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底辺探索者の手加減極意 〜最強の師匠に育てられた俺はソロでダンジョンを攻略したいだけなのに、偶然トップ配信者を助けたら世界中から注目されてしまった〜  作者: らいお
漆ノ太刀 忘却領域遠征

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第78話「出発前夜」

 午前十時。

 探索者協会の公式サイトが更新された。


 刃はローテーブルの前に座り、ノートPCの画面を見ていた。隣ではレイラが業務用端末と私用端末を並べ、連絡用チャットとニュース監視画面を同時に開いている。

 昨日の警告メッセージは、携帯の受信欄にまだ残ったままだ。消していない。だが今、世界を動かしているのは別の通知だった。


 協会公示の見出しは、簡潔だった。


 『新規ランクカテゴリ「特級」創設および国定ダンジョン 忘却領域フォーゴットン・ゾーン遠征の実施について』


 本文はさらに簡潔だった。

 既存ランク体系で処理不能な探索者に対する新カテゴリを創設すること。

 八雲刃を遠征期間中の特級探索者として暫定登録すること。

 国定ダンジョン六十八層以降への遠征を、協会公式監督下で実施すること。

 行き先の詳細、進行ルート、報告条件の内訳は非公開。

 書かれているのはそれだけだ。


 それだけで、十分だった。


 数秒遅れて、端末が一斉に震え始めた。

 ニュースアプリの速報。SNSのトレンド更新。配信サイトの切り抜き通知。協会広報への照会。企業広報部からのコメント依頼。見出しだけで分かる。世界が同じ一点を見始めた。


 『探索者協会、「特級」制度を新設』

 『八雲刃氏、忘却領域遠征へ——協会が異例の暫定登録』

 『#特級探索者』『#忘却領域遠征』『#最強のポーター』一斉急上昇


 昨日まで仮称だったものが、今日から制度になる。

 噂だったものが、公表された事実になる。

 人は、名前がついた瞬間に安心する。安心した分だけ、遠慮なく群がる。


「来たね」


 レイラが画面から目を離さずに言った。


「来たな」

「報道はもう走ってる。早いところは、公示前から原稿を用意してた」

「だろうな」


 レイラの端末に、問い合わせ件数が秒単位で積み上がっていく。

 彼女は慣れた手つきで振り分けを始めた。取材依頼。コメント照会。スポンサー名目の接触。専門家談話の打診。全部を分類し、切るべき相手を切り、協会に返すべきものだけを残していく。


「一般向けは『制度説明中』で返す。企業は『遠征結果が出るまで交渉しない』で統一。配信系は全部断る」

「全部か」

「全部」

「徹底してるな」

「半端に残すと、入口にカメラが増える」


 入口、という言葉で、刃の頭に明日の朝の光景が浮かんだ。

 規制線。中継車。ドローン。遠巻きの記者。面白がる一般客。事情を知りたがる企業関係者。

 そこを、四人で抜ける。


 缶コーヒーを開けた。ブラック。苦い。うまい。

 味は変わらない。

 変わったのは、その苦さを飲んでいる人間の扱われ方だけだった。



◇ ◇ ◇



 午前十時二十分には、SNSの流れがもう一段階変わっていた。

 最初の波は制度への驚き。次の波は、刃個人への解釈だった。


 『特級って何だよ、後付けじゃん』

 『後付けでも何でもいい。既存ランクで測れないなら新しく作るしかない』

 『忘却領域って本当にあったのか』

 『八雲刃、結局協会が認めたってこと?』

 『認めたというか、分類不能だから新箱作っただけだろこれ』

 『でも遠征はやる。しかも公式監督下。つまり本気』


 切り抜き動画も増えた。

 合同開拓イベントの低解像度映像。理事会後の目撃情報。協会庁舎前のぼやけた写真。無責任なランキング動画。もっともらしい考察。どれも雑で、どれも速い。


 ミラが以前言っていた通りだ、と刃は思った。

 情報は精度より速度で増える。

 そして、一度広がったものは、正誤と関係なく残る。


 レイラがニュース画面を切り替えた。

 今度は国定ダンジョン入口の空撮だった。すでに規制線の設営が始まっている。搬入用車両。仮設柵。警備員。歩道の向こうに、朝の中継場所を見越して場所取りを始めた連中までいる。


