1.どうして?
「君との婚約を、解消したい」
その言葉を聞いた時、何を言われているのかすぐには理解できなかった。
目の前にいるのは、幼い頃から何度も顔を合わせてきた婚約者、アシュレイ。
いつも穏やかな彼だが、今日はひどく疲れた顔をしている。
「…なぜですの?」
ようやくそれだけを口にすると、アシュレイはしばらく黙っていた。
何かを言おうとしてはやめる。
そんなことを何度か繰り返してから、ようやく口を開いた。
「君の言葉に、もう…耐えられないんだ」
「…私の、言葉?」
私は思わず眉を顰めて聞き返した。
彼はいったい何を言っているのだろう。
「先日、落馬して腕を折ったリリアン嬢に言ったそうだな。『そんな乗り方をしていたら、いつか怪我をすると思っていた』と」
「ええ」
「…なぜ、そんなことを?」
「だって、本当のことでしょう?以前から、見るからに危なそうな乗り方をなさっていましたもの」
リリアンは以前から、乗馬の際に無茶をしていた。
周囲に腕前を褒められて、少し調子に乗っていたのだろう。危ない乗り方をしているところを、何度か見かけたことがある。
だから、落馬して腕を折ったと聞いた時、ほらやっぱりと思った。
今後は気をつけた方がいい。
そう思ったから、本人にも伝えただけ。
…それの何が悪いのだろう。
「それを、なぜ言う必要があったんだい?」
「…え?」
今度こそ、質問の意味がわからなかった。
「なぜって…本当のことだからですわ」
「そういうことではなく、怪我をしたばかりの彼女に、なぜその言葉をわざわざ言う必要があったのかと聞いているんだ」
「ですから、今後は気をつけた方がいいと思って…」
「彼女は、もう十分にわかっていただろう」
「でも、事実を認識できるように誰かが言わなければいけませんよね…」
「事実だとしても、なぜ…苦しんでいる最中の人間にわざわざ言うんだい?」
アシュレイが私を責めている…そのことだけは、わかった。
胸の奥がじわじわと熱くなる。
私は間違ったことなど言っていない。
それなのに、どうして…
「では、エマ嬢に『身の丈に合った暮らしをした方がいい』と言ったというのも、本当なのかい?」
「ええ、言いましたわ」
エマの実家は、最近少し経済的に苦しいらしい。
それなのに彼女は、周囲の令嬢たちに合わせようと、無理をして高価なドレスや装飾品を揃えていた。
「あの方は、無理をして周囲に合わせていましたもの。あのままでは、いずれもっと苦しくなっていたでしょう?」
「彼女は君になにか相談をしたのかい?」
「…いえ」
「助言を求めたのか?」
「いえ、…でも」
誰かが言ってあげなければ…そう続けようとした。
けれど、アシュレイは深く息を吐いた。
その顔を見て、言葉が止まる。
「君はいつもそうだ」
「…何がですの?」
「自分の意見だけが正しいと、そう思っているのだろう?」
「そんなことは…」
「あるよ」
きっぱりと言われた。
「相手がそれを聞いてどう思うかより、自分が正しいことを言ったかどうかばかり気にしている」
「だって、間違ったことを言うよりいいでしょう?」
「そういうところだよ」
何よ…その言い方。
まるで、私が何もわかっていないみたいに言って…。
「君の言っていることが、すべて間違っているとは思わない」
「でしたら」
「でも、正しいことなら何を言ってもいいわけじゃないだろう?」
意味がわからない。
正しいのに、本当のことなのに…それでは、嘘をつけばよかったとでも言うの?
怪我をした人には、あなたは何も悪くないと言えばいい?
困窮している人には、そのままで大丈夫だと言えばいい?
それで事態がもっと悪くなったら?
