zwölf
その時、客間の扉が叩かれた。それは先ほど中尉の来訪を告げた女性の使用人の様な遠慮をかんじさせるものとは異なり、明確な意思を持った音だった。アレクは首を傾げながらも扉を開ける。すると視界が遮られた。
「あぁ……失礼」
驚いて固まってしまったアレクの頭上から苦笑を含んだ謝罪の声が降ってくる。そこでやっと扉の前に立っていた人物が誰なのか理解し、アレクは上を向き瞬きを繰り返しながらその人物と視線を合わした。
彼――エドヴァルトはアレクが視線を合わせやすいように身体を引いた。エドヴァルトはクリスとほぼ同じ背丈だが、痩身の彼に比べて体格が良い。そのため同年代の少年達に比べて小柄で華奢なアレクが隣に並ぶと、その体格の余りの違いから威圧感を感じずにはいられなかった。クリスの執事であるフェルディナントもエドヴァルトと同じくらい体格が良く、しかし背丈はもっと高いにも関わらずこのような威圧感を感じる事はなかった。それはフェルディナントが執事という己の役目を忠実に実行しているからだ。執事はあくまでも空気の様な存在でなくてはならない。まして、相手に威圧感を与えるなどもっての他だ。
比べてエドヴァルトは貴族の家柄に生まれた男児である。理知的ながらも全身から漂う自尊心が威圧感に拍車をかけているのかもしれない。
「驚かせてすまない。クリス殿と少し話をさせていただけないだろうか?」
しかし迫力のあるたたずまいながらエドヴァルトの物腰は柔らかい。己の雰囲気が周囲を萎縮させると自覚しているのか、一介の小姓であるアレクにさえ柔和に微笑んで話しかける。その瞳の色からか一見冷たい印象を与える彼だが、こうやって微笑むと印象が一変する。
「はい、主に確認しますので、しばらくお待ちいただけますか?」
この邸宅の主であるコルネリウス商会の当主の令嬢であるデリアの婚約者を扉の外で待たせる事に一瞬躊躇したが、アレクはコルネリウス家の使用人ではない。あくまでも自身が従うのは主であるクリスだけである。伺う様にエドヴァルトを見上げたが、彼が表面上は気を悪くしたそぶりを見せないので、アレクは一礼して客間に戻った。
「エドヴァルト様がいらっしゃいました。クリス様にお話したい事があるそうです。お通ししてもかまいませんか?」
「ああ、話は聞こえていたからね。お通ししてもかまわないよ」
「分かりました」
クリスの顔には特に不快な色は浮かんでいなかった。おそらくその言葉の通り、かまわないと思っているのだろう。そもそもこの主は弄り易い人間か、理知的な人間を好む傾向がある。エドヴァルトは弄り甲斐がある人間からは程遠かったが、その知的な佇まいがクリスの琴線に触れたと考えられる。そうでなくては、こうも簡単に部屋に通すはずもなかった。
しかしそれでもクリスはクリスだった。人間嫌いの彼からしてみれば驚くほど愛想がいいが、それが分かるのは彼の事をよく知っている人間だけだ。仮にも部屋に人を招いておきながら、椅子に深く腰掛けたまま立ち上がる気配が無い。
エドヴァルトは理知的かつ思慮深い人間であるため、クリスの態度で激昂しないだろうと思われるが、内心で気を悪くしてはいないだろうかとアレクは気が気じゃなかった。別邸の中ならば口うるさく嗜める所だが、如何せんここは他人の邸の客間だ。加えて目の前にはエドヴァルトがいる。アレクは気付かれないように僅かに顔を顰めるに留めた。もっとも、クリスには自分が考えている事など筒抜けだろうが。
「突然、申し訳ありません」
「かまいませんよ。見ての通り、時間を持て余していますからね。そういった意味ではこうして訪ねて下さって感謝しているくらいですから」
エドヴァルトは余りに大げさに聞こえるクリスの言葉に苦笑していた。おそらく、それがクリスの気遣いだとでも思っているのだろう。しかしこの言葉はあながち間違いではなかった。何故なら、先ほどクリスが言った様に彼を殺す事が出来るとしたならば、それは退屈という名の病以外に考えられないからだ。それはクリス本人も、そしてアレクも含めた彼の周囲の人間にとって自明と事だった。
「ありがとうございます。しかし改めて謝罪させて頂きたい。こちらからの一方的な頼みでこうしてわざわざ来て頂いたのにも関わらず、今まで一言も伺わずにいた事は、弁解の余地もありません」
「そんなに気にする必要はありませんよ。そう、デリア嬢と夫妻にもお伝えして下さい。あんな事があった以上は私達に構っている余裕などないのは分かりきっていますから」
「そう言って頂けるとありがたいです」
