3-6「だめだこいつ、もう畜生以下じゃねえか!」
「ここに記載されている数字もあくまで現時点で算出できている損害の概算に過ぎません。記載があるもの以外にも工事期間中のレッスンに用いるレンタルスタジオの料金に、臨時会場の使用にあたって必要になるスタッフの経費に……」
「え?えっ?ええ?」
「当日事件に巻き込まれたスタッフのメンタルケアの費用や生徒さん方の中退による次年度以降の売上減、近隣の方々へご迷惑をおかけた事への補償などに関してもこれから計上していきますので、金額は今後順次変動していくものとお考え下さい。」
「おいおいおいおい」
ふんだくられる金の額が目の前で雪だるま式に増えていく。
(そんなバカな!たかが一回、人前でうんこを漏らしただけだぞ!?それがどうしてこんな大ごとになるんだ………!?)
権田原の下っ腹が「ぎゅううう」と聞くだにぞっとする収縮音を立てた。
「しかしこんなモン、俺一人でどうにかなる金額じゃなかろうが………!」
「ですから何もお一人で、と申してはおりません」
「…………」
「先に申しました通り、賠償義務者は権田原先生と警察の二者ですから。提示した額を二者合同で完済していただければそれでいいんです。支払額の割り振りについてもこちらからは干渉致しませんので警察と相談の上決めて頂ければ結構です」
「そんなモン10:0でバカなオマワリ共に払わせるのが道理だろう!俺もあの時の催涙ガスの後遺症がまだ全然抜けてないんだぞ!俺も被害者じゃないか!」
そ…そうだ。俺は被害者なんだ。
この馬鹿らしい話し合いを終わらせる為の逃げ道が急に眼前に拓けた。
「その様にお考えなら、どうぞその旨を警察にお伝え下さい。」
「話し合うまでも無い!だから俺への請求は取り下げろ!」
「それは出来ません」
「何でだ!」
「多くの生徒が、本件の発端となった出来事を目撃しているからです。」
「え………!?」
「警察の介入を引き起こしたのは先生です。それは厳然たる事実ですよね?」
「………………」
逃げ道はいとも容易く閉じられた。
そう。権田原の失態は何も『うんこを漏らした事』ばかりではない。
むしろその後に適切な対応を取らず、より深刻な事態を引き起こしてしまった事の方が重大だったのだ。
「その経緯と事実を多くの生徒がつぶさに目撃・認識している以上、それをお咎めなしとしてしまっては…被害者たる生徒達と出資者たるその親御さん方に示しが付かないんですよ。お分かりですね?」
事務局員は声のトーンを落としつつ、しかし確実に語気を強めながら言った。『元はと言えばてめぇの責任だろうが』という叱責を丁寧な言い回しに直すと、こんなにも冷徹で威圧的な響きになる物なのか。
「な…なら、講師の仕事を暫く謹慎という事で手打ちに…………」
「ああ、無論講師職は降りて頂きます。」
「…………………………えっ?」
近年声優としての仕事や活動実績が殆どない権田原の飯の種が、あっさりサッパリなくなった。ここの講師をクビになってしまったらどう生活すれば良いのか。
事務局員は顔を上げた権田原の不安と悲哀に満ち満ちた表情からその心情を察したらしかった。そしてすぐさま「知るかボケカス」とばかりに侮蔑的な薄ら笑いを浮かべた。
「じゃ、じゃあ…それでそれで手打ちって事だよな?」
「そうは行きません。」
「…………………何でだよう。」
「学校として先生に下さねばならない懲戒処分と、学校が被った損害の賠償というのはあくまで別なんですよ。分かりますよね?」
「……いや……でも……」
「まぁこんな事が起きた以上、生徒達の信頼や尊敬を維持して行く事は難しくもありますからね。こちらとしては事前にこういった動きがある事を予めお知らせする事で温情を示しているんですよ。お察し下さい。」
そう諭す事務局員の声色と話し口には温情のかけらもなかった。
それどころか『てめぇの社会人人生をここで完全に終わらせてやる』という極めて鋭利な敵意と、如何に些細で弱々しい抗議さえも許さない強硬な圧力があった。
脱糞ひとつで仕事をクビになった上、カネまで毟り取られるのか。
目の奥が熱を帯び、全身から力が抜けていく。
権田原は提示された見積書を震える手でつまみ、改めて書いてある金額を凝視しながら立ち上がり……
ここで極度の緊張とストレスに見舞われたか、何と再度失禁した。
数日前の惨劇の再現に、事務局員はあの時教室にいた生徒達の様な華麗なバックステップで権田原から遠ざかった。
(だめだこいつ、もう畜生以下じゃねえか!)
こうなってしