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Int. 4

 八月に入ると大学は夏季休業となり、一回生だった私は、さほど郷愁が湧いたわけではないけれどお盆前に帰省した。メールでやり取りしたところによると喜利子とゆかりも地元に帰り、さらに喜利子は父母とドイツ旅行に行くのだと言った。「何かお土産に欲しいもの、ある?」と訊かれ、ドイツかあとイメージしたものがクリスマスマーケットで、クリスマスマーケットは?と訊けば割と本気で出てるわけないじゃんと怒られてしまった。

 何かない?との喜利子の問いに私はもう一度ドイツをイメージして、ビールとソーセージが思い浮かび、でも拗けていた私はそんな月並みなお土産を注文する自分が嫌で、だからと言って適当な返答が見つかったわけでなく腕を組んでうーむ呻吟していたのだが、やがて待ちかねた喜利子が、わたしが選んできていい?と言ったので特に考えず首肯した。喜利子は嬉しそうだったし、実のところ待ちかねたわけでもなかった。

 帰省して久々に会った父母は少し背が縮んでいて、なんてことはなく相変わらず元気に生意気で、亡くなって分かる親のありがたみなどと言うが両親は亡くなりそうになく、私にとって死は遠かった。認知症の始まりに位置した祖父もいたがそれでも死なんてものはフィクションの中、作り事でしかなかった。ありがたみを知る日など、永遠に来ないような気がしていた。

 結局親元でだらだら無為に過ごすのも退屈になったので私はお盆を過ぎてのラッシュを避けてから再び下宿に戻った。まだ八月だった。大学構内の植樹には蝉が鳴いていた。

 九月に入ってもアブラゼミがジージー鳴いていた。どこか感覚が麻痺したような気怠さを感じながら図書館前のベンチに座っていると、喜利子とゆかりがやって来た。前日、喜利子から招集がかかっていた。

 久しぶり。と手話で言う。久しぶり、とゆかりが返してくる。元気だった? 元気だった。身長伸びた? 伸びてない。あはは。

 戯言を言ってから、図書館に顎をしゃくる。あそこの中で話す?

 しかし二人は乗り気でなく、特に喜利子は俯き加減で意思が取りにくい。なんか、あった? ゆかりに訊くも彼女もぎこちない笑みを返してくるばかりだった。

 学生が正門方向に駆けていくのが見えた。日差しきついし、移動しない?と再度訊けばしばしの沈黙があり、やがてゆかりが言った。「どこか、人通りの少ないところで、話したいから」喜利子の肩にそっと触れ、ゆかりは東南方向へ歩き始めた。喜利子も連れ立って歩き、私も彼女らの後を追った。喜利子の背中が小さく見えた。

 棟をいくつかよぎり私たちは、大学敷地の外れ、行き止まりになっているためよほどの理由がない限り誰も立ち寄らない林そばに来た。木陰に入る。アブラゼミが近くでジージー鳴き、藪から飛んできた蚊が私の腕に止まったので叩くと蚊は悠々とかわし姿を眩ました。

 なんか、あるんだ?

 仕切り直して私が訊くと、喜利子はおずおずと鞄から小さな箱を取り出した。私に手渡す。私はそれを開き、紫色の指輪を摘まみ上げた。首を捻ってみせると喜利子は私から視線を外し、しかしゆかりに軽く肩を叩かれ、決心したように私を見た。

 ドイツのお土産。指輪買ったの。受け取ってほしい。

 私は指輪を見た。ジーーとアブラゼミが鳴き始める。また蚊が寄って来たので私は手で払った。蚊は飛び立って喜利子に向かったらしく喜利子が左手を払った。その薬指にはめられた紫の指輪がちらりと見えた。

 私は、右手人差し指に指輪を差し込もうとしていた手を、止め、それからまた動かして人差し指根元まで移動させた。指輪は径が少し大きく、くるくると回転する。私は手をまっすぐに、指を揃え地面と垂直方向に立ててみせた。指輪は少し日焼けした指に、少し場違いのようにはまっている。

 わたし、と喜利子が言い、そこで手が止まる。言い淀んでいる。喜利子を見ていたゆかりがちらりと私を見て、再び喜利子を庇護するような目で見つめる。

 わたし。あなたが。

 喜利子は親指と人差し指の間、開いた部分を顎に持って行き、閉じながら下方に下げた。

 好き。

 それは好きという手話だった。

 ジーーとアブラムシの鳴き声が聞こえる。私は立てていた右手を下ろし、再び振った。

 それは、友達としての好き? それとも恋人としての好き?