「デリア嬢はお倒れになったと聞きましたが、大丈夫でしょうか?」
「先ほど、一時的に目を覚ましていましたが、すぐに眠ってしまいました。倒れる以前よりは落ちついている様に見えましたが、内心ではきっと……」
「グレーテ嬢とデリア嬢は幼少期からの仲だとか。とても心穏やかにはいられないでしょう」
クリスの言葉にエドヴァルトは沈痛な面持ちで頷く。気丈に振舞ってはいるが、彼も亡くなったグレーテ嬢と長い付き合いなのだ。いくら彼女に思うところはあったとしても、その動揺は手に取る様に感じられる。
「そんな時にこの話を持ち出すのはどうかと思いますが……依頼はどうなさいますか?」
「それは……」
「言葉が悪いとは思いますが、あえて言わせてもらいます。確かに以前までなら、デリア嬢の病は醜聞と言えたでしょう。いや、今でもその事実事態は変わってはいません。しかし、こうして軍まで介入せざるを得ない事件が起こってしまったとあれば、令嬢の病気に構っている余裕はないのではありませんか?」
「……」
「責めている訳ではありません。それも当然の事だと思いますよ。こんな事件が起こったというのに、私の様な外部の人間を邸に置いておくのはどんな憶測を呼ぶか分かったものじゃありません。商人はそんな風評さえも特に敏感でなくてはいけませんからね。それに、私は初めから報酬を受け取るつもりはありませんでしたし、言い方は悪いですが、目的の大半は好奇心を満たす事でした。そういう意味では消化不足の気はしますが、それは貴方方が気にする程の事ではありません」
クリスの言葉は甘美に聞こえた。まるで相手を惑わそうとしているかの様に。現に俯いているエドヴァルトは見えていないだろうが、クリスの目はその逡巡を見て楽しそうに瞬いている。
しばし瞑目していたエドヴァルトは顔を上げ、弱弱しいながらも首を振った。
「クリス殿の言っている事はもっともだが、勝手ながら、依頼を続行して頂けないでしょうか?」
「理由をお尋ねしても?」
「……デリアの様子がおかしいと聞いてから、私なりにいろいろ調べてみました。すると、彼女の症状に近い病は‘夢遊病’だと分かったんです。……クリス殿はこの病名を知っていますか?」
「ええ、勿論。確かに、情報は少ないですが、デリア嬢の異常の原因の候補の一つであると言えると思います」
「私も彼女の異常を直にこの目で見た訳ではありません。こうやって素人が調べた所でどうにもならない事は重々承知していました。しかし何かやらずにはいられなかった……」
エドヴァルトの表情が苦しげに歪んだ。
「‘夢遊病’の原因の一つは、精神的な圧迫から起こるそうです。恥ずかしながら、私はデリアの婚約者で彼女の事を昔から近くで見てきたというのに、こうなるまで彼女がそこまで追い詰められている事さえ気付けませんでした。しかし、これだけは分かります。このまま放っておけば、彼女の病は治るどころか悪化するしかないと」
確かに、幼少期からの友人が変わり果てた姿で見つかったとあれば、彼女の心を追い詰めるものは増すばかりだ。精神の状態が原因の大きな一つであると考えられている病を抱えているのならば、このまま手をこまねいていては事態は悪化するだろう。
「貴方の意見はお聞きしましたが、私の依頼人はあくまでもデリア嬢です。仮に彼女が現在意思表示の難しい状態だというのならば、依頼の続行を決めるのはコルネリウス夫妻だ。彼らは何とおっしゃっているのです?」
「……以前までならば、依頼は取り下げていたでしょう。しかし彼女の状態は誰の目から見ても悪化しています。そして夫人はもとより、当主も楽観視する事は出来なくなりました。近く、夫妻から依頼の続行の話がある事でしょう」
アレクは先ほどまでのハーゲンの憔悴した様子を思い出す。その時の彼からはやり手の商人の自信や老獪さといったものは欠片も見受けられなかった。
「……分かりました。依頼は続行しましょう。この後、私達はどうすればいいでしょうか?」
「申し訳ないですが、邸宅内は未だ慌しい状態です。あんな事件のあってすぐなのですから、当然でしょうが……」
「お気になさならいで結構。確かに、まだ事件の余韻が残っているはずです。夫妻、もしくは貴方の許可があるまでここで大人しくしているとしましょう」
「ありがとうございます、助かります」
何度も頭を下げるエドヴァルトにクリスは鷹揚に頷いた。普段の彼ならばこんな申し入れは、横暴だ、と不快を露にするところだが、いまは格別機嫌の悪いようには見えない。珍しい事もあったものだ、とアレクは密かに驚いていた。
