第2話 間違い誘拐、発生
都会の利便性をすぐそばに感じながらも、ここだけは時が止まったようだった。斜陽が木々を黄金色に染め上げ、影が長く伸びる住宅街には、どこかノスタルジックで温かみのある空気が満ちていた。家々の窓から漏れる温かな灯りと、庭園から漂う澄んだ緑の息吹が、洗練された平穏な日常を形作っている。
そんな静寂の中に、ひとりだけ場違いな影があった。
電柱の陰に張り付くひょろ長い体型の若者である。
二十代前半、フードを深くかぶり、落ち着きなくスマホを握りしめていた。
もう片方の手には、この場には不釣り合いなロープ。
「……本当に、ここで合ってるんだよな……」
画面には“誘拐マニュアルまとめ”という、いかにも怪しいサイトが開かれている。
若者――倉田 海斗は、深くため息をついた。
借金返済のために“ネットで見た仕事”に手を出したものの、実際にやる段になって、膝が震えている。
「奥さんを連れ出すだけ……簡単な仕事……のはずだったのに……」
自分に言い聞かせるように呟くが、声は裏返っていた。
そのとき、隣の家の玄関が開いた。
出てきたのは――
由香だった。
夜道でも映える涼やかな一重。
白いシャツに細身のパンツ。
背筋が伸び、歩き方に無駄がない。
還暦を過ぎたとは思えないほど若々しい。
「……あれ? 依頼主が言ってた“女の人”って……この人?」
海斗は慌ててスマホを確認する。
依頼主が送ってきた説明は、
“洋館に住むふくよかな女性”
“夜に外へ出ることがある”
“髪は短め”
“年齢は五十代”
海斗は由香を見た。
由香は髪が短い。
夜に外へ出てきた。
年齢は……どう見ても四十代にしか見えないが、まあどう見るかは人それぞれ。誤差の範囲内だ。
「……たぶん、この人だよな?ふくよかじゃないけど……」
海斗は震える手でロープを握りしめた。
由香は、夜空を見上げながら歩いてくる。
その姿は堂々としていて、おとなしく誘拐されてくれそうな気配など微塵もない。
「よ、よし……やるしか……!」
海斗は意を決して飛び出した。
「す、すみません! ちょっと来てもらえますか!」
由香はぴたりと足を止め、ゆっくりと振り返った。
「……何かしら?」
その落ち着き払った声に、海斗の心臓が跳る。
焦った海斗はつい、
「え、えっと……その……誘拐です!」
「宣言する誘拐犯がどこにいるのよ」
「す、すみません!」
「謝る誘拐犯もいないわよ」
「す、すみません……!」
海斗は完全にペースを乱されていた。
由香はため息をつき、ロープを指さした。
「そんなもの持って歩いてたら、すぐに怪しいって思われて、通報されるわよ。で、車はどこよ?」
「えっ……あ、あの……」
「まさか、縛ったまま連れて歩こうとしてたの?」
海斗はコクコクと頷いた。
「はぁ……ほんとに段取りが悪いわね。貸しなさい」
由香はロープを取り上げ、海斗の手首に手際よく結んだ。
他の人からは見えづらいようにする。
「こうやって縛るの。ちゃんと、覚えなさいよ」
ロープの反対側の端は由香が持った。
「は、はい……!」
海斗は誘拐犯であるにもかかわらず、素直に頷いてしまった。
(こんなに素直で、誘拐なんてできるわけないじゃない……)
と、由香は半ば呆れながら思った。
「それで、どこへ連れていくの?」
「えっ……あ、あの……倉庫です……」
「案内しなさい」
「は、はい……!」
こうして、誘拐犯よりも強い誘拐被害者が、堂々と若者を従えて歩き出した。
海斗は心の中で叫んでいた。
(なんで俺が誘拐されてるみたいになってるんだろう……!?)
しかし、この時点で海斗はまだ知らない。
自分が“間違った女”を誘拐してしまったことを。




