ですね。この階層だとそこそこ厄介な部類ですけど……まあ、大したことないです」
大したことない。
Bランク探索者でも苦戦する魔獣を、「大したことない」と言い切る男。
レイラはもう驚かなくなっていた。むしろ、その温度感のなさに安心すら覚え始めている自分がいた。
二人は、地下河の畔で休憩を取った。
刃が手際よく火を起こし、魔獣の肉を串焼きにする。深層の魔獣の肉は魔素を含んでいるため、食べれば多少は体力と魔力の回復を助ける。
串焼きを齧りながら、レイラはちらりと刃を見た。
彼はいつものように、串焼きを片手に、もう片方の手でゲーム端末を操作している。
(……そろそろ、ちゃんと話をしないと)
帰り道の残りはあと2日ほど。
地上に戻れば、刃はまた姿を消す。今度こそ、二度と見つけられない場所に。
だから、今のうちに言わなければならない。
「刃」
「はい」
「お願いがあります」
「……聞く前から嫌な予感がしますが、どうぞ」
刃はゲーム端末から目を上げず、串焼きを齧りながら答えた。
「弟子にしてください」
沈黙が落ちた。
地下河のせせらぎだけが聞こえる。
「…………」
「…………」
刃は串焼きを齧り終え、棒を火に放り込み、ゲーム端末をポケットにしまった。
そして、真正面からレイラを見た。
「お断りします」
即答だった。
「弟子は取りません。教えることもありません。そもそも、俺に教えられることなんて何もないですよ」
「嘘です」
レイラも、退かなかった。
「あなたの剣は、私が今まで見たどんな技術とも違う。基礎の延長線上にあるのに、到達点が全く違う。あれは天性の才能じゃない。途方もない鍛錬と、誰かの教えがなければ辿り着けない領域です」
刃の目が、一瞬だけ揺れた。
――師匠のことを、見抜かれた。
「……なかなか目がいいですね」
「私も一応、最前線の探索者です。剣を見れば、それくらいは分かります」
「そうですか」
刃はため息をつき、地下河の水面を見つめた。
「でも、答えは変わりません。弟子は取らない。俺の素性が世間に知れたら、俺の生活が終わるんですよ。……分かるでしょう?」
「分かっています」
「じゃあ――」
「だから、誰にも言いません。絶対に」
レイラは真っ直ぐに刃を見つめた。
「あなたの名前も、強さも、この深層で起きたことも、全部。誰にも、一言も漏らしません。神盾機関にも、配信でも、誰にも。……あなたの平穏は、私が守ります」
「……」
「だから、お願い。側にいさせて。あなたの隣で、あなたが振る剣を見ていたいだけ。それだけでいい。教えてくれなくてもいい。ただ、見ていることだけ許してほしい」
レイラの蒼い瞳は、澄み切っていた。
嘘や打算は、一片もない。
刃は、長い沈黙に沈んだ。
焚き火がパチパチと爆ぜる。
地下河の水が、静かに流れていく。
(……こいつ、本気だな)
分かっていた。3時間の鬼ごっこで。昨夜の告白で。そして今朝のエリアボスの一件で。
この女は、何をどうしたって諦めない。
断っても追いかけてくる。逃げても見つけてくる。死にかけても立ち上がってくる。
(じゃあ、どうする? このまま逃げ続けるか? ……無理だな。こいつは死ぬまで追ってくる。文字通り)
刃は目を閉じ、深く息を吐いた。
(……師匠。あんたの弟子は、とんでもなく面倒な状況に巻き込まれてますよ)
心の中で、もういない人に語りかける。
返事はない。当たり前だ。
刃は目を開け、レイラを見た。
「条件があります」
その一言に、レイラの目が大きく見開かれた。
「条件……?」
「三つ。一つでも破ったら、その瞬間に全部終わりです」
刃は指を立てた。
