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しばらくの間、重苦しい沈黙が続いた。それを破ったのはいささか派手なクリスの笑い声だ。
いきなり笑い出したクリスにクナープ中尉は唖然とし、アレクは呆れた表情でやれやれと首を横に振った。
「ふふふ……いや、失礼」
しかし彼の笑いはなかなか収まらない。クリスは一度つぼにはまるとなかなか収まらないという悪癖を持っているのだった。加えて、一応口では謝っているのだが、欠片も悪いとは思っていないのだから尚更性質が悪い。
「あの……クリス殿?」
「ふふ…ふ……以前から思っていたが、貴方方は私を過大評価しすぎだ」
「過大評価、ですか?」
「そうですよ、深刻そうな表情で何を言い出すかと思ったら……私は確かに彼の‘英雄’を毛嫌いしていましたが、私が何者かに指示した訳でも、まして私自身が手にかけた訳でもありませんよ」
「はぁ……」
‘過大評価’という言葉の使い方が間違っている気がする。激しい違和感を覚えたアレクだったが、沈黙を守った。この主の中には彼だけに通用する辞書が存在するに違いない。
「いや、誰も貴殿を疑ってはいませんが……。ただ貴方がその毒物なり犯人なりを知っているのではないか、とは思っていますがね」
「あれ、そっちでしたが」
「他にどっちがあるというんですか……」
クナープ中尉は複雑そうな表情で苦笑している。その様子にクリスは心底楽しそうに含み笑いをもらした。
「それにたとえ……貴殿が裏で手を引いていたとしても、私達ごときではどうしようもないでしょう。貴殿が動いた時点でそれは決定事項なのですから」
「それを‘過大評価’というのですよ」
いろいろ際どい会話を繰り広げる二人だが、一見平気そうに見える。特にクリスは薄い笑みさえ貼り付けているのだ。大人になるとはこういうことなのだろうか、と一瞬遠い目になったアレクだったが、すぐに考え直す。
いやいや、間違ってもクリスの様な大人になってはいけない。もはや人間であることが不思議なくらい基本的な能力が軒並み高い主だが、神がただ一つだけ彼に与えなかった物がある。それは人望や人柄と呼ばれる類の物だ。しかし理不尽なのはそれによって被害を被るのはいつだって彼本人ではなく周りの人間達であるし、それを嘆くのも本人ではなく周りの人間達である事だ。本人はいたって気にしてないどころか、そんな物はいらないとばかりに傍若無人な言動を繰り返す。
あのクリスに絶対服従の鉄面皮のフェルディナントでさえ、クリスの様になるのだ、と何をとち狂っていたのだろうか、無邪気に言うまだ幼かったアレクに対して、珍しく表情を引きつらせながらしかし淡々とそんな事を止める様に諭したのだ。あの無口な青年が言葉を尽くして。
今思えば彼も幼いアレクの、もはや暴挙ともいうべき発言に相当動揺していたのだろう。あそこまで長い言葉を話すフェルディナントは後にも先にもあの時だけなのだから。
「中尉、何故そんな事がお聞きになりたいのですか?言葉は悪いですが、彼の‘英雄’はもう死んでしまったのでしょう?仮に私が何かを知っていて、それについて貴方方が知ったところで、もう手遅れでしょう?いまさらどうしようというんですか」
「……それは本気で言っているんですか?」
「えぇ、紛れも無い本気ですよ」
クリスの言葉にクナープ中尉の視線が鋭くなる。しかしクリスがそんな事に動じるはずもなく、悠然と笑いながら足を組み替えた。その余裕とも馬鹿にしてるともとれる動作に、中尉の発する空気が些か物騒なものに変化する。
クリスはふんと鼻で笑って、右手を軽く振る。
「言ったでしょう?私は彼の‘英雄’を生理的に受け付けない。つまるところ、会話に昇るだけで不快なのです。ましてやその死因について考えを巡らすなど、もっと不快です」
「それは十分承知しています。貴殿の‘英雄’嫌いは筋金入りで、私達の間でも密かに有名でしたから。もっとも、そんな事は表立っては言えませんがね」
国で最も知名度も人望も高い‘英雄’と、ある意味有名なクリスが険悪な仲などとはおいそれと口に出来る内容ではない。下手に知れれば、国が混乱の渦に巻き込まれてもおかしくはないだろう。最もそれが知れたところでクリスは欠片も気にしないだろうが。
「それにしても、貴方は随分と事情に通じている様だ。彼の‘英雄’の死しかり、私とあの男との確執しかり。別に貴方方を軽んじている訳ではないが、貴方が属しているのは帝都の治安維持を担当する部隊でしょう?そこまで国の内部に精通しているのはかなり不自然だ。どこの差し金なのでしょうか?」
