第79話「第一階層から」
夜明け前。
国定ダンジョン入口前の空気は、妙に明るかった。
まだ太陽は完全に出ていない。空は濃い群青色のままなのに、地上には白い照明がいくつも立ち、規制線の向こうではカメラの赤ランプが瞬いている。中継車。報道ドローンの待機ケース。協会職員の反射ベスト。企業ロゴ入りのコートを着た関係者。一般見物人まで混じっている。
昨日の公示が、たった半日でこれを作った。
刃は刀袋を左手に提げ、規制線の手前で一度足を止めた。
背中にはバックパック。肩の重みはいつも通りだ。重いのは荷ではなく、視線の方だった。
正面の大階段の先に、国定ダンジョン第一入口がある。
巨大な石造アーチ。内側は薄い青白い膜のように揺れ、向こうの暗さだけが見える。入り口そのものは昔からそこにあるのに、今日は別の建造物のようだった。周囲の人間が多すぎて、静けさが埋まっている。
「来た」
レイラの声だった。
振り向くと、彼女はすでに探索装備に戻っていた。白い業務スーツではなく、軽量装甲を組み込んだ黒と銀の戦闘服。髪は高い位置でまとめられ、右腰には魔導剣、背には折り畳み式の補助装備ケース。昨日までの広報責任者ではなく、現場の探索者の顔だ。
「寝た?」
「少しは」
「十分じゃないけど、ゼロじゃないならよし」
レイラはそれ以上言わなかった。
今朝は励ましの言葉も要らない。夜のやり取りで、必要なものは済んでいる。
その少し後ろから、ガレスとミラが歩いてくる。
大盾は背中。手には片手斧。荷は最小限に見えるが、中身は必要十分に詰まっていると分かる歩き方だった。
ミラは軽装の探索者アーマーの上に毛皮のベストを羽織り、腰には二本の短剣、背中には弓を負っていた。さらに計測機材のケースと採取用の温度管理ケースを持っている。眠そうな顔をしているのに、足取りだけは軽い。
「おはようございます」
ミラが言う。
「世界、起きるの早すぎません?」
「お前も起きてるだろ」
「私は仕事です。あっちは野次馬です」
ミラは言い切ってから、入口前の車列を見て肩をすくめた。
「でも、想定より多いですね。理論上は予測してましたけど、現物を見ると面倒です」
「理論上で済んでよかったな」
「済んでませんよ。現実です」
ガレスが短く言った。
「おいお前ら、雑談は中でやれ」
それで空気が締まる。
四人とも、今どこに立っているかを理解していた。
◇ ◇ ◇
協会が用意した進入ラインの内側には、職員が数名と、監視班が二名。見覚えのある顔もいた。ミリアだ。
いつもの事務制服に防寒用の薄いコートを羽織り、タブレットを抱えている。朝が弱そうな顔色なのに、目だけは覚めていた。
「おはようございます」
ミリアが近づいてきた。
「本日付で遠征監督案件に移行済みです。最終確認を行います」
「手短に」
刃が言うと、ミリアは即座に頷いた。
「定時報告は十八時間ごと。報告内容は位置、時刻、環境指数、生存状況の四点。ビーコンは四基。起動優先順位は昨日共有した通り」
タブレットが回される。確認欄に四人分の名前。
「撤退基準の協会登録内容も再確認します」
「言うぞ」
刃が先に口を開いた。
「一つ。誰か一人でも継続行軍に支障が出た時点で戻る」
「二つ」
ガレスが続ける。
「補給線が計画値を外れた場合、深追いしない。切る」
「三つ」
ミラが端末を胸に抱いたまま言う。
「採取条件が崩れた場合、素材優先をやめて生還優先に切り替える」
レイラが最後に付け足した。
「例外はなし。誰が何を見つけても、戻る時は戻る」
ミリアは短く記録し、視線を上げた。
「確認しました。協会登録内容と一致」
「外は?」
レイラが聞く。
「報道は現在、規制線の外に固定済みです。企業関係者はさらに外側。ただし、コメントを求める声掛けは避けられません」
「避けなくていい。無視する」
刃が言う。
ミリアは一瞬だけ困った顔をしたが、否定はしなかった。
「それと」
彼女は声を少し落とした。
「……送信元不明メッセージの件、こちらでは追えていません」
「分かってる」
「気をつけてください」
