暑中見舞いの静かな波紋
暑中見舞いの時期になり、
「今の時代、出さなくてもいいのかな……」と思いつつ、
しばらく社会から離れていた杏子は、やはり職場の人には出しておいたほうがいいのかもしれない、と考えた。
先日、パソコンの中に「社員住所」というフォルダーを見つけた。
そこには、職場の人たちの住所が一覧になって残されていた。
「これは、使っていいものなのかな……」と一瞬ためらったが、業務用のデータだし、問題はないだろうと自分に言い聞かせる。
杏子は、いつも仕事で接する職場の人たち宛てに、手書きで暑中見舞いを書くことにした。
「字、下手だけど……気持ちが伝わればいいよね」
夜、リビングのテーブルにハガキを広げて、杏子は一枚一枚、ペンを走らせていった。
数日後、出勤すると、
事務所にいた茅野に呼び止められた。
「牧野さん!暑中見舞いが届いたんですけど!」
なんかまた棘のある声で怒鳴ってきた。
「はい、日頃お世話になっているので、皆さんに出しました」
杏子は、できるだけ普通に答えた。
だが、茅野の顔がますます怒っているように感じた。
「ちょっと……今の時代、個人情報保護法ってあるでしょ。
同じ職場だからって、勝手に出してもらっては困るんです!」
「……?」
杏子は、言われた言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
事務所には、杏子と茅野しかいない。
静かすぎる室内に、空調の低い音だけが響いている。
(暑中見舞いごときで……そんな怒る?)
心の中でそうつぶやいても、口に出すことはできなかった。
何か反論すれば、さらに空気が悪くなる気がして。
杏子は、ぺこりと小さく頭を下げて、その場を離れた。
自分の席に着き、そっとカバンを置く。
ペン立ての中のボールペンが、かちゃりと揺れる音が、やけに大きく聞こえた。
(私、そんなに悪いこと……したかな)
机の上に広げた手が、少しだけ震えている。
誰に見られているわけでもないのに、胸の奥がじわじわと痛んだ。
「気を利かせたつもりだったのに」
かすかに唇が動いたけれど、声にはならなかった。
席に着いたものの、杏子はパソコンを開く気にもなれず、ただ手を膝の上で組んだ。
(もう、何もしないほうがいいのかもしれない)
ふと、そんな考えが頭に浮かぶ。
働きはじめたばかりで、何か役に立ちたいと思った。
少しでも、周りと馴染みたかった。
その一心だった。
けれど、結果はこれだ。
(また、余計なことしたって思われたんだろうな)
目の前にある、白いデスクの端がにじんで見えた。
慌ててまばたきをして、何もなかったふりをする。
パソコンの画面に、かすかに自分の顔が映っていた。
緊張で強張った表情。
泣きたいわけじゃないのに、涙がこぼれそうになる。
(次からは、言われたことだけやろう)
(自分から何かしようなんて、思わないほうがいい)
そう心に決めたのに、
喉の奥がきゅっと締めつけられて、うまく息が吸えなかった。
そんな杏子の背中越しに、カタカタとキーボードを叩く音が静かに響いていた。
パソコンを開きかけた手を、そっと引っ込める。
(ここでは……言われたことだけしてればいいんだ)
杏子は、心の中で静かにそう結論を出した。
余計なことを考えない。
自分から動かない。
求められたことだけ、黙ってこなす。
そうすれば、きっと誰にも迷惑をかけない。
怒らせることもない。
小さくうなずくと、杏子はデスクの引き出しから仕事の資料を取り出した。
指先はまだわずかに震えていたけれど、顔には出さなかった。
カタカタ、とパソコンを立ち上げる音。
その隣で、茅野が何事もなかったかのように作業を続けている。
杏子は、深く息を吐き、目の前の業務に集中しようと努めた。
自分の存在を、できるだけ小さく、目立たないように。
そう、ここでは、
何も期待しない。
何も期待されない。
ただ、それだけでいいんだと、自分に言い聞かせながら。
小さな気遣いが、思いがけず波紋を広げることがある。
人との距離感や常識のずれが、職場という限られた空間で浮き彫りになる。
暑中見舞いという季節の風物詩が、杏子にとっては静かな転機となった。




