achtzehn
「すみません、クリス殿……コンラート殿は私がお呼びしたのですが……都合が悪かったでしょうか」
クリスの余りの形相に恐る恐るといった様子ではあったが、ハーゲンが名乗りを上げた。
その途端、クリスの鋭い視線がハーゲンに凶器の様に突き刺さる。商会の代表として多くの場面を乗り越えていた彼であっても、クリスの視線の鋭さは思わず身を竦ませるものがあった。
しかしハーゲンを一方的に責める事は出来ないだろう。何故ならクリスら三人以外は二人の青年の関係性をコンラートのみから聞いただけであるからだ。クリスはコンラートの名前を口にし、ましてや話題にするなどおぞましいと言わんばかりに曖昧に濁していたし、アレクにしても二人の正しい関係性を説明しているはずがない。そのため、彼らは二人は友人関係、それもコンラートの様子から類推してよほど親しい関係にあると思い込んでいたのだ。加えて彼らにクリスに相談するように勧めたのがコンラートであったがために、今回の件の関係者と言えるこの青年を呼ぼうと気をまわしたのも別段おかしい話ではない。
勿論クリスもその事を十分に理解していたが、だからといって感情面では全くもって納得し難かった。八つ当たりと評するべき視線をハーゲンに向けるくらいにはクリスの機嫌は急降下していたのだ。
「こらこら、アル。その様に当主を脅すものではないよ。そもそも私を除け者にする君が悪いのではない?」
「お前を関係者だと思った事は一度としてない。つまり、お前を呼ぶ必要性を微塵も感じない」
「おや、つれないことを言うね。まぁ、私はそんな君も好きだけれど」
何故だか頬を染めながらそう言うコンラート。クリスの表情がこれ以上なく歪んだ。ちなみにどうでもいい事だが、クリスは顔を歪めてさえいても端正な造作を損なってはいない。全くもって美形とは羨ましいものだと思うアレクである。
「まぁ、そんな細かい事は気にしなくてもいいじゃないか。私が呼ばれたという事は、全て終わったんだろう?まぁアルに頼んだんだ、全く心配してはいなかったけれどね」
コンラートはひらりと手を翻した。正反対に見える二人の青年だが、妙に仕草が似ている部分がある。クリスがどれだけ不本意であろうとも、ふとした瞬間に付き合いの長さを感じさせる二人だ。
「それで?いつまで私は待てばいいのかな?こう見えても結構急がしいのだけれど」
「……お前がそれを言うか……」
クリスの米神にぴくりと血管が浮かび上がる。心sなしか彼を中心に周囲の温度が下がっている気がする。
アレクはコンラートを恨めし気に睨んだ。
(機嫌が悪いクリス様を宥めすかして、どうにかするのは僕なんですからね!!)
コンラートが原因で荒れに荒れたクリスを宥めるのはいつもアレクの役目だった。コンラートはやりたい事だけやって後は放置なのだから。
コンラートはアレクの視線を受け苦笑を返したが、そんな顔をした所でした事をなかった事には出来ない。
「すみません、コンラート殿。それは私どものせいです。もう少しお待ち下さい。デリアが来ない事にはなんとも……」
「デリア嬢の調子が思わしくないことも私は聞いています。ご令嬢に無理をさせる必要はないのでは?」
「仮にもデリア嬢は依頼人だ。彼女を無視して事を進める訳にはいかないだろう。何より彼女本人がそれを望んでいない」
「……まぁ君がそれでいいならいいけれど。私は待つのは嫌いじゃないからね、アル、君と違って」
コンラートの意味深な口調に、クリスは表情を全くと言っていいほど変えないが、彼とアレク以外の人間は各々に複雑な表情を見せた。コンラートの言外に何か、見落としてはならない事柄が潜んでいた様な気がした。それは何の証拠も無い、彼らの感性に訴える感覚でしかなかったが、掴みそこなった何かが焦燥を煽り落ち着かない気分にさせる。しかしコンラートはすぐにもとの艶やな微笑を浮かべ、不意に彼らの中に浮かんだ焦燥は霧散してしまった。
言葉にし難い沈黙が室内を支配するかに思われたが、扉が軽くノックをされる。
ハーゲンが硬い声音で声を上げると、デリアの到着を告げる使用人の声が室内に届いた。それと同時に無意識に張り詰めていた空気が和らぎ、何処からとも無く安堵の声が漏れる。
その彼らの様子を何処か満足気に見ているコンラートをクリスは視界の端に収め、自身の事を棚に上げ、趣味の悪い男だ、と内心で嘆息する。
柔らかな微笑を浮かべ、彼らにそうと気付かれずに抑圧をかけたのは他でもないコンラート自身だ。彼は昔からこういった、人心を操るのを得意とする。それを必要とする時に行う事もあれば、唯単に自身の掌で転がる人々を見たいがために意味なく行われる事もある。むしろこの青年の性格上、後者である事の方が圧倒的に多かった。
クリスはこう言えば激しく否定するだろうが、この二人の青年は何処か歪んでいる部分もよく似ている。他人が眉を顰める様な部分で愉悦を感じる、奇妙な性癖が。
「……お待たせして申し訳ありません。もう私以外の方々は揃っていますのね」
女性の使用人に支えられて室内へと入って来たデリアは、しばらく見ないうちにすっかりやつれてしまっている。もともと華奢な女性ではあったが、今や折れてしまいそうに見える肢体はいっそ痛々しい。
気丈に立ってはいるが、使用人に支えられているという事は一人で立っている事も困難だという事だ。