 自分の血が、身体から抜けていくような感じがした。実際にさっきまで飛び回っていた蚊が血を吸ったのかもしれない。指輪が表すもの、しかも左手薬指に着ける指輪の意味なんて明らかなのに私は、まさに外道のような、卑怯な質問をしていると思った、そんな時には体がかっと熱くなるのではなく血が抜けたように冷めるのだと知った。

 ゆかりには、無い、好き?

 真っ赤な顔でまごついている喜利子に、私は冷静に尋ねた。尋ねながらゆかりの指に指輪がないのを確認した。ゆかりと目が合った。潤んだ瞳は一瞬間私を見つめ、それから見てはいけないものを見たように伏せられた。近場のアブラゼミが鳴き止んだが遠くでジーが小さく鳴り止まない。

 躊躇っていた喜利子は、握った左手を、握ったままで掌側が地面に向くようにし、右手を左手の上にかざし、左手の甲をさするように二度円を描いてみせた。愛。愛情。愛してる。

 すべての蝉が鳴き止んだように音が聞こえなくなった。葉擦れの音さえ聞こえない。私は何も言わずに突っ立っていた。どんどん血が抜けていき指先が冬場のように冷たくなっていく感覚。喜利子は逆に能弁になった。わたし、一目惚れみたいなもので、あなたが好きになってしまって、ずっと、だからいろいろ誘ったりして、夏休み前に思いを告白しようと思ったんだけど勇気が出なくて、でも、ドイツ旅行でたまたま入った宝石店にこの指輪が売ってて、アメジストって書いてあった、この指輪をエンゲージリングに見立てて、幼稚なエンゲージリングだけど、でも告白する勇気が出ると思って。ほら、ソロモンの指輪。この指輪はわたしとあなたを通訳する指輪で、世界を共有させる指輪で、わたしのこと、知ってもらいたいし、あなたのこと、もっと知りたい。だからこれは、わたしたち何をするにもいつも三人だったけど、これだけは二人で共有したい物なの。わたしとあなただけの物。わたしはあなたが好き。二人でお付き合いしたいんです。だめ、ですか?

 そこまで言って喜利子は言うべきことをすべて言ったのだろう、手話を止め、私の返答を待つ状態となり、私は、ゆっくりと右手にはめた指輪を左手で引き抜き、それから右手に持ち替えた。喜利子はびくりと体を震わせ、しかし何も言わずに私の指先を注視する。音が蘇り葉擦れの音が聞こえる、冷えた鼓動が聞こえる、間近に蝉の鳴き声が聞こえる。ギ、ギーーと何かを壊そうとする音を耳孔に感じながら、一歩踏み出そうとしてしかし横目で窺ったゆかりに、私は動くことができなくなった。

 ゆかりは、彼女のために、と言っていた。

 ゆかりは、喜利子のために、受けてくれと目で言っていた。

 まるで本物のソロモンの指輪をはめたように、ゆかりの目が語るところが脳内に流れ込んできた。

 私は、何年も喜利子のそばにいた。

 私は、ずっと喜利子を見てきて、彼女の幸せを願ってきた。

 私は、私の半生を喜利子に献身してきた。

 だから。

 でも。と私は反論する。なら、あなたの幸せは、どこにあるの?

 ゆかりは小さく、まるでキリストが赦しを与える時にしたかのような眼差しで、小さく頷いた。

 私の幸福も、きっとそこにある。

 ギギギーーーと蝉が鳴き始める。私は右手に持った指輪を左手薬指にゆっくりとはめ、まっすぐにした手を立ててみせた。喜利子が、何か声が出そうなほど口を大きく開け、それからガッツポーズに体を揺すった。私の腕にまた蚊が止まって吸血しているような気がしたが、私は血が抜けるままにした。ゆかりの顔は意図して見なかった。

 アブラゼミの鳴き出しのギギギーーが、延々と続いていた。


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