「…私は、良かれと思って」
「ああ、そうだろうね。」
「では、どうして」
「わかっているからこそ、もう無理なんだ」
その言葉に、息が止まった。
「私は、誰かを傷つけようと思って言ったことなど、一度もありません」
「知っている」
アシュレイはすぐに答えた。
「君に悪意がないことは知っている。だから、何度も話せば、いつかわかってもらえると思っていた」
「でしたら…」
「でも、もう疲れたんだ」
ひどく静かな声だった。
怒鳴られるよりも、その方が胸に刺さった。
「君と一生、理解し合える気がしない」
「…意味が…わかりませんわ」
「そうだろうね」
アシュレイは目を伏せた。
その瞬間、何かが終わったのだとわかった。
本当に、取り返しがつかないほどに。
「両家には、僕から話すよ」
「待って」
「今までありがとう」
「待ってください、アシュレイ」
「さようなら、ヴァレリア」
伸ばした手は、届かなかった。
扉が閉まり、ひとり残された部屋で、しばらく動けなかった。
何よ。
何なのよ。
私が何をしたというの?
嘘なんてついていないし、誰かを陥れたこともない。
悪口を言いふらしたことだってないじゃない。
むしろ、みんなが言いにくいことを代わりに言ってあげただけなのに。
それなのに。
『君の言葉に、もう耐えられない』
頭の中で、アシュレイの声が繰り返される。
耐えられない?
私の何に?
わからない。
わからないことが、余計に腹立たしい。
目の奥が熱くなってくる。
こんなところで泣いてたまるものか。
勢いよく扉を開け、廊下へ出る。
今は誰にも会いたくなかった。
誰にも顔を見られたくなかった。
廊下の向こうに、数人の令嬢たちがいた。
そのうちの一人と目が合う。
令嬢は一瞬だけ足を止めた。
「あ……」
小さく声を漏らすと、隣にいた令嬢へ何かを囁く。
「向こうへ参りましょう」
そう言って、彼女たちは来た道を引き返していった。
……何よ。
別に、私を避けたわけではない。
きっと何か用事を思い出しただけ。
そうに決まっている。
俯いたまま階段へ向かった、その時だった。
クスクスという笑い声とともに、何かが視界の端を横切った。
黒くて、大きな何か。
ぶうん、と羽音がする。
それが肩にぶつかった。
「きゃあっ!」
それは大嫌いな、虫だった。
反射的に身をよじり、手で払いのけようと一歩、後ろへ下がった。が、そこに床はなかった。
足が空を切る。
何が起きたのか理解するより先に、身体が傾いた。
手を伸ばしたが、何にも届かない。
階段の角が、すぐ目の前に迫った。
——激しい衝撃。
不思議と痛みを感じない。
身体も動かない。
焦ったような声が聞こえる。
「…やばいって」
誰?
「どうする?」
「…逃げよう」
待って。
行かないで。
誰かを呼んで。
助けて。
そう言いたいのに、声が出なかった。
次第に足音が遠ざかっていく。
私を置いていく。
どうして。
何が起きたの。
身体が動かない。
——怖い。
——嫌。
——死にたくない。
こんなことで…?
たった、こんなことで私の人生は終わるの?
視界が暗くなっていく。
どうして。
どうして、誰も助けてくれないの?
どうして。
私——
こんなに、嫌われていたの?
ふいに、アシュレイの顔が浮かんだ。
『君の言葉に、もう耐えられない』
違う。
私は。
『それを、なぜ言う必要がある?』
だって。
本当のことだったから。
間違っていない。
良かれと思って。
誰かが言わなければと思って。
私は、ただ——
暗闇の中に、いくつもの顔が浮かんでは消えた。
包帯で腕を吊り、痛そうにしていたリリアン。
俯いたまま黙り込んだエマ。
苦笑いをして、その場を離れていった人。
怒って出ていった人。
顔を真っ赤にして泣いた人。
いつの間にか、話しかけてこなくなった人。
どうして
どうして、私……
わからない
何が悪かったのか、わからない
私はどうすればよかったの?
——何も言わなければよかった?
——全部、黙っていればよかった?
嫌…。
こんなのは嫌。
こんな終わり方は嫌。
まだ——。
『やり直したい?』
誰かの声がした。
男とも女ともわからない。
遠いような、すぐそばにいるような声。
——やり直したい。
そう答えたつもりだった。
声が出たかどうかは、わからない。
『本当に?』
本当に。
お願い。
もう一度。
もう一度だけ。
『では、やり直させてあげる』
そこで意識が、完全に途切れた。




