zwanzig
「ふぅん、執着ねぇ。それは面白いなぁ。それとも興味深いと言うべきかな?」
クリスの予測を聞いたコンラートはうっそりと笑みを浮かべた。それは思わず直視を躊躇ってしまうほどに艶やかなものであり、心なしか頬も紅潮している様に見える。
妙な所でクリスと似ている青年はこうなったら手が付けられない。彼がこうなる事を確信していたクリスは、コンラートが興味を持ちそうな事をあえてはぐらしていたというのに、結局は意味が無い結果となってしまった。
「……進めていいだろうか?」
「どうぞ、どうぞ。私は気にしないで」
「それでは続けさせていただきますが、この一連の事件の解決を困難にしているのは犯行そのものにはありません。確かに先程言った様に犯人は妙な拘りがあるのか、手の込んだ犯行を犯してはいますが、それが困難かと言われれば不可能ではない。あらかじめ綿密に計画を立てれば実現は十分に可能と言えるでしょう。一件目の伯爵令嬢の殺害についてはこの邸で催された夜会の最中に殺害されたと予想できます。一見、多くの人間が招待されたその日に殺害を実行するのは大変な困難を伴う様に見えますが、そうではありません。むしろ逆だと言えるでしょう。何故なら令嬢が殺害され、遺体が発見された場所はこの広大な邸でも人が中々立ち寄らない場所です。通常ならば使用人がこの邸内において見回らない場所が無い様な仕組みをとっているそうで、この事件の現場においても定期的に使用人が通りかかるはずだった。しかし幸か不幸か犯行が行われたまさにその時は夜会が行われていました。このコルネリウス邸においても滅多に催されないほどの規模のものを、です。当然ながら使用人のほとんどはこの夜会にかかりきりで、とても広大な邸内の見回りをする程の人員をさく余裕はありませんでした。つまり、多くの人間がこの邸内に居るという不利益を無視しても、邸内が手薄になるという決定的な利点が存在したのです」
「すみせん、先程からツァンパッハ伯爵令嬢はこの邸内、つまり発見された現場で殺害された、というのを前提に話を進められていますが、彼女が別の場所で殺されたという可能性はないのですか?」
「と言いますと?」
「つまり……例えばですが、何処か他の場所で殺されてから、現場に運ばれた、とか……」
エドヴァルトの問に、クリスはふむ、と頷いた。そして彼はクナープ中尉に視線を向けた。
「私の口から説明をしても構いませんが、皆さんはより客観的な証拠を求めているでしょう。どうです、クナープ中尉?これくらいならば情報を開示してもいいのではないでしょうか?」
「……そうですね、では答えさせていただきましょう。先程クリス殿がおっしゃいましたが――エドヴァルト殿もある程度聞いていたでしょうか――その現場は恐らく貴方方が思っている以上に凄惨なものでした。人の‘死’というものに一般人異常に耐性のある軍人でも中には気を悪くする人間がいたほどです。つまり有体に言わせていただければ、現場には令嬢の遺体の一部と思われるものが散乱しており、当然の事ながらむせ返る程の血が現場には残されていました。つまり、あの現場を見る限り少なくとも犯人が遺体を傷つけたのはあの現場であったと思われます。令嬢の直接の死因は絞殺だそうですが、邸外で殺害してからわざわざ邸内に遺体を運んで件の作業を実行する、というのはかなりの手間ですし、邸内で犯行を犯す以上に目撃される危険性が上がります。まず、この邸で殺害から現場の状況を作る一連の作業が全て現場で行われたと見て間違いはないでしょう」
「ありがとうございました。……だそうです。納得いただけましたか?」
「分かりました。中断させて申し訳ありませんでした。どうぞ進めて下さい」