「一つ。俺の素性を、絶対に他言しないこと。名前も、強さも、ここで見たことも。誰に聞かれても、何があっても。破ったら二度と会いません」
「はい」
「二つ。俺を配信や企業に巻き込まないこと。俺はフリーの底辺探索者です。それ以上でも以下でもない。あなたの神盾機関とも一切関わりません」
「はい」
「三つ。俺は教えません」
「……え?」
「教えません。指導もしません。稽古も付けません。……ただ」
刃はため息をつき、面倒くさそうに頭を掻いた。
「勝手に見ている分には……まあ、止めはしないです」
レイラは、一瞬、意味が分からなかった。
だが、その言葉の意味を理解した瞬間――。
「……っ!」
涙が、溢れた。
教えない。指導もしない。
でも、隣にいることは――許す。
見ていることを、止めない。
それは、八雲 刃という男が出せる、精一杯の妥協だった。
世界で最も面倒くさがりな男が、世界で最も面倒くさい女に対して出した、不器用すぎる折衷案。
「あ、ありがとう……っ! ありがとうございます……っ!」
レイラは声を震わせながら、何度も頭を下げた。
「泣かないでください。面倒くさいので」
「ごめんなさい……っ、でも、嬉しくて……っ」
「……はぁ」
刃は呆れたようにため息をつき、ぽつりと呟いた。
「あと、もう一つ」
「は、はい……!」
「敬語、やめていいですよ。お互いに」
レイラが、ぽかんとした。
「……え?」
「いや、なんか……ずっと敬語で話されてると、こっちも気を使うので。別に普通に話してくれた方が楽です」
それは、壁を取り払うということだった。
刃がこれまで、他人との間に必ず置いてきた丁寧語という距離。
それを、自分から崩した。
「……いいの?」
レイラの声が、震えた。
「いいですよ。あ、いや……いいよ」
刃自身が、砕けた口調に慣れていなかった。
少しぎこちなく、少し照れくさそうに、彼は目を逸らした。
「……刃」
「なに」
「嬉しい」
「……うん。分かったから、泣くな」
「泣いてない」
「泣いてるだろ、どう見ても」
レイラは袖で涙を拭い、笑った。
泣き笑いだった。世界で一番幸せな、泣き笑い。
◇ ◇ ◇
それから二人は、残りの帰路を共に歩いた。
刃の口調は、少しずつ変わっていった。
「ですます」が「だ」「だよ」に。「あなた」が「お前」や「レイラ」に。
最初はぎこちなかったそれが、半日も経たないうちに自然なものになっていく。
レイラは、刃の隣を歩きながら、彼の一挙手一投足を観察していた。
歩き方。呼吸の仕方。魔素の流れ。剣を触る時の指の置き方。
教えてもらえないなら、見て盗む。それが、彼女の「弟子」としての在り方だった。
「刃、さっきの魔獣を斬った時……」
「あー、あれ? 別に大したことしてないよ。ただの横凪ぎ」
「あれ、普通の横凪ぎじゃない。刀を引く瞬間に魔素の流れを刃先に集中させてた。だから切断面があんなに綺麗なんでしょう?」
刃が、微かに目を見開いた。
「……よく見てるな」
「見ていることだけは許してもらったから。全力で見る」
刃は少し呆れたように笑い、前を向いた。
(こいつ……本当に、馬鹿みたいに真っ直ぐだな)
嫌な気分では、なかった。
むしろ、少しだけ――本当にごく僅かだけ――悪くないと思っている自分がいた。
(……面倒くせぇな、俺も)
口癖のように呟く。
だが、その言葉の温度が、以前とは変わっていることに、刃自身はまだ気づいていなかった。
73階層の薄明かりの中、二人の足音が重なっている。
かつて一人だった深層の道に、もう一つの影が並んでいた。
――秘密の契約は、こうして結ばれた。
世界最強の男と、世界最強を目指す女の、不器用で歪で、それでいてどこか温かい、二人だけの約束。