「……さぁ、何の事でしょうか」
「まぁ、それはいいでしょう」
白をきる中尉だったが、そこまで隠す意図はないようだ。クリスの言葉に苦笑さえ浮かべている。追及するクリスにしても大方の予想は出来ているのか、あっさり手を引いた。
「では、貴方に指示をした人間に伝えて下さい。手出しは不要、それどころか迷惑だと。要らぬ好奇心は身を滅ぼします。首を突っ込みのは止めていただきたい」
「……それは、知れば命の危険があるという事ですか?」
‘英雄’のように、と暗に尋ねる。
「それも無いことも無いですが、まぁ、そこまで危機感を持つ必要は無いでしょう。それよりも、この件の真実は知る人間が少なければ少ない程良いのです」
「それは……」
クナープ中尉は絶句した。顔は僅かに青ざめてさえいる。
「まさか……あの方が?」
「首を突っ込むなと言ったばかりだというのに……まぁ、これくらいはいいでしょう。貴方の予想は外れています。もっとも、全くの的外れ、という訳ではありませんが」
クリスはそれ以上を言うつもりはないのか、口を閉ざした。中尉は名残惜しそうにしていたが、クリスがこれ以上話す意図がないのだと悟ると、渋々と引き下がった。
「では、これも教えてはいただけないのでしょうか。貴殿はこの邸宅にどういった用件があっていらしたのか?貴殿が……その……」
「あちらこちらに首を突っ込んでいる、という話ですか?」
「えぇ」
「本来は依頼人の守秘義務は絶対なのですが……コルネリウス家も痛くも無い腹を探られて事実が明るみにでるより、ここで私が言った方がいいでしょう。ただし他言無用を願いますよ」
「それは勿論です」
依頼人の事情が外に漏れたところでクリスは気にもかけないだろうが、後々糾弾されても面倒だと思っているのが手に取るほど分かる。何故なら誠実そうな言葉とは裏腹に、その声音と表情が面倒だとあからさまに言っているからだ。
クリスは淡々とクナープ中尉にデリア嬢が依頼に来た事、そして依頼内容などを理路整然と説明する。中尉は軽く相槌を打ちながら、口を挟む事無く最後まで説明を聞いた。
「……という次第です。何かお聞きになりたい事はありますか?」
「なるほど。大体分かりました。ではお尋ねしますが、デリア嬢は俗に言う、‘夢遊病’というものなのだろうか?」
「他にも名称はありますが、この際それは置いておきましょう。まだ寝たままの状態で行動をする、というデリア嬢を見た訳ではありませんから、明言はいたしかねます。症状が近いというだけで、他の可能性が無いとは言い切れませんから」
「では仮に彼女が‘夢遊病’罹っていたとして、この病に侵された患者の行動はどこまで本人の意思によるものなのでしょうか?」
クナープ中尉の目には真剣な光と共に、小さな疑惑が瞬いている。クリスは彼が言いたい事を正確に理解した。
「つまり、デリア嬢が‘寝たまま’の状態で友人を殺す事は可能なのか、という事ですか?」
「全く可能性はありませんか?」
「……いいえ、不可能ではないでしょう。しかしこれも明言する事は出来ません。そもそもこの手の病は他の病の様に、明確な病原がある訳ではありません。心の病というのは他人にとってみれば些細な事でさえ立派な原因となり得ますから。加えて、これらの病は一般的に隠される事が多い。身分によって程度の差があれ、知れれば家名に傷が付きますからね。ですから、専門の医師も少なければ症状、治療法に関する資料も圧倒的に少ない。まして門外漢の私には、ね」
クリスはいかにももっともらしく話している様に聞こえる。しかしクナープ中尉が来るまで僅かながら主の言葉を聞いていたアレクは内心で首を傾げていた。
明言は出来ない、と言っているクリスだが、先ほどまで今回の件のほぼ全容が見えているという口ぶりだった。つまり、彼は何かを隠したがっているという事になる。
それは別口から依頼されたという、今回の件に関わりが深い依頼が関係しているのだろうか。詳細は全く知らないアレクだが、クリスが断れない相手からの依頼だという時点で嫌な予感しかしない。
こういった勘はめったに外れず、クリスと共にいるせいでますます磨かれた第六巻が刑法を鳴らしている。アレクは疑問を内心で呟くのみにとどめ、表情にはおくびにも出さなかった。もっとも、クナープ中尉がクリスに注意を向けるだけでアレクに欠片の注意も傾けなかったのも、中尉がクリスの言を疑わなかった原因かもしれない。何故ならば、アレクは自他共に認める‘分かりやすい’人間だからだ。いくら主と人生の大半を共に過ごし、その面の皮の厚さを学んだところで限界がある。