「では。そして犯行の危険度は二件目では更に下がります。ご令嬢は自身の邸宅に帰宅途中で襲われたと考えられます。しかし殺害されたのは道からは随分離れていました。恐らくご令嬢は何かから必死に逃げた結果、そんな場所まで来てしまったのでしょうね。皮肉な事に逃げているつもりがより自身の首を絞める結果になった訳ですが……まぁ、そんな事を冷静に考えられる頭を持っている様にはとても見えませんでした。もっとも、妙な所ばかり小賢しく頭が回っていたみたいですが……」
例えば男を篭絡する時や、他人を貶める時などはね、とクリスはさらりとのたまった。毒どころか劇薬と言っても過言ではない強烈な皮肉だったが、イングヒルト嬢の奔放さや陰湿なやり口は社交界ではよく噂されており(何処かの恋人や夫が寝取られたなどの醜聞は夜会では格好の餌食だ。イングヒルトはよくそういった話題に名前が上がっていた……)、この室内にいる人間は彼女の所業を聞き及んでいたがために、それぞれ――コンラートは除く――気まずそうに視線を彷徨わせた。
そもそも彼女が殺害された日に、よりによって夜半に一人で自身の邸宅に向かっていたかと言えば、それも彼女の男性関係によるものだった。なんでも彼女との交際をおおっぴらには出来ない様な男性――ある程度の身分のある妻帯者だそうだ――との逢瀬を楽しんだ帰りだった様だ。相手の名誉のために名前を出す事は憚れ、曖昧に濁されたが、その何某氏は令嬢を彼女の邸宅から幾分か離れた場所で彼女と別れたそうである。優秀なクナープ中尉の部下がその何某氏を特定し、詳細な当日の事を聞いたらしいが、とりあえずこの室内では彼はその何某氏の名前を口にする事はなかった。
ちなみにこの何某氏についてだが、邸宅に帰った時刻を使用人が覚えていたがために、時間的に犯行が不可能だという理由で無罪との結論が下された。
「これまでの話から分かると思いますが、犯人は犯行の実行においてかなり綿密に計画をを練ったのだと思われます。執拗な程犯行実行日の殺害予定の令嬢達の行動も含め、あらゆる要素を計算したでしょう。その結果、派手な犯行現場に反して犯人像は全くとして明らかにならない……」
クリスはやれやれと首をふった。まるで無駄な努力を、とも言いたげな動作だが、彼のこの様子で挑発される人間は犯人だけではないだろう。
「そう、これらの事件の解明を困難にしているのは犯人の綿密さです。犯人はかなり神経質で用意周到な人間だ。この事件の現場を見た人間ほどその異常さに目を奪われて、まるでこの犯人は狂人であるかの様に錯覚してしまう。いえ、この事件の犯人は確かに狂気に犯されているでしょうが、決してそれだけではない。冷徹なまでの冷静さも同時に持ち合わせているから、性質が悪い」
「……用意周到、ねぇ。それにしては随分無駄な行動が多い様に思うけれど……」
「もう言ったが、それが犯人の譲れないこだわり、だったのだろう。そしてそれこそが殺意に繋がっているとも言える」
冷徹さと狂気を会わせ持った殺人犯。それをアレクはおぼろげながら想像してみた。するとその人物はなんと恐ろしげな人間なのだろう。なぜなら、犯人がクリスの言った通りの人間なのだとしたら、その人物は何食わぬ顔で自身の狂気を隠してしまう狡猾さも持っているのである。そう、例えばその犯人が隣に立っていたとして、それが狂気に塗れた人間だとは決して自分では気付く事が出来ないだろう。
「よく物語で事件と呼ばれるものは、探偵役によって不可能とも言える犯行をどうやって犯人が犯したのか、というその超絶的な仕掛けを解き明かすのが常だそうです。確かに物語の中ではそれが読み手にとって面白いでしょう。しかし現実ではその大掛かりな仕掛けは上手い手とは思えない。それよりは今回の様な多くの人間にとって犯行可能な、そして犯行の動機というものがある人間が犯人の特定を防ぐくらいに多く存在する、この状況の方が圧倒的に事件の解決を妨げられます。何故なら、前者であればたった一人の‘探偵役’の存在で‘解決’へと導いてしまう事が可能であるからです。綿密な計画が、些細な想定外の要素によって破綻してしまう可能性を多分に含んでいる。しかしそれに反して後者は、多くの容疑者を地道に絞り込む作業を続けるため、時間も人員も必要です。‘誰にも可能であった’という状況は犯人の絞込みを困難にしてしまいます。更に今回について考えれば、そこに事件の解明を妨げる要素が存在しています。その中の一つが、容疑者の多くが社会的地位のある人間が多いがために捜査が思う以上に進まない事です」
