第8話「深層の主すら、ただの障害物」
夜が明けた――と言っても、深層に昼夜の概念はない。
ただ、焚き火に放り込んでいた燃料が灰になり、魔素灯の光源だけが残った頃合いを「朝」ということにしただけだ。
刃は岩壁に寄りかかったまま、いつものようにゲーム端末の画面を見つめていた。
RPGの勇者が魔王を倒すシーンだ。画面の中の勇者が「聖剣一閃!」とか叫んでいる。
(……こいつ、わざわざ叫ぶ必要あるのかな)
どうでもいいことを考える。これが刃にとっての平穏だった。
隣では、レイラがパーカーにくるまったまま丸くなって眠っている。昨夜あれだけ泣いたせいか、今は穏やかな寝顔だ。銀色の髪が顔にかかり、時折微かに寝息を立てている。
魔力の枯渇と身体の損傷は深刻だが、命に別状はない。あと数時間も休めば、歩ける程度には回復するだろう。
(……さて、そろそろ帰り道を考えないとな)
74階層。忘却領域の最深部近く。
通常の探索者がここに辿り着くことはまずない。レイラのような規格外のSランクですら、禁忌術式と命を懸けてようやく追いかけてこられた深度だ。
ここから地上までは、普通に歩いて帰れば2日はかかる。刃の足なら日帰りだ。だが……今のレイラの今の状態を考えれば3日はかかるだろう。
(3日……長いな。それだけあれば、また何か面倒なことが起きそうだよな……)
刃がそう考えた、まさにその時だった。
――空気が、変わった。
刃の指がゲーム端末の操作を止めた。
それは反射でも本能でもなく、ただの「察知」だった。この深度に棲む魔素の流れが、不自然に歪んでいる。
まるで、巨大な何かが空間そのものを圧迫しているかのように。
(……出たか)
刃は静かにゲーム端末をポケットにしまい、膝の上の日本刀を手に取った。
地面が、微かに震え始めた。
岩壁に走る亀裂。天井から落ちる砂利。魔素灯の光が、不規則に明滅する。
レイラの目が、振動で薄く開いた。
「……ん……?」
まだ意識が朦朧としている。身体は動かない。魔素は枯渇したままだ。
だが、探索者としての本能が、全身に警鐘を鳴らしていた。
――この魔素圧。この振動。まさか。
「っ……!」
レイラの蒼い瞳が、恐怖で見開かれた。
通路の奥。暗闇の向こうから、それは現れた。
最初に見えたのは、空間の裂け目だった。
虹色に歪んだ亀裂が、暗闇の中で脈動している。次元断層――物理法則そのものを捻じ曲げる、最凶クラスの固有能力。触れたものを問答無用で異次元に飲み込む、攻略不可能とされる絶対防御にして絶対攻撃。
その裂け目の向こうから、巨大な影が這い出てきた。
体長は優に30メートルを超える。
深淵蜈蚣――74階層のエリアボス。
無数の脚を持つ漆黒の節足動物が、天井と壁を同時に這いながら、ゆっくりとこちらに向かってくる。その全身を、次元断層の虹色の亀裂が取り巻いていた。
過去、討伐隊を3度壊滅させ、Sランク探索者5名のパーティーですら撤退を余儀なくされた、忘却領域の頂点捕食者。
「…………」
レイラの顔から、血の気が引いた。
(深淵蜈蚣……! この階層の、エリアボス……!)
最悪のタイミングだ。魔力は空。身体は満身創痍。指一本動かすのがやっと。
戦闘など、論外。逃走すら不可能。
「刃……っ! 逃げて……! 私に構わないで、逃げてください……!」
レイラは這うようにして声を絞り出した。涙が滲む。自分のせいで巻き込んでしまった。この人を、自分の身勝手な追跡劇に付き合わせた結果がこれだ。
「お願い……っ! あなたなら逃げ切れる……! だから――」
「ちょっと待っていてくださいね」
刃の声は、いつもと変わらなかった。
面倒くさそうで、眠そうで、億劫で。まるで自販機にジュースを買いに行くような声。
刃は、ゆっくりと立ち上がった。
くたびれたパーカーの代わりに羽織っていた薄い作業着の裾を払い、日本刀の鯉口を切る。
「少し下がっていてくれますか」
振り返らずに、そう言った。
「な……何を言って……! あれは深淵蜈蚣ですよ……!? Sランクのパーティーでも撤退した化け物です……! 一人で戦うなんて――」
「ええ、分かってますよ」
刃はレイラの方を振り返り、小さく笑った。
それは今まで見たどの表情とも違う、穏やかで、どこか諦めたような笑みだった。
「大丈夫ですから。すぐ終わりますよ」
そう言って、刃は深淵蜈蚣に向かって歩き出した。
走らない。構えない。気負わない。
散歩でもするかのように、ただ真っ直ぐ歩いていく。
深淵蜈蚣が、侵入者を認識した。
全長30メートルの漆黒の体躯が蠢き、次元断層の虹色の亀裂が展開される。空間そのものが軋む音がする。触れれば消滅。回避は不可能。
エリアボスの絶対防御が、刃を飲み込もうと迫る。
レイラは叫んだ。
「刃……っ!!」
刃は、立ち止まった。
日本刀を腰だめに構える。
いや――「構える」という表現は正しくない。
ただ、鞘から抜いただけだ。
道場で毎朝やるような、何の変哲もない、基本の居合の型。
