10月末 『バトルサイボーグと迷子の悪魔』
基本に立ち返り小説を考えることから考える
これは答えを決めるのではなく、頭のなかに道をなるべくたくさん作っておこうという事なのだ
そしてその道を歩くのは一人の自分じゃない
百人の自分が自分の中の道を歩くのだとするのが思考というならば
道が少なくては不便だ
他に例えるとすれば、好きな人に会うのだからどんな服を着ていこうかと迷わずに、着たい服をそれぞれ着た複数の自分で好きな人に会いに行けばよい、ということにもなる
違う服を着た複数の自分が、自分の中の違うそれぞれの道をいったりきたりしている
これが僕の思考の今のところのイメージ
小説とはなんぞやと考える
考えることはたくさんの道を作ることだ
小説とはなんぞや
たくさん文字が書いてあるものだ
いやいや小説でなくてもたくさん文字が書いてあるものはいっぱいあるんだ
じゃあ小説に書いてある文字ってなんなんだろう
何だろうか
そもそも文字は何をするためのものだ
僕の頭は「それは情報の伝達をするためだ」という答えを出そうとしている
だけどそうじゃない
君の答えは正しくてその通りなのだけど、それじゃ道がひとつしか生まれない
それに誰かがすでにそう考えている可能性が高い
でもきっとその道は、正しい以外に他に意味がある
道の使い途というわけだ
小説とは「情報」というものに対する「伝達」というアクションであるという仮定が作られた
誰かが既に考えているかもしれない、つまりキッチリピッタリ誰のなかにでも収まり共通認識化されている事でも、自分の思考を流し込める隙間はないか
これも探してみる必要がある
次は共通認識化されていない自由な仮定を考えてみる
しかしこの行為が既に小説を書くことに等しいのではないかという事に気付いた
小説を書けないのなら小説について考えればいいじゃない!
(僕はこういうことを考えるときの自分の弱点、情報をまとめられないということに突き当たる)
小説とは何か
エッセイの変容
それとも小説から変容してエッセイになる
小説で具体的になっていたものがエッセイで抽象的になり
また逆にエッセイで具体的だったものが小説では抽象的になる
なんてことがあったりなかったり
事物のイメージのイメージのイメージ辺りでアイデアのモチーフにしてみる
そのイメージのイメージのイメージにする個人的な過程と作業が、個人の発現なのだと思っている
書くという事は究極的には自分の宿命を、背負って生まれてきたものを知ってしまうことに行きつく
決して、精神に着込んでいる綺麗な召し物を見せびらかす場ではない
人は人のハダカに惹かれ続ける
着ているものに本当は興味はない
綺麗な言葉は自分に嘘をつかせる可能性が高い
それは自分が使っていいものなのかどうか
嫌なことからはどんどん逃げまくる
でもそのかわりに立ち向かってみるものはそれと同時で絶対に決めることにする
自由に立ち向かうものに取り組み、嫌なことを気づかず轢き逃げ出来ればラッキー




