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第7話「どうしても諦めてくれない」

 鬼ごっこは、3時間続いた。


 72階層から74階層まで、深層の地底を走り抜け、泳ぎ、跳び、壁を砕き、魔獣を薙ぎ払い――それでもなお、蒼い光はずっと背中にあった。

 消えない。振り切れない。正確には、振り切ろうと思えばいつでも振り切れる。刃が本気で縮地(しゅくち)を踏めば、彼女の氷眼(ひょうがん)でも追えない速度域に入れる。

 だが、そうしなかった。

 理由は簡単だ。本気で振り切ったところで、この女は死ぬまで深層を彷徨い続ける。そしていつか本当に死ぬ。


 だから刃は、彼女がギリギリ追いつけない程度の速度で走り続けた。

 それが「逃げ」なのか「引きずり回し」なのか、もはや本人にも分かっていなかった。


 そして――限界は、あっけなく訪れた。


 74階層の広大な晶洞を駆け抜けている最中、背後の魔素(マナ)の気配がふっと消えた。

 消えた、というより――潰えた。

 蝋燭の火が溶けた蝋の中に沈んでいくように、レイラの生体魔素(マナ)が、静かに途絶えた。


 刃は、足を止めた。


(……やっぱりか)


 振り返る。

 50メートルほど後方の通路に、銀色の髪が散らばっていた。

 レイラは顔から地面に突っ伏すように倒れ、微動だにしない。全身を覆っていた氷の粒子はとうに消え失せ、魔素強化(ブースト)の残滓すら感じられない。

 魔力が、完全に枯渇したのだ。


 刃は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


(……放っておけば、いずれ目を覚ます。そうしたら、勝手に地上に帰るだろう。この階層なら深層魔獣もそこまで凶悪じゃない。……多分)


 合理的に考えれば、今が逃げるチャンスだ。

 レイラが意識を失っている間に縮地(しゅくち)で離脱すれば、今度こそ追跡は不可能になる。


(そうだ。今のうちに行こう。行くべきだ。これ以上関わったら面倒なことになる)


 刃は踵を返した。

 一歩、踏み出した。


 ――そして、二歩目を踏まなかった。


(……くそ)


 小さく舌打ちして、刃はレイラの方へ歩き戻った。



◇ ◇ ◇



 レイラが意識を取り戻した時、最初に感じたのは、全身を覆う鈍い痛みだった。


 頭が、割れそうに痛い。

 魔素(マナ)の逆流による後遺症だ。禁忌に近い魔素強化(ブースト)を消耗しきった状態で無理やり使い続けた代償が、容赦なく身体を蝕んでいる。

 視界がぼやける。吐き気がする。指先の感覚が曖昧だ。


(……私、倒れたんだ)


 記憶が断片的に蘇る。追いかけていた。ずっと追いかけていた。蒼い光を纏って、壁を蹴り、天井を跳び、結晶を砕きながら直進して。でも、あと少しのところで――


「……起きましたか」


 声が、すぐ近くから聞こえた。

 レイラがゆっくりと目を開けると、焚き火の光が揺れていた。


 岩壁に寄りかかるようにして座っている刃の姿が、ぼんやりと視界に入る。

 古びた日本刀を膝に置き、串焼きを齧りながら、携帯ゲーム機の画面を見つめている。


(……待っていて、くれたの?)


 逃げなかったのだ。

 逃げようと思えばいつでも逃げられたはずなのに。


「……あれ」


 レイラは自分の身体を見下ろした。

 裂傷には新しい包帯が巻かれている。脱臼していた左腕も、改めて固定し直されている。

 そして、自分の身体には見覚えのない上着が掛けられていた。黒いパーカー。あの――刃がいつも羽織っている、くたびれたパーカーだ。


「……っ」


 胸の奥が、じわりと熱くなった。


「3時間ほど気を失っていましたよ。吐血もされていたので、口元を拭いておきました。……申し訳ありませんが、手持ちの水と食料が少ないので、串焼きで我慢してください」


 刃はそう言いながら、焼き上がったばかりの串焼きをレイラに差し出した。

 その顔は、相変わらず面倒くさそうだった。だが、声の温度は――さっきまでの逃走劇の時とは、明らかに違っていた。


「……いただき、ます」


 レイラは震える手で串焼きを受け取り、一口齧った。

 泥臭い。硬い。お世辞にもおいしいとは言えない。

 でも、今まで食べたどんな高級料理よりも、温かかった。


 しばらく、二人の間に沈黙が流れた。

 焚き火の爆ぜる音だけが、深層の暗闇に響いている。


 先に口を開いたのは、刃だった。


「……一つ、聞かせてもらえますか」


 串焼きの棒を焚き火に投げ入れ、刃はぼそりと言った。

 レイラは顔を上げた。


「そこまでして、どうして強くなりたいんですか」


 問いかけは、率直だった。飾りもなく、遠回しでもなく。ただ、ぼそりと投げかけられた一言。

 レイラはそれを正面から受け止め、自分も飾らずに答えようと思った。


「……最初は、ただ悔しかったの」


 レイラは串焼きを膝の上に置き、焚き火の炎を見つめた。


「私は、自分が世界で一番強いと思っていた。Sランクの中でも最年少で到達して、国家試験の成績は歴代トップで、神盾機関イージス・コーポレーションでも主席で。ダンジョンの38階を単独で踏破できる人間は、世界で数えるほどしかいない。……そのことが、誇りだった」