「明日、四時台から現地中継に入る局が三つ」

「早すぎるだろ」

「遅いと場所が取れない」

「面倒な世界だ」

「本当に」


 レイラはそう言いながらも、表情を崩さなかった。

 面倒だと認識した上で、処理する顔だ。


「協会の広報文、こっちで少し直す」

「勝手に直していいのか」

「勝手には直さない。直した案を返す」

「同じだろ」

「違う。責任の所在が違う」


 そういう理屈が通る世界で、この女は戦っている。

 刃には未だに、半分くらいしか分からない。



◇ ◇ ◇



 昼前、ガレスから通信が入った。

 音声通話だった。無駄な前置きはない。


「俺だ」

「分かる」

「明朝の集合、二十分前倒しにする」

「理由は」

「報道の滞留が読めん。現地警備も増える。裏導線を使うなら、余裕を見た方がいい」

「了解」


 ガレスの声はいつも通り低い。外がどれだけ騒いでいようと、この男の声だけは一定だった。


「持ち物確認は今夜で終えろ」

「分かってる」

「寝不足で潜るな」

「……眠れたらな」


 数秒だけ、向こうが黙った。


「眠れなくても横になれ。判断力の落ち方が違う」

「了解」

「以上だ」


 通話はそこで切れた。

 短い。必要なことだけ。だが、その短さの中に、前線指揮官としての信頼が全部入っている。

 肩書きも世間の騒ぎも、ガレスにとっては優先順位の外だ。見るのは行軍時間と判断速度だけ。そういう人間が一人いるのは、ありがたかった。


 切れた画面を見ていると、間を置かずに今度はミラからメッセージが届いた。


 『公示、確認したよ。世界が元気で何より』

 『採取キット最終版、更新済み。位相安定剤を二本追加。重量は誤差』

 『あと、協会向けに理系版の説明文を投げておいた。意味不明な報道が少し減るはず』

 『眠れないなら無理に寝なくていい。でも手順だけは寝ぼけたままにしないで』


 最後に、いつもの顔文字はついていなかった。

 代わりに、追伸が一行だけ追加される。


 『解析は私が見る。持ち帰る方を忘れないで』


 刃は短く息を吐いた。

 言い方は違うが、結局みんな同じ方向を見ている。

 勝つことではない。見せることでもない。持ち帰ることだ。



◇ ◇ ◇



 午後になると、窓の外の車が一台増えた。

 夕方には二台になった。

 報道か、企業か、あるいはその両方か。カーテン越しに輪郭だけは分かる。レイラは一度だけ確認し、それ以上は気にしなかった。


「見ても減らない」


 それだけ言って、また端末へ戻る。

 刃も外は見なかった。見たところで、今やるべきことは変わらない。


 バックパックを床に下ろす。

 中身を並べる。予備電池、簡易食、固定バンド、防水布、手袋、応急処置セット、位相遮断ケース、ビーコン、紙の控え。

 刀袋はいつも通り左側だ。中を確認する。藍色の鞘の黎明(れいめい)と、ヒビの入った古びた刀。ダンジョンに入れば、二振りとも左腰へ差す。ただ、基本的に抜くのは黎明だけだ。古びた刀は、非常用のまま眠らせておく。