クナープ中尉は苦い表情で首を縦に振った。
現実の事件は物語の中の様に華々しくはない。多くの事件が多くの人間による集められた情報の集約によって導かれるのだ。そこには読者を楽しませる様な要素はほとんど存在せず、あるのは泥臭い作業だけだ。しかしそんな物は読み手は求めてはいない。そこに現実と作り物との間にある決して埋められらい溝が存在する。
「この室内の人間は承知の事実ですから、この際はっきり言ってしまいましょう。殺害された二人の令嬢はとても普段の所業が良いとは言い難かった。あの夜会に招待された人間の中に彼女達に恨みを持っていた人間は決して少なくはなかったでしょう。調べれば調べる程にその醜悪な人間関係が明らかになっていったと思います。しかしその関係者の多くがおおっぴらに追及するのが憚れる程には地位のある人間ばかりだった。捜査は遅々として進まない。他人事ながらご苦労はお察しします」
「……ありがとうございます」
全く苦労を察していなさそうなクリスの口調に複雑な表情で応じるクナープ中尉。
「加えて犯人が夜会に招待されていなかった人間――つまり外部犯ですね――によるものだという可能性も捨てきれないがために捜査は暗礁に乗り上げました。二件目の犯行について考えみたところで、全くの目撃者もいない事に加えて、イングヒルト嬢はグレーテ嬢以上に多くの人間に恨みを買っていますからね、こちらから犯人を絞り込むのは困難だ。全くよく考えたと思いますよ」
クリスのある意味犯人を称賛している様に聞こえる言にクナープ中尉の片眉がぴくりと動いたのをアレクは目ざとく気付いた。しかし一瞬の後には彼の顔に浮かんだ感情は綺麗に隠され、痕跡も見つける事は不可能だと思われた。
(それにしてもクリス様はどうやってこの事件を解決するつもりなのだろう)
勿論、アレクはクリスの能力を微塵も疑ってはいない。彼は出来ない事は出来ると誇張する様な人間ではないし、性格に多大な難があるとは言え、その能力の高さは常人を大きく越えている。彼がここまでの自信を見せているという事は、遅かれ早かれ事件は明らかにされるだろう。他ならぬ、このクリスという青年の手によって。
しかし聞けば聞く程に混迷を極めている様に思われる。複雑に絡まる程にクリスはその真価を遺憾なく発揮するであろう。が、これまでの経験から言って、そこに残るのは決まって悲惨な末路である。
「と、まぁ、私は先程この事件を片付けてしまう事にした、と言いましたがこの二件の事件のみの情報では真相を導き出すのは不可能です。圧倒的に情報が不足している。そこで重要になってくるのは欠けた情報の穴を埋める、新たな情報です」
クリスはそう言っているが、おそらく彼がやろうと思えば二件の殺人事件に関する完璧な情報と証拠を揃えて見せるだろう。しかし彼は自身の持つそういった情報網をこういう場で――つまり、複数の他人に向けて客観的な情報を提示している時――使う事を良しとしない。彼はこれらを切り札、あるいは禁じ手と思っている節があるのだ。先程までも彼は軍部でしか知り得ない情報をあっさりと開示していたが、逆を言えばこれらの事件に関わっている、最も情報を手にしている組織である軍が知り得ない事は全くと言っていいほどこの場には持ち込まなかった。彼の許には軍部の比ではない情報がもたらされているだろうに……。
絶対的な客観性と論理性を求められる場においては常識を無視する様な手段を持ち込むべきではないと彼は考えているのだろう。もっとも、裏で様々な暗躍をする時はここぞとばかりに遠慮なく活用している、とだけ記させていただこう。