 刃は黙って聞いていた。


「でも、あの日。38階で歪域蟲ディストーション・ビートルの大群に囲まれて、もう駄目だと思った時。あなたが来た」


 レイラの蒼い瞳が、焚き火の光を映して揺れた。


「たった一振り。ただの一太刀で、Sランクの精鋭20人がかりでも歯が立たなかった化け物の群れを、消し飛ばした。……私には、あなたが何をしたのかすら分からなかった」


 声が、微かに震えた。


「分かる? 世界で一番強いと思っていた自分が、目の前で起きた事象すら理解できなかったの。斬ったのか、潰したのか、吹き飛ばしたのか。……何一つ、認識すらできなかった」


 レイラは自分の右手を見つめた。何千時間も剣を振り続けてきた、傷だらけの手。


「その瞬間に、全部壊れた。今まで積み上げてきた自信も、誇りも、強さの定義も。……何もかも、嘘だったんだって」

「……」

「だから最初は、悔しかった。自分がいかに小さな世界にいたか、思い知らされて。……でも」


 レイラは顔を上げ、真っ直ぐに刃を見た。


「それ以上に、嬉しかったの」


 刃の眉が、ほんの僅かに動いた。


「……嬉しかった、んですか」

「うん。……だって、まだ上があるんだって分かったから。私なんかが想像もできないほど遠い場所に、本物の強さがあるんだって」


 レイラの蒼い瞳に、涙が滲んだ。

 だが、その表情は笑っていた。


「私ね、ずっと孤独だった。Sランクになった時、周りに同じ目線で話せる人がいなくなった。後輩には崇められて、同期には妬まれて、先輩には利用されて。配信ではファンが何百万人もいるのに、誰一人として『私』を見てくれていなかった」


 焚き火の炎が、パチリと爆ぜた。


「でもあなたは……あなただけは、私のSランクとか、トップ配信者とか、そんな肩書きに一切興味がなかった。むしろ全力で逃げた。……それが、どれだけ嬉しかったか、分かる?」


 刃は、何も答えなかった。

 ただ焚き火を見つめていた。


「私はね、あなたの強さが欲しいんじゃないの。……あなたが見ている景色が、見たいの。あなたと同じ場所に立って、同じ目線で世界を見てみたい。それだけ」


 レイラの声は、もう震えていなかった。

 静かで、澄んでいて、一点の曇りもなかった。


「だから――何度逃げられても、追いかける。何度断られても、お願いし続ける。死にかけても、諦めない。あなたが振り向いてくれるまで、絶対に」


 そう言い切ったレイラは、満身創痍で、血塗れで、泥だらけで。

 それでも蒼い瞳だけは、深層の闇の中で宝石のように輝いていた。


 刃は、長い沈黙の後、深いため息をついた。


(……参ったな)


 この女の言葉に、嘘はない。

 3時間の鬼ごっこで、それは嫌というほど証明された。命を懸けて、文字通り血を吐きながら追いかけてきた人間の言葉に、嘘などあるわけがない。


 そして何より――厄介なのは。


(……ちょっとだけ、分かるんだよな。その気持ち)


 かつて、刃にもそういう時期があった。

 師匠の背中を追いかけて、泣きながら山を駆け回り、何度も木刀で打ちのめされ、それでも「もう一回」と立ち上がった。

 あの頃の自分も、きっとこんな目をしていたのだろう。

 理屈じゃない。損得でもない。ただ、あの人の隣に立ちたかった。あの人が見ている世界を、自分も見たかった。


(……面倒くせぇな、本当に)


 刃は頭をガシガシと掻いた。


「……あなたの、お名前は」


 不意に、そう聞いた。ぎこちない言葉だった。

 レイラの目が、大きく見開かれた。


「……え?」

「お名前。ここまで追いかけてくださった割に、まだ名乗ってなかったですよね」


 それは事実だった。

 出会いから今まで、ずっと「弟子にしてください」と「待ってください」しか言っていない。


「レイラ。……レイラ、です」

「レイラさん、ですか」


 刃は焚き火に新しい燃料を放り込みながら、ぽつりと言った。


「俺は刃。……八雲 刃」


 レイラの蒼い瞳が、大きく揺れた。

 初めて、彼が自分から名前を告げた。


「刃さん」

「さん付けは結構ですよ。お好きにどうぞ」

「……刃」


 その名前を口にした瞬間、レイラの目から涙がこぼれ落ちた。

 嬉しくて、ではない。安堵だった。

 ようやく、この人との間に、ほんの僅かだけ距離が縮まった。名前を教えてもらえた。それだけのことが、何よりも嬉しかった。


「泣かなくていいですよ……はぁ、面倒くさいな」

「ごめん、なさい……っ。でも……嬉しく、て……」

「…………」


 刃はため息をつき、視線を焚き火に戻した。


(弟子は取らない。教えることもない。……けど、まあ)


 腕を組み、岩壁に背中を預ける。


(変な奴ではあるな、こいつ)


 「面倒な連中」という括りの中に、レイラはもういなかった。

 代わりに、名前のない新しい場所――「少しだけ変な奴」という曖昧で不器用な位置に、彼女は収まりつつあった。


 焚き火の蒼い光が、並んで座る二人の影を照らしている。

 片方は疲れ果てて泣いていて、もう片方は面倒くさそうにゲームをしていた。

 深層の闇の中、世界で最も不釣り合いな二人の夜が、静かに更けていく。

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