(あー……面倒くさいな、本当に)
深淵蜈蚣の次元断層が、刃の眼前まで迫った。
そして――刃は、振った。
たった一振り。
素振りのような、何の力みもない、美しく滑らかな弧。
音は、遅れてやってきた。
世界が、裂けた。
深淵蜈蚣の巨体が――次元断層ごと、真っ二つに両断された。
いや、それだけではない。
蜈蚣の背後にあった岩壁が、割れた。天井が、裂けた。通路の奥、数百メートル先まで続く岩盤が、一直線に切断されている。
斬撃の軌跡が、74階層の地形そのものを書き換えていた。
次元断層が――物理法則を捻じ曲げる最強の固有能力が、ただの日本刀の一振りで、まるで薄紙のように切り裂かれた。
切断面から、深淵蜈蚣の体液が滝のように流れ落ちる。
左右に分かたれた巨体が、ゆっくりと地面に崩れ落ちていく。
その衝撃が、洞窟全体を揺らした。
天井の裂け目から、74階の上層――73階層の光が差し込んでくる。
刃の一閃が、階層そのものに穴を開けたのだ。
静寂が、訪れた。
砂塵が舞い、岩の破片が転がり、深淵蜈蚣だったものの残骸が横たわっている。
それ以外の全てが、凍りついたように動きを止めていた。
刃は日本刀を鞘に納め、何事もなかったかのように振り返った。
「終わりましたよ。怪我はないですか」
その声は、相変わらず面倒くさそうだった。
レイラは、答えられなかった。
口が開かない。声が出ない。思考が停止している。
目の前で起きたことを、脳が処理できない。
(何が……起きたの……?)
Sランクのパーティーが撤退した化け物。次元断層という絶対防御を持つ、この階層の頂点捕食者。
それが、たった一振りで。
素振りのような、何でもない動作で。
次元断層ごと、地形ごと、全て――。
「あ……」
レイラの蒼い瞳から、涙が溢れた。
恐怖ではない。安堵でもない。
それは、もっと根源的な感情だった。
(やっぱり……この人は……)
38階で見た、あの一閃。
あの時は、何が起きたのか理解すらできなかった。
今回は、見えた。見えたからこそ、余計に理解した。
――この人は、人間の枠を超えている。
次元断層を両断し、地形を変え、階層に穴を開ける。
それを、「素振り」でやった。
力んですらいない。息すら上がっていない。
(これが……この人が見ている景色……)
レイラの中で、何かが決定的に定まった。
迷いが消えた。
選択肢が消えた。
この人の隣に立つ。
この人が見ている世界を、自分も見る。
それ以外の道は、もう存在しない。
「レイラさん? 大丈夫ですか。ちょっと顔色が悪いですが」
刃が心配そうに――面倒くさそうに声をかける。
レイラは、泣きながら笑った。
「……はい。大丈夫です」
声が、震えていた。
「大丈夫です……。ただ……」
満身創痍の身体を、腕の力だけで起こす。
蒼い瞳が、真っ直ぐに刃を見つめた。
「今の一撃で、確信しました」
「……何をですか」
「私は……一生あなたについていきます。何があっても。絶対に」
その声には、狂気すら宿っていた。
だが、その狂気は――純粋だった。濁りがなく、一点の曇りもない。
ただひたすらに、この人の隣に立ちたいという、狂おしいまでの渇望。
刃は、長い沈黙の後、深いため息をついた。
(……もう、どうしようもないな、これは)
面倒くさそうに頭を掻き、割れた天井を仰ぎ、もう一度ため息をつく。
「……とりあえず、帰りましょうか。ここにいてもしょうがないですし」
「はい……っ!」
レイラは立ち上がろうとして、足が震えてよろめいた。
刃が、無造作にその腕を取った。
「立てますか」
「立て、ます……」
「無理しなくていいですよ。肩、貸しますから」
刃は呆れたように、だが乱暴にではなく、レイラの肩に手を回した。
二人は、深淵蜈蚣の残骸を越えて歩き始めた。
天井に開いた穴から差し込む73階層の光が、二人の影を地面に伸ばしている。
レイラは刃に支えられながら、横目でその横顔を見つめていた。
面倒くさそうな顔。億劫そうな目。いつも通りの、何の変哲もない表情。
世界最強の一撃を放った直後だというのに、まるで重い荷物を持たされた人のような顔をしている。
(……この人は、自分がどれだけとんでもないことをしたか、分かってるのかな)
多分、分かっていない。
あるいは分かっていて、どうでもいいと思っている。
どちらにしても、この人は変わらない。
それが八雲 刃という人間で、レイラが追いかける理由の全てだった。
「ねえ、刃」
「なんですか」
「ありがとう」
「……別に、お礼を言われるようなことはしてないですよ。目の前で死なれたら寝覚めが悪いだけです」
レイラは、くすりと笑った。
(嘘つき)
逃げなかったくせに。
パーカーを掛けてくれたくせに。
名前を教えてくれたくせに。
世界で一番不器用な優しさが、たまらなく愛おしかった。
深層の闇の中、二人はゆっくりと歩き続ける。
地上まで、あと3日。
レイラにとっては、人生で最も幸福な3日間の始まりだった。