「エドヴァルト殿はこの後もこの邸宅に留まるのでしょうか?」
「いえ、私は一旦、自宅に帰ろうかと思います」
そういえば、と尋ねるクリスに返答するエドヴァルト。勤めて淡々と邸宅から一時的にとはいえ離れると言う彼に、クリスはおや、と僅かに目を丸くした。その様子にエドヴァルトは苦笑を漏らす。
「本音を言えば、デリアの事が心配で、この邸宅から離れるのは気が進みません」
「では、何故?」
「確かに私とデリアは幼い頃から見知っており、両親同士が親しかったとはいえ、私達の婚約には両家の結びつきという意味があります。ここまで大きな事件になってしまった以上は父の耳にも入っているでしょう。ですからきっと父は気を揉んでいるはずです。出来るだけ早く事件の詳細を報告しなくてはなりません」
「軍が関与するほどの事件が起こったと父君が知ったのならば、婚約が白紙に戻される事もあり得るのでは?」
「いえ、先ほども言いましたが、当主と父は古い馴染みだと聞きます。きっと婚約云々よりもコルネリウス一家を心配しているでしょう」
「なるほど……」
「それに幸いにも我が家の領地はここからさほど離れていない所にありますから、たいした時間離れる事にはならないと思います」
エドヴァルトの言う事はもっともだった。彼は貴族の子弟だ。この様な事があったのならば、いつまでもコルネリウス邸に留まる訳にはいかないだろう。
「ですから、こちらから頼んでおきながら、私はしばらくここから離れなくてはなりません」
「それはかまいませんが、なるほど……」
クリスはそう言ったきり、僅かの間黙り込んだ。
「分かりました、しかしその前に一つお聞きしてもかまいませんか?」
「いいですが……私に答えられる事は多くはありませんよ?」
クリスの言葉にエドヴァルトは困惑した表情をした。
「ほんの些細な事ですよ。時に、貴方が今使っている香水はどこのものでしょう?」
「……はい?」
「いえね、私は香水に関していくつか知識を持っている訳ですが、貴方が今身に纏っている香りは覚えがないものですので、先ほど貴方が入っていらっしゃった時からどうしても気になって……」
クリスは機嫌良さ気に薄く微笑みながら言う。しかしエドヴァルトは余りに意外な質問に絶句してしまった。
普段から余り表情を崩さない人間だと思われる彼にしては、露骨に感情を表に出している。それほどにクリスの言葉が以外だった、という事だろう。
クリスは確かに香水について豊富な知識を持っているが、何もそれは一分野だけにはとどまらない。つまり、膨大な知識の貯蔵庫の中の一つに過ぎないということだ。そのため、彼がわざわざエドヴァルトに直接尋ねるほど、特別に関心を寄せている話題ではないと思うが……。
アレクは内心で首を傾げていた。しかしクリスの言っている通り、本当に覚えのない香りであるというのなら、彼がわざわざ尋ねるのにも納得がいった。無節操に彼の頭の中に詰め込まれた知識量は計り知れない。その中に無い知識、というのなら暇を持て余しているクリスが飛びついたとしても少しもおかしい事はないだろう。
「よく分かりましたね……私も貴族の端くれですから身だしなみの一環として香水を使っていますが、あまりこういったものは好きではないのですよ。ですから、とても嗅ぎ分けられるほど付けてはいなかったと思いますが……」
エドヴァルトは素直に驚きを示した。彼の言う通り、クリスの指摘されるまでエドヴァルトが香りを身に纏っている事さえ気付かなかった。しかしクリスは常人から大きく外れているので、これもたいして驚くべき事ではない。
「コルネリウス商会で最近になって売り始めた香水ですよ。余り強い臭いではないので、私の様に香水を苦手だと感じる人達にも受けがいい、と聞きました」
香水は本来、身体を清潔に保つ、という文化が定着していなかった頃に生まれたものだ。体臭を誤魔化すために特に特権階級を中心に広がったという。しかし現在は貴族階級では身体を清潔にする事は当たり前となり、香水も服飾や装飾の一環となって久しい。
「なるほど、最近流通したばかりという事ですね」
「そうです。ですから、クリス殿がご存知なくてもなんらおかしな事ではありません。加えて量が確保しにくいため、まだ試作の段階だと聞きますし」
「商人も大変ですねぇ……」
「えぇ、毎日が勉強と試行錯誤の繰り返しです」
そう苦笑しながら言ったエドヴァルトはしかし、やりがいのある仕事です、と付け加える。それは彼の充実感と自信を感じる態度から疑うまでもなかった。