「分かってる」
同じ返答でも、昨日より少しだけ重さが違った。
気をつける対象が、魔獣や地形だけではなくなったからだ。
しかし、それをここで掘るつもりはない。
今は踏み出す方が先だった。
◇ ◇ ◇
規制線の向こうから、声が飛んできた。
「八雲さん! 一言お願いします!」
「特級遠征についてどう受け止めていますか!」
「忘却領域は本当に六十八層以降にあるんですか!」
「共同調査の予定は!」
無視した。
最初から答える気はない。
だが、視線だけは集まる。
刃だけではない。レイラにも、ガレスにも、ミラにも。
四人で動く、と決めたことが、もう地上では一つの画になっているのだと分かる。
刃は刀袋を下ろした。
中の二振りを取り出す。藍色の鞘の黎明。もう一方は、ヒビの入った古びた刀。
朝の冷気の中で、鞘の色だけが静かに沈んで見えた。
黎明を大刀の位置に。
古びた刀を小刀の位置に。
左腰へ大小差しする。
ただし、基本的に抜くのは黎明だけだ。
その瞬間、規制線の向こうでざわめきが走った。
カメラの向きが変わる。レンズがさらに寄る。誰かが小さく「二本差しだ」と呟いたのが、風に混じって聞こえた。
刃は気にしなかった。
帯の位置だけを確かめる。重みは馴染んでいる。左側に二振りが収まると、ようやく身体が現場の形に戻る。
レイラが目だけで確認してくる。
「いける?」
「問題ない」
ガレスが短く言う。
「隊列、確認」
刃が先頭。
半歩後ろの右にガレス。
左後方にレイラ。
中央後ろにミラ。
何度も机上で擦り合わせた形だ。
強い順ではない。役割順だ。
「行くぞ」
刃が言った。
「目的は持ち帰ること。最上位は全員で帰る」
「「「了解」」」
三人の返事が重なる。
短い。十分だ。
◇ ◇ ◇
第一入口をくぐった瞬間、音が変わった。
地上のざわめきが背後で切れる。空気の密度が少しだけ増す。湿った石の匂い。足裏に伝わる冷え。見慣れたはずの第一階層なのに、今日は別物だった。
広い通路。高い天井。壁面に走る薄青い燐光。入口付近は協会の整備が入っているため比較的明るいが、その先はすぐに自然岩の暗さへ沈んでいく。
弱い気配がいくつかある。第一階層の定番個体だ。脅威ではない。
だが、脅威でないことと、軽視していいことは別だ。
ミラが計測器を起動した。
「基準値、正常。通信も入口圏内では安定」
「最初の階層は問題ない」
ガレスが周囲を見回す。
「だからこそ、雑になるな」
前方の曲がり角から、犬型の魔獣が二体飛び出した。
反応したのはレイラの方が早い。床を薄く凍らせ、足を止める。次の瞬間、ガレスが半歩だけ前に出て進路を切る。
刃は抜かなかった。
必要がないからだ。
足を止められた二体は、威嚇の唸りだけ残して距離を取る。第一階層の個体にとって、この四人は最初から勝負の相手ではなかった。
「消耗ゼロ」
ミラが確認する。
「いい滑り出しですね」
「滑り出しだけならな」
ガレスの言葉は淡々としている。
浮かれない。だが冷やさない。
その温度が、この隊のちょうどいいところだった。
最初の転移階段前で、一度だけ立ち止まる。
石柱に刻まれた階層表示は、短く『1』。
たった一文字なのに、妙に遠く見えた。
ここは第一階層。
忘却領域は六十八層以降。
つまり、まだ入口にすら着いていない。
ミラが階段の下を覗き込み、小さく笑った。
「分かってはいましたけど、数字で見ると長いですね」
「今さらか」
「今さらでも、重いものは重い」
刃は黙って階段の先を見た。
下へ。さらに下へ。
人類が知っている地図の線を辿り、その先の空白まで降りていく。
昨日までの騒ぎは地上に置いてきた。
肩書きも、報道も、企業の思惑も、ここでは後ろに下がる。
残るのは、行くか戻るか、斬るか避けるか、持ち帰れるかどうかだけだ。
「行くぞ」
もう一度言って、刃は階段へ足をかけた。
後ろに三人の気配が続く。
隊列は乱れない。
足音だけが、石の内部へ吸い込まれていく。
六十八層は入口にすぎない。必要なら、その先まで行く。
長い下降の先で、忘却領域が待っている。