 協会から渡された仮登録証は、最後まで触りたくなかったが、結局内ポケットに入れた。

 『特級(暫定)』

 印字されたその二文字は、やはり自分には似合わない。


 テーブルの端には、携帯が伏せられている。

 受信欄の一番上にあるのは、昨日の一行だ。

 『忘却領域の先へ行くな』


 気にならないわけではない。

 むしろ、その逆だった。

 行くなと言われた先に、答えがあるかもしれないと知っている。だからこそ、言葉の重さが増している。

 だが、今はその正体を追う段階ではない。追えば、明日の準備が遅れる。

 持ち帰る前に、足を止めるわけにはいかなかった。


 夕方、協会から最終連絡が届いた。

 集合時刻、裏導線の一次案、警備範囲、報道対応の基本方針、現地での待機ライン。文面は事務的で、冷たいほど整っている。

 その添付一覧の末尾に、レイラの追記があった。


 『質問は明朝まとめて受ける。今は準備だけして』


 刃は返信しなかった。

 同じ部屋にいる相手に、わざわざ返す必要がなかったからだ。



◇ ◇ ◇



 夜。

 ようやく端末の通知音が途切れ始めた頃、レイラがノートPCを閉じた。

 白いシャツの袖を二回まくっている。朝からずっと業務の顔で動いていたせいか、目の奥に少しだけ疲れがある。それでも姿勢は崩れていない。


「今日はここまで」


 レイラが言った。


「全部切れたか」

「全部は無理。でも、明日の朝まで刃に直接届く線はほぼ塞いだ」

「ほぼ、か」

「ゼロって言うと、だいたい破られるから」


 現実的な言い方だった。

 その方が信用できる。


 レイラは冷蔵庫から缶コーヒーを二本出した。どちらもブラックだ。一本を刃に投げて寄越し、自分も一本開ける。

 二人でベランダに出た。


 東京の夜は明るい。遠くの道路を走る車の音。どこかのマンションの換気扇。見上げれば空はあるが、星はほとんど見えない。

 それでも、山の夜とは別の静けさがあった。騒音の底に沈んだ静けさだ。


 しばらく、何も言わなかった。

 缶の冷たさだけが、手の中ではっきりしている。


「寝られそう?」


 レイラが先に聞いた。


「分からない」

「そう」


 それだけだった。

 大丈夫とも言わない。気にするなとも言わない。その距離の取り方が、今の刃にはありがたかった。


 少し間を置いてから、刃は言った。


「……まだ怖さはある」


 口に出した瞬間、自分でも少し驚いた。

 今までなら言わなかった言葉だ。言う意味がないと思っていた。怖さがあっても行くのなら、黙っていればいいだけだった。

 だが今回は、黙ったままでは駄目な気がした。


「忘却領域そのものもそうだ。昨日の文面もある。先に何があるのかも分からない」


 缶を持つ手に、少しだけ力が入る。


「俺一人で潜るなら、まだ単純だ。でも今回は違う。四人で行く。持って帰るって先に決めた。全員で帰るって言った」


 自分で言った言葉が、そのまま重さになる。

 誰かを連れて行くと決めた時点で、刃の中の怖さは別の形に変わっていた。

 負ける怖さではない。

 足りないまま帰る怖さでもない。

 連れて行った相手を、持ち帰れないことへの怖さだ。


 レイラは少しだけ視線を上げ、夜の空を見た。

 そして、こちらを見ずに言った。


「隣で見る」


 それだけだった。


 励ましではない。

 軽くする言葉でもない。

 大丈夫だと保証する声でもない。

 ただ、一人で背負わせないという事実だけが、短く置かれた。


 刃は缶コーヒーを一口飲んだ。

 苦い。うまい。

 怖さは消えていない。だが、形だけははっきりした。


 レイラが何かを足すことはなかった。

 沈黙のまま、二人でしばらく夜風に当たった。

 それで十分だった。



◇ ◇ ◇



 部屋に戻る。

 玄関の脇に、荷物をまとめて置く。バックパック。刀袋。書類ケース。ビーコン。携帯。内ポケットの仮登録証。

 明朝、持って出るものは全部見える場所に出した。


 もう逃げ道はない。

 いや、最初からないのではない。逃げる道を、自分で選ばなかっただけだ。


 師匠の手紙の追記を思い出す。

 最短を選ぶな。

 勝てる道より、帰れる道を選べ。

 強い順ではなく、役割で人を選べ。

 答えは場所ではなく、選択に出る。


 忘却領域へ行く。

 必要なら、その先まで行く。

 だが、それは答えを奪いに行くためではない。

 置いてくるためでもない。


 刃は玄関脇の荷物を見た。

 ここに置いてあるのは自分の荷物だけだ。だが、その向こうにはミラのケース、ガレスの指示書、レイラの対外調整まで含めた四人分の準備が繋がっている。


 逃げるためじゃない。持って帰るために行く。


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