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願い ── それは世界中にあふれているもの。数えきれないほどあるそれは、小さくとも大きくとも力を持つ。
強い想いが宿るそれは、時にとてつもないことを起こすだろう。
でもそれが、必ずしも幸せにつながるとは限らない ──。
***
コーヒーの香りに包まれたカフェで、香澄は待ち合わせをしていた。
所在なさげに手元のメニューをめくるが、すでに注文を済ませていたためすぐに興味をなくしたように、スマホを取り出した。
香澄が見つめるのはSNS上に投稿された写真で、自然を映すものばかりであった。中でも青い海を見つけると、しばらく目が釘付けになっていた。
「香澄」
アイスコーヒーから水滴が落ち始めた頃、香澄のテーブルに待ち人がやって来た。顔を上げると同時に、向かいの椅子に恵麻が座った。
「久しぶり、恵麻」
「久しぶり。もうコーヒー頼んだのね」
スマホをテーブルに置き、恵麻にメニューを差し出す。恵麻はメニューをぺらぺらとめくると、店員を呼びカフェオレを頼んだ。
「今日もカフェオレなんだ」
「いいでしょ。美味しいんだから」
「ブラックも美味しいよ」
「私にはまだ早いの」
そう言うと恵麻は苦々しい顔で真っ黒なコーヒーを見る。砂糖もミルクも入れないブラックコーヒーは、苦くて飲めたものではないと言っていたのは記憶に新しい。
「それで、どうだったの沖縄は」
「楽しかったよ。海も綺麗だった」
笑顔を浮かべて楽しそうに話す恵麻の目は輝いていて、遠い地を思い出しているようだった。
彼女は親元から離れて学校へ通っており、今回の夏季休暇の旅行が家族との久しぶりの再会だと以前話していた。
機嫌良さげな彼女の話を聞きながら、コーヒーを口に運ぶ。
「いいなー沖縄。私も行きたい」
「今回は国内だったけど、今度は海外にも行きたいな」
「海外もいいな。お金貯まったら絶対どこかしら旅行行く」
「その時は一緒に行こうよ」
海外と言わず、国内でも行ったことのないところばかりな香澄は、恵麻が旅行の話をする度にまだ見ぬ地に思いを募らせていた。
写真で見る美しい風景を、自分の目で見てみたい。その願いは日に日に大きくなる一方だった。
「あ、そうそう。これお土産ね」
「ありがとう。開けていい?」
「いいよ」
「……わ、綺麗!」
包み紙の中に入っていたのは、ガラス玉ようなものを加工したストラップ。
「海みたいで綺麗よね」
海という言葉の通り、澄んだ青をしたそれは照明の光に当たってきらきらと輝いていた。
「これね、光を取り込んで暗い所ではほんのり光るらしいの。ミラーボールみたいになったりするかな?」
「さすがにならないでしょ」
「えー! 全種類集めて飾ったらなると思うんだけどなぁ」
ふてくされた恵麻から視線を外し、つまんだストラップを照明にかざす。不思議と吸い込まれそうな色合いを見せるこれが、暗い所ではどう見えるのか。
香澄は掌に乗せてじっと見つめた。
「私はオレンジにしたんだ」
そう言って笑った恵麻の手には確かに色違いのものがある。こちらは蜜柑色で太陽が似合う恵麻にはぴったりの色に思えた。
ただ、恵麻の手にあるものと自分の持つものがどこか違って見えたが、香澄はそれか何なのかはわからず首を傾げた。
その日の夜。
香澄が恵麻からもらったストラップを取り出すと、恵麻が言うようにほのかに光っていて、深海の中でわずかな光を見つけたようなそんな心地がした。
淡いけれど確かに光るそれを手に取り、ベッドへと潜り込む。見えるように枕元に置いて眺めていると、次第に眠気に誘われてそのまま流されるように瞳を閉じた。
眠りに落ちる前に聞いた水音は何だったんだろうか。
──誰かに、肩を叩かれたような気がする。
「……ぇ、……じょ……」
かすかに声も聞こえ、徐々に意識を取り戻す。
「……起きて!」
その声が聞こえると同時に香澄は目を覚まし、反射的に顔を上げた。
「良かった。起きた……」
女性がひとり、こちらを伺っていたが香澄には見覚えがなく、見慣れない制服をしていたことでより現実かどうか区別がつかない。
意識がはっきりしない中、自分が今まで何をしていたかを考える。
「寝るなら教室じゃなくて自分の部屋にして」
「……ぁ、ごめんなさい」
教室という言葉を聞き、辺りを見回してみるが明らかに香澄が通う高校ではない。机は階段状になっていて、教卓も今いる場所から見下ろせる位置にある。自分の机もロッカーもないここが、教室なのだろうか。
「ちょっと、大丈夫? 寝ぼけてないで起きて」
「……あの、ここどこですか?」
「覚えてないの? ここは2301教室よ」
見覚えも聞き覚えもないこの場所に、どうやって来たのか香澄には覚えがなかった。
(確かベッドに入ってペンダントを見ていて、それで……)
おそらく眠ったはずだ。
それならば、寝ている間に違う場所へ来たような、この不可思議な状況を可能にする言葉をひとつだけ知っている。
(これは夢だ)