「私はここで一つの疑問を提示させていただきましょう。つまりそれは、ご令嬢の異常――私の許を訪れる事になった異常です――これは本当にデリア嬢のご友人達の殺害に全く関係が本当に無いのか、という事です」
「……クリス殿は何が言いたいのですか?」
「もう惚けるのは止しましょう。情報の開示を拒む行為は悪戯に自体を悪化されるだけです。より客観的な情報こそが、人を真実へと導きます」
「ハーゲン殿が言い難いの言うのならば、私から言わせてもらいます。ご令嬢の症状は夢遊病に限りなく近い症状でした。これには様々な原因が考えられますが、最近になって急に症状が現れたという事は、何かに精神的に圧迫を受けていたと考えるべきでしょう」
淡々と言葉を紡ぐクリスは、微かに震えているデリアと向き合った。
「事件が起こる以前もそうですが、ご友人が殺されたからの貴女の様子は常軌を逸している。まるで何かに恐れている様だ。何にそこまで怯えていらっしゃるのですか?」
「私は……」
「心当たりが無いとは言わせませんよ。何かがあるからこそ、貴女はそこまで怯えている。貴女の中にある感情について当ててみましょうか?まず最も表に出ているのは強烈な怯えです。そして、自身への不甲斐なさ。様々な負の感情が渦巻いています。その中でも貴女の根本にあるのは怯えでも嘲笑でもない。それは……」
「止めて下さい!!」
「……後ろめたさ、ですね」
デリアの動きの全てが止まった。身体の震えは勿論、まるで生命活動の全てが動きを停止してしまったかの様に見え、人間を人の形をした精緻な彫刻へと変えてしまった。
「その後ろめたさが貴女の恐怖の原因だ。貴女は忘れたふりをしているが、その心の中には貴女自身を追い詰める原因が今も息づいている」
「……」
「さぁ全てを話して楽になってしまいましょう?忘れたふりをして、正体の知れないものに責められるのは辛く、苦しいでしょう?」
クリスのどろりと甘い声がデリアの鼓膜を浸食し、心を犯す。それは甘美な誘惑であり、彼女を更なる奈落に突き落とす悪魔の誘いであるに違いなかった。しかし頭が正常に働いてない彼女にそんな事が分かるはずがない。
人形の様な動きで、こくりと不気味な素直さで彼女は頷いた。その様子を見たクリスはアレク以外の人間には見えないだろう角度で、自身の掌の上で踊る彼女を嘲笑し、同時に愛でる様な複雑な笑みを浮かべていた。それを見てしまったアレクの心の中にほの暗い絶望が広がっていく。
(彼女も結局抗えず……クリス様の思惑通りに堕ちてしまった)
堕ちてしまった彼女が不幸とは簡単には言い表せないだろう。しかしクリスが導く奈落の底は甘美であるが、無条件に甘い場所ではなかった。それは真実が人に牙を剥く事が多々あるのと同じ様に、彼のもたらす甘美さは時に人を貫き、壊してしまう。
「私はエンマを殺してしまった……」
「それは……お前のせいではないと何度も言っていただろう!!」
「いいえ、間違いなく私達のせいなのです!!だから私はエンマの全てを自分の中から抹消した!!自分を守るために!!」
デリアの悲痛な告白にハーゲンは顔色を変えて否定する。しかしデリアの告白は終わらなかった。ハーゲンの必死の宥める言葉も激し口調で切り捨てた。
「……ねぇクリス様。貴方は私のそんな醜悪な面を見抜いていましたね?だから私はいつもどこかで貴方が恐ろしかった……。この醜さが白日の下に晒されてしまうのではないかと……」
「醜悪ではない人間など存在しませんよ。人は生きていく上では醜くなくてはいけない。勿論私もそうです」
「いいえ、私のそれは他の方々を大きく上回っています。そうでなくては忘れるなどと恥しらずな事が出来るはずがなかった……」
デリアは泣き笑いの様な形に顔を歪ませた。
「もう隠し立てはしません。全てを思いだしてしまった今、この胸の中に積もり続けた泥土を吐き出しましょう」




