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あるピアニストのための楽曲  作者: 今日子
第二幕 《烏の脚の上の家》
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prolog

 本来は美しく繊細な手は不自然に痩せ細り、骨が浮き出ている。

 しかし少年はその手を迷いなく握り、手の持ち主の顔を覗き込んだ。そうしなければその声を聞き逃してしまうくらい声は小さくか細く、この手の持ち主の命の刻限が刻一刻と迫っているのが容易に理解できる。

「……恐れ多い事でございます……私の様なものにここまで……」

「もうしゃべるな」

「いいえ、私の最後の願いを貴方様に聞き届けていただけるまでは……」

 まだ20にも満たぬ、美しい金髪を持つ女性だった。肢体は折れてしまいそうに細く、一見儚げな容姿をしていたが、それが外見のみだと少年はもとよりこの人物に近しい人間は誰でも知っている。そもそもその身体も予想以上頑健で、精神の強さは言うに及ばない。

 しかし寝台に横たわっている今の彼女はどうだろう。

 もとから細かった身体は骨と皮だけになり、肌色はくすんでいた。なによりも眩しいほどの光を放っていた金髪は殆ど色が抜け落ち、どちらかというと白髪に近い色になってしまっている。

 にもかかわらず生命力に溢れていた青色の目にある光は以前と全く変わらず、死を見つめながらもこの人物が決して絶望していないのを周囲に知らしめていた。

「どうか……あの子を……」

「……しかし」

「……彼らは私をまだ諦めていません。いつかあの子の存在は知られ、狙われる」

 それを守れるのはこの少年だけだというように、女性の手の力が増した。まるで骨を折りそうなほどの強さで少年一瞬柳眉をしかめたが、すぐに表情を消す。

 しかし、と少年はこの女性の気持ちが全くもって理解できなかった。

 こうして死の床に際して自分に願ったのが、彼女の赤子の将来。それが彼女の望んだ命であったのならば理解できるが、現実は全く違う。それどころか彼女に乱暴をし、辱めた人物達によって強制的に植え付けられた命だ。結果的にその人物達によって疲弊した身体をおして出産し、こうして死の床についているではないか。

「私は……今の貴女の気持ちだけは理解できない」

 10にも満たない少年は普段大人の様な表情ばかりしているが、こうして彼女の前で時折見せる困惑した表情は彼を年相応に見せる。彼女はこの様な状況だというのに思わず笑いそうになった。

「貴方様も……いつか……きっと分かる時が来ますわ……」

「その気持ちが貴女をこの様に追い詰めたのだとしたら……私は一生理解出来なくても良い」

 変わり果てた彼女を発見した後、余り間を空けず彼女の妊娠が発覚した。発見された状態からどの様な経緯で彼女が妊娠したのかは明白だった。そして衰弱した状態での出産が如何に危険であるかも医者でなくとも理解できる。

 いくら自分が赤子のこれからの幸福を祈ったところで、自分の様に平穏な人生を送るのは不可能であろう。

 長じれば自身の出生の状況を知るかもしれないし、結果的に自身を死に追いやることになった彼らに見つかれば執拗に狙われる。万が一何も知らず彼らに見つからなかったとしても、その身に流れる血と向かい合わなくてはいけない日がいつか来る。

 それが分かっていても、彼女は赤子を置いて逝かなくてはならない。しかし彼女は自身の無力さに歯噛みしながらも一筋の希望を見出していた。

 この少年は今彼女を通して何とか世界と繋がっている状況だ。彼女を通さなければ全ての出来事は彼の上を素通りする。それがこの少年の無意識の防衛本能の一種だと彼女は気付いていた。しかしいつまでもそのままではいられないはずだ。彼がこの世で生きていく限り何ものとも無関係のままでは許されない。

 互いにその様な意図はないが、結果的に彼女の存在が彼が世界に関わっていくのを妨げている。ならば、自身が逝く事でしかこの少年に出来ない事もあるだろう。

 自身の子供として生まれてしまったがために、生まれながらに過酷な運命が決定づけられてしまった子供。しかしこの子供が少年の世界を広げるきっかけとなり、少年が子供の庇護者となったならば、それは彼らにとってもっとも良い形かもしれない。ともすれば複雑な環境で育たなくてはいけなかった少年と存在理由が曖昧な我が子である。それぞれが支えになる事がきっと可能なはずである。

 彼女以外の全ての人間が赤子の出産に難色を示していた。その気持ちを非難するつもりはない。彼女とてそれが近いしい人間であったならば、同じ反応をするだろうからだ。しかし彼女自身は周囲が思っているほどは自身の今の状況に悲観していなかった。もともとその特殊性故に、複雑な生い立ちだった彼女の血族は過去に多くいたと聞いている。それでもこうして彼女まで血を繋いできたのは、最終的には各々が命を繋ぐ未来を選んできたからだろう。

「忘れないで下さいね、でも……貴方様は優しい方ですから、きっと私の自分勝手な願いも思いも叶えようとして下さるのでしょうね……」

「……私を優しいなどと称するのは貴女くらいだ」

「ふふふ……それは……光栄ですわ……」

 彼女の声はいよいよ小さく、弱々しくなってきた。視界が靄で覆われた様に曖昧になり、徐々に目が開けられなくなっていく。

 いよいよ死を覚悟した女は最後に柔らかく微笑んで、少年が居るであろう場所に顔を向けた。彼に見せる最後の表情は笑顔であるのが最も相応しいに違いない。

 彼女はその瞬間少年がどの様な表情をしていたのか永遠に知る事は出来なかったが、しかし彼はきっと顔を歪めたのだろうと思った。他人に比べて特殊な精神構造をしている少年だが、周囲が思っている様に感情がない訳では決してない。

 女性は遠のく意識の片隅でこの少年が青年に成長した姿を見た気がした。となればその隣に居るのは自分が生んだ赤子であろうか。

 であればいい、と思う。


――静かに息を引き取った女は凄惨な死の原因にも関わらず、その最後の表情はひどく穏やかだった。







《烏の脚の上の家》

レオノーレ=グナイスト(Lonore=Gneist)が作曲した組曲《遺作の絵画》の一曲である。グナイストは音楽芸術以外と結びついた音楽――標題音楽を主として書いた作曲家の一人だ。(中略)この曲の副題《バーバ・ヤーガ》とはグナイストの生国で童話に登場する魔女の事で、森に住み痩せこけた老婆として表現される。童話では悪役を担う事が多いが、主人公が危機に陥った時にはそれを助ける民話もあり、相対する主人公が善の面を見せれば同じく善の姿を見せる事が多い。この曲はその魔女を速い曲調と野蛮なアクセント(アクツェント)で表現されている。また、中間部の右手の連音符を伴奏とした左手のオクターヴは不気味な雰囲気を醸し出している。



「『古典音楽の考察』クヌート=ヴァイスマン著より抜粋」
























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