「そうなんですか……」
夢の中だとわかってしまえば、後は目覚めるのをただ待つのみ。
しかし、これほどまでに鮮明な夢を見たことがなかった香澄は、密かに心が踊るのを感じていた。見たことのない景色を見てみたいという自分の願いが、ここでなら叶いそうだったから。
香澄は夢だと認識すると、今この景色を記憶に留めておきたくてより注意深く観察した。教室らしいこの部屋は壁の1部分にレンガが使用されており、どこか異国の雰囲気が漂う空間であった。
夢でありながら感覚を得ることができるようで、冷たい木材の感触を味わうように机を指でなぞった。
「早く立って。最終下校の時間よ」
「最終下校……」
壁にかかった時計の短針は7を指している。
促されるまま椅子から立ち上がると、自分の服装に目がついた。目の前の女性の服装は見なれたものではないもののセーラー服のようで、香澄と同じ服を着ていることからして制服で間違いないだろう。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫……でも夢なのに制服まであって凝ってるなぁ」
「……は?」
香澄と女性の目が合い、数秒見つめ合う。
「やっぱり寝ぼけてる?」
「ここ夢の中だから寝ぼけてるとかないと思うけど」
香澄の言葉に深いため息を吐くと、女性は床に置いていた鞄を拾い上げると肩にかけた。
「もうどうだっていいけど、早く寮に帰るわよ」
「寮があるの?」
「……置いていこうかしら」
女性は再度ため息をつくとドアへと歩き出す。
「あ、待って!」
香澄の声に足を止めることなくドアを開けて出ていってしまうのを、側にあった自分のものであろう鞄を持って慌てて追いかける。
「私、香澄。あなたの名前は?」
「……澪」
澪という女性は追い付くまで歩をゆるめることも、待つこともなかったが、質問には素直に答えた。
「澪は何年生なの?」
「2年」
「じゃあ私も同じかな」
香澄はひとり頷いていたが、澪は無表情のまま先を歩く。
「……あなた、ここが夢だと言っていたのに、同い年だと思うの」
「この学校じゃないけど、同じ2年だよ」
「そう。なんて名前の学校なの」
2年通う学校だ。香澄は反射的に口を開いた。
「……なんだっけ。あれ、思い出せない……」
覚えていないはずがない。受験して入学した学校だ。第1志望に受かったと家族に祝ってもらったことも、恵麻と出会ったことも覚えている。なのに肝心の学校の名前が思い出せなかった。
(夢だから、こういうこともあるのかな)
多少の違和感を感じたが、香澄は気にしないことにした。今目の前のことの方が香澄の興味をそそった。
その好奇心の赴くまま、質問を連ねていく。
「教室多いね」
「そうでもないと思うけど」
「じゃあこれが普通なんだ」
階段を降り、再び廊下を歩く。その間、誰ともすれ違うとこなく進んでいき、外へと出た。
「わぁ……」
香澄が目にしたのは深い黒だった。辺りにビルのような高い建設物はないのに星のひとつも見えない空は、まさに黒色をしている。
「星見えないや」
「……星?」
怪訝そうな顔をした澪が香澄を見つめている。
「月もないね」
その言葉に澪の返事はなく、何か考えているようだったが香澄は空を見るのに夢中で気にも留めなかった。
しばらく歩き、寮だというまたしても木造の建物に入ると澪は振り返った。
「部屋がどこにあるか覚えてるの」
「全然わかんない」
「……鞄の中に鍵があればわかるわ」
澪の言葉に、香澄はとっさに掴んで持ってきた鞄を見た。おそらく自分のものだと思い持ってきたが、本当にそうなのかは中を見てみないとわからないだろう。
鞄の外側のポケットからは手帳が出てきた。開いてみると、香澄の名前が書かれており、いわゆる生徒手帳というもので、名前以外にも学年やクラスなどの情報が記されていた。
この世界に、自分が存在していることを証明しているようで少し怖くなったが、それ以上に夢とはこんなこともできるのかと感嘆のため息をもらした。
その後鞄の中から鍵を見つけ、無事に部屋番号を確認することができた。
「じゃあ私、帰るから」
「あ、うん! いろいろとありがとね!」
澪は手を振る香澄を一瞥すると振り返すこともなく足早に去っていった。
凛とした佇まいをした澪のことを、なんだかんだ手を貸してくれて優しい人なのだと香澄は感じて笑みを浮かべた。
迷いながらも部屋へとたどり着くと、そこは1人部屋のようだった。
ただそこには生活感はまるでなく、整えられたベッドに教科書の類い以外は置かれていない机。夢なら自分の趣味の部屋だったら良かったと思う香澄は、鞄を机に置いて冷蔵庫から水を取り出した。水で喉の渇きを潤すとベッドに仰向けになる。
夢はいつ覚めるのだろうと思いながら、沈みこむように寝入った。
***
同時刻。ある一室で暗くなった空を見上げていた男は、くじらのしっぽのチャームがついたブレスレットをひと撫でする。
「今日も、元気でいたかな……」
呟いた声は、夜の静寂に溶けて消えていった。