婚約解消について
アイリスとハリーが婚約をしたのはもう十年前の話だ。
二人の出会いは彼女達が六歳の時に開かれた王妃主催のお茶会だった。公爵令嬢という肩書きと幼いにも関わらず落ち着きのあるアイリスを王妃が気に入ってしまったのだ。
押し切られるように決まった婚約に伴う王太子妃教育はアイリスの心を苦しめた。
ダンスは完璧に踊れるようになるまで踊らされ、勉学も出題される全ての問いに答えられるようになるまで教育を受け。外交の為だと他国の言葉や文化、マナーまで頭の中に叩き込まれた。
その地獄を生き抜き今では完璧な淑女と称されるようになったアイリスだったが、彼女自身が望んだものではなかった。
ハリーの為に失った時間は戻らない。しかし得た物がないわけではないのだ。これからの人生でなにか役立つだろうと自分を納得させた。
決意を固め、屋敷に帰るとアイリスを出迎えてくれたのは侍女のレクシー。長い付き合いからかなにかを察したように「良いことでもありましたか?」と聞かれたアイリスは「後で教えるわ」と笑い返した。
着替えを済ませ父テディのいる執務室に向かうと中から話し声が聞こえてくる。どうやら兄であるエルビーもいるようだ。
お兄様もいるのね、丁度良かった。
早く話したいという気持ちから軽快な音で部屋の扉を叩く。
「アイリスです。お父様とお兄様にお話があります」
「入りなさい」
許可を得て中に入るとテディとエルビーは向かい合うようにソファに座っていた。二人の視線がアイリスの方を向くと彼女の中にちょっとした緊張が訪れる。先走りそうになる気持ちをぐっと堪えてまずは挨拶から入った。
「ただいま戻りました、お父様、お兄様」
「おかえり、アイリス」
「おかえり」
厳しそうな低めの声に似合わず二人は穏やかな笑顔でアイリスを出迎えてくれた。
エルビーから「こちらにおいで」と手招きを受けて隣に腰掛けると目の前に座ったテディが首を傾げる。
「アイリス、話とは?」
「単刀直入に言います、ハリー様との婚約を解消したいのです」
「は?」
アイリスの爆弾発言にテディは心底驚いた表情を浮かべた。エルビーに至っては飲んでいた紅茶のせいで噎せてしまっている。
二人の反応はごく普通のものだ。今までずっと我慢し続けていた子が急に婚約者をやめたいと言い出したのだから。
固まっている二人にアイリスは話を続けた。
「お父様もお兄様もご存知の通りハリー様はある女性に惹かれているようなのです。私は潔く身を引くべきだと思いまして」
ハリーがマイラにぞっこんなのは王都に住む貴族なら誰でも知っていること。テディもエルビーもそのことに難色を示していたのはアイリスも分かっている。
「あ、アイリスはそれで良いのか?」
「はい。もう疲れました」
「でも、アイリスはハリー殿下が好きなんだろう?本当に良いのかい?」
エルビーから言われた台詞にアイリスは首を傾げた。
私がハリー様を好き?お兄様ったら冗談でも面白くないわよ。私に対して労いの言葉もかけず、公務を押し付けるような男を好きなわけないでしょ。付き合いが長いからちょっとした情はあったけど今はさっぱりだわ。
溜まりに溜まった愚痴を吐き出したくて堪らないアイリスの気持ちを二人が知る由もなく、娘が、妹が傷ついているかもしれないと内心慌てていた。
「別に好きじゃないです」
「そうなのか?」
「無理しなくても良いんだよ?」
「お二人ともご心配なく。私は自由になりたいだけなんです」
「そ、そうか…」
いまいち信用し切れてないのか歯切れの悪いテディにアイリスは「無理してませんから」と苦笑いを浮かべた。
「婚約を解消出来るようにお二人に協力をお願いしたいのですが」
「それは構わない」
「すぐにでも手配しよう」
「可能なのですか?」
きっと困らせてしまうだろうと思っていたのにあっさりと承諾する二人にアイリスは目を丸くした。
貴族の中で位が高いと言っても公爵家は臣下だ。仕えるべき王家からの婚約話をなかったことに出来るのだろうか。
そう考えていると察した二人が説明をしてくれる。
「実はアイリスとハリー殿下の婚約には約束事があったんだ」
「約束ですか?」
「アイリスが婚約解消を願い出たらすぐに解消出来るようにと父上が陛下に約束させたんだよ」
「初めて聞きました」
言ってくれたら何年も辛い思いをしなくて済んだのに。
アイリスは約束を教えてくれなかったテディを軽く睨んでしまった。
「陛下からの約束はそのことをアイリスに教えてはいけないってものだったんだ」
「そう、なんですね…」
陛下は賢い人だ、アイリスに言えばすぐにでも婚約の解消を望んでしまうと踏んでいたのだろう。それでもテディからの不躾な約束を受け入れてくれるあたり寛大な心の持ち主であることに変わりはない。どうしてそれが息子には遺伝しなかったのかとアイリスは残念な気持ちになった。
「そういうわけだ。明日解消に行ってくるよ」
「私も一緒に行った方が良いのでしょうか?」
「いや、お前は来なくて良いよ。陛下の事だ、上手く丸め込んでくるに決まってるからな」
幼い頃ならともかく今はそんなことにはならないと思うけど。
それでもアイリスは父からの優しさに今回ばかりは甘えることにした。
「では、お願いします」
「任せなさい」
頭を撫でてくれるテディにアイリスは子供のような笑顔を浮かべた。
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