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「会社は?」眼鏡の女性、峯ゆかりが問う。
「休んだ。電話で連絡入れて」と答える。
「私も。いきなりだったから」吐く息が白い。
「ごめんね、いきなり」
「ううん。大丈夫」首を振るとボブ髪が柔らかく揺れる。
駅の北口を出て、大通りを歩く。疎らに車がそばを通るたび、ゆかりが心持ち私のほうに寄る。仄かに排ガスの臭い。
「朝起きてさ、もう出勤する気満々ってところでさ、貴重品入れてた抽斗見たら、指輪が割れてて」指先を見れば赤みがさしている。
「……なんで割れたの?」こぷ、こぷ、と小さく彼女の靴が鳴る。
「分かんない。ほんと、抽斗開けたら割れてて。だから普段は抽斗に守られてるから衝撃とかないはずなんだけど」私は肩を竦めてみせる。
「……劣化かな」ゆかりが首を傾ける。
「かもね。まあ、それ以外思いつかないけど」
橋を渡る。手前の信号はすぐに点滅し始め、私たちは小走りになる。「いい加減ここの信号、なんとかしてほしいよね」と言うとゆかりも「ね」と返す。しばらく直進して後三つ目の交差点を左に曲がる。バス通りに出ると交通量が増す、と言っても渋滞など発生していなくて、都心部と比べればずいぶん閑散とした通りだ、歩行者も三々五々、思い出したようにしか歩いておらず、私たち二人が横に並んで歩道を歩いていてもさして迷惑にはならない。
「指輪、見せて?」ゆかりが言う。
「あ、うん」と応じて私はジャケットのポケットを探り、用心深く二つに割れた指輪を取り出し、掌に載せて見せる。「真っ二つだ」とゆかりが感嘆する。「見る?」と言って手渡すと、ゆかりは矯めつ眇めつこれを見て、「綺麗に割れたもんだね、こりゃ」とまた滋味深く感嘆した。
「形あるものはいつか壊れるって言うけどさ」ゆかりが指輪を私に返す。「なんだか、悲しいっていうか、虚しいかな。私たちが仕事で、あるいは仕事じゃなくても生活しながら生み出してるものって、なんて儚いんだろう。別に永遠に存在し続けろとは言わないけど、ほんの十年、十年ちょっとで壊れちゃうなんて、もはや生産なんてあり得ないんだって気がしてくるな」
「生産なんてあり得ない?」私は指輪を再びポケットにしまう。
「そ。何かを形作っても、本質的にはそれは無で、空っぽで、すぐに消えてしまう物、っていうか。色即是空空即是色だっけ?」
「あるねそういうの。詳しく意味知らないけど」私は笑う。
「私もよく分かんないで言ってるんだけどね」ゆかりも笑う。
「いっそ二人で仏門入っちゃう?」冗談めかして言う。ゆかりも冗談めかして「それもいいかなー」と言い、「嘘。やだよ。贅沢したいもん」と拗ねたように言う。
路地に入り、歩道がなくなったので二人一列となる。後ろにゆかりの息遣いを感じながら歩く。車は滅多に通らないので並んで歩けばいいのにといつも思うのだがゆかりは生真面目な性格のためか絶対に法則を崩さない。きっと、人生損してるんだろうなあと思う。もっと自分に甘く、もっとエゴイスティックに生きればいいのに。堕落と呼ぶのが適切かは分からないけど、模範的に生きたところで釣銭が返ってこないのならば規律の抜け穴、グレーゾーンを作ったほうが快楽を貪れるはずだ、世はそういう風に事実できている。あるいは規律に従順であれば仏教で言うところの徳が溜まって最終的に自分を利するのだろうか。
沈黙の中、左の庭木からヒヨドリが右方向へ飛び立つ。鋭い羽音の残響を耳にしながら進み、S字にうねった先の右手、目的地に到着した。
微かに、ゆかりの息を呑む音が聞こえた気がした。