「いえ、お気になさならいで下さい。それよりも早くお座りになるのがよろしいでしょう。今にも倒れてしまいそうだ」
クリスは現れたデリアの様子を見ても顔色一つ変える事なく、入室した彼女に着席を促す。その様子はあたかも彼がこの邸の主人かの様に不遜とした態度にもとれた。もっともこの部屋に居る人間は皆程度の差こそあれデリアの様子に表情を曇らせていたが、クリスと同様にたいして表情を変えない男が存在した。常に読めない微笑を張り付かせている、コンラートその人である。
クリスはデリアが椅子に腰掛け、彼女を支えていた使用人が室内から退出したのを確認してから、室内にいる各々を見渡した。それはクリスからの最終確認であり、彼の視線を受けた者達は複雑な表情ながらも、それぞれ神妙に頷いていた。
クリスは一通り見回すと、最後に依頼人であるデリアに視線を向ける。
クリスの視線を受けたデリアの顔色はかなり悪かった。まるで死刑執行人を待ち受ける死刑囚の様な、覚悟とも諦めともつかない表情でクリスをしばらく見つめ、小さくゆっくりと首肯した。
クリスはデリアから視線を外し今一度周囲の人間を見渡すと、長い足を組み替え、その上に指を組み合わせた手を置いた。
室内の人間の表情が強張る中、コンラートは恍惚とも言い表せる表情を浮かべ、反対にアレクの表情は曇っていた。
長年クリスに従ってきたアレクは、その中で培った経験が警鐘を鳴らすのを、悲しみと共に感じていた。クリスとコンラートの様子から明かされる真実が、誰も幸せには出来ないと確信してしまったからだ。
むしろ、真実はここに居る人間の多くを絶望に叩き落してしまう事だろう。
はたして、ここに居る人間の何人がその事に気付いているのだろうか。
クリスは決して救世主にはならない。彼の行いが人を救ったというのならば、それは彼が意図したのではなく、ただの結果なのだ。
彼は他人に救世主と崇められようが、反対に悪魔と罵られようが全く感知しない……。
「さて……」
クリスの淡々とした、いっそ無感動な声が室内の空気を震わせた。それは決して大きな声ではなかったが、聞く者の心底を震わせる力を持っていた。
「さて……」
その者は言葉を発した怜悧な美貌の青年を視界に入れ、自身の計画を解き明かす事など出来はしない、と高をくくる。まさに心中で嘲笑したその時、青年の視線がその物を一瞬捕らえた。その視線に晒され、無意識のうちに背筋が震える。
まるで全てを見通す様な眼差し……。自身の計画に絶対の自信を持つその者の驕りを、鼻で笑う様な挑発を含んだそれを受け、机の下で組んでいた手が震える。
(彼は……本当に全てを分かっている?)
時間をかけて綿密に練ってきた計画を無に帰すのが、急に現れて場を引っ掻き回すだけに思われたこの得体の知れない青年だと言うのか。
(いや……そんな事はない。この計画を見抜くなど……)
こうして実行に移すまでに何度も頭の中で試行を繰り返した。計画の粗が見つかる度に修正を加え、慎重に慎重を期したはずだ。
何処にも計画に穴があるはずがない……。
そこでその者ははっと室内のある物に視線を走らせた。それは一瞬の動作だったがそれを視界に納めたその者の目には微かに動揺がある。
得たいの知れない青年にその動揺を悟らせる前にとそれはすぐに消えたが、心中は決して穏やかではない。
(まさかあれに気付いたというのか……?いやそんなはずはない……)
そう自身に言い聞かせるか、本当にそうだろうか、と自問する声が胸中を過ぎる。
青年に全てを明かす事など不可能だという絶対の自信があるのなら、自分は何故ここまでこの青年に怯えているというのだろうか。
もうその者は自身の中にある青年に対する怯えを否定する事は出来なかった。思えば、いくら否定したところで初めて言葉を交わした時から自分は何処かでこの青年に言いようのない恐怖を抱いていた様に思う。
何故その時に本能が発していた警鐘を無視し、計画に紛れ込んだ異分子をそのままに計画を実行に移したのか今になって後悔するが、もう全てが遅い。計画は後戻りが不可能な程すでに進んでしまっている。
しかし、とその者はこの先に待ち受ける結末を思っていっそ清清しい気分になった。
当初の計画通り進むのならば、それに超した事はない。しかし自身が成した事の全てが明らかにされた所でそれが何だというのだろうか。その結果自身は破滅するだろうが、その方がかえってあの者にとってはこれ以上ない復讐になるのではないだろうか。きっと知ればこれ以上ない絶望へと叩き落されるだろう。
その結末を思うと、愉悦に身を震わせる。
そうだ、と思い直す。
自分の目的は自身の保身ではなかったはずだ。そんなものは唾棄してしまえばいい。自分を狂気へと走らせたあの者への復讐、それが唯一無二の目的だったではないか。
明かせるものなら明かしてみせろ、とその者は青年を見据える。それをしたところで自分に痛手を加える事など不可能だ。精々青年の手腕に称賛の拍手を送るのみである。
そしてこの室内に居る人間達の愚かさを嗤ってやろうではないか。
狂気と理性が見え隠れするその者へと、青年は一瞬ある意味純粋な微笑を浮かべた様に見えた。しかしそれは余りに短い時間であったために、その者に確認する術はなかった……。