「中尉も分かってはいるでしょうが、この程度の情報では証拠にさえなりません。まして、相手はこの帝国でも規模では5本の指に入るコルネリウス商会のご令嬢です。こんな理由では話を聞くことも不可能でしょう」
帝国では貴族が多きな権力を持っているが、商会というものも貴族と同じくらい手を出しにくい。それはその商売柄広い人脈を持ち、またコルネリウス商会ほどの規模となると、何かあった時に帝国の市場に多大な影響を及ぼしかねないのだ。また少なからず領地を持つ貴族ほど国からの抑制がないのもその影響力に拍車をかけている。おそらくこのコルネリウス商会も含めて規模の大きい商会には国の密偵が入り込んでいるだろうが、貴族以上に狡猾な面を持っている商人が集まった商会の情報を得るのは簡単な事ではない。
「貴殿のおっしゃる通りです。こういう場合は私達の行動が制限される事が多いのです」
「今回は運が悪かったですね。平常でならまだしも、今回の夜会に招待されていた人間まで調査の対象となると、迂闊な事は出来ませんから。もしも犯人がここまで予想していたのだとしたら、随分な策士ですね」
昨夜の夜会の招待客を含め、グレーテ嬢が殺害されたと考えられる時間にコルネリウス邸にいた人間達を一同に集めた時、中尉が彼らに最後に言った言葉は牽制の意味合いが大きかった様だ。実際はその招待客が招待客だっただけに、話を聞く事はおろか、表立っての捜査も難しいだろう。しかし殺害されたのが子爵家の令嬢であるから、捜査の手を抜く事も出来ない。アレクは他人事ながら、中尉達に多大な同情を感じずにはいられなかった。
「貴殿の言う通りです。これ以上ここに居れば不審に思われますから、そろそろお暇しますが、私達も少々行き詰っています。何か分かった事があれば小さな事でも教えていただければありがたい」
「分かりました。貴方方に協力するのも私達国民の義務ですからね」
クリスは胡散臭いまでの清清しい口調で言った。彼の人柄を知らない人間ならば簡単に騙されてくれるだろうが、僅かでも知っている人間からしたら胡散臭いことこの上ない。アレクは露骨に呆れた眼差しを己の主に向け、クナープ中尉も怪訝な表情を浮かべている。本当はもっと言いたい事があるだろうが、これ以上の言をクリスから引き出す事は不可能だと悟った中尉は、苦笑を浮かべながらも丁寧に頭を下げてから客間を後にした。
彼が去った後、僅かに沈黙が漂っていたが、ついに我慢できなくなったアレクが口を開く。
「何が、国民の義務、ですか。クリス様の口から出るのにここまで不似合いな言葉が存在するでしょうか?」
「何を言っているんだ、アレク。私は日々やりたくもない何某かの義務を遂行しているだろう?現に、この依頼だって、許を辿れば強要された義務に行き着く」
確かにクリスの言葉は間違ってはいないが、激しく違和感を感じる。何が、とは明言出来ないだけにアレクの中でもやもやとしたものが生まれた。何か反論をしたいが、クリスの言を論破出来るほどの言葉をアレクは持っていない。
「さっきから随分何か言いたそうだね、アレク?」
「……じゃあお聞きしますけれど、クナープ中尉にどうして嘘を言ったんですか?」
「嘘ねぇ……。別に私は嘘を言ってはいないと思うけれど」
確かに嘘は言ってはいない。いないが……。
「黙っているだけで嘘は言ってはいない、と言いたいのでしょうけれど、今回に限っては沈黙は嘘と同じくらい中尉達には痛手だったと思いますよ」
「分かってはいるけれどね。今回は彼らに首を突っ込まれては都合が悪いんだ。彼らに悪いとは思っているけれどね」
全く悪いとは思っていない口調でそう嘯くクリス。アレクはその言葉にため息しか出なかった。この全く悪いとは思ってはいないのがありありと分かる謝罪ほど、腹が立つという事をクリスは理解しているのだろうか、とアレクは自問する。いや、彼は理解しているのだろう。相手の気を逆なでるのが得意かつ、趣味であるこの主は。と同時にこの悪癖が治る事があるのだろうか、とも自問する。このままいけばいつか刺されてもおかしくは無いだけに、切実な疑問だ。しかし残念な事に疑問に対する答えは即座に出た。再考の余地が無いまでにあっさりと。
答えは否、だ。
アレクのため息が部屋の中に大きく響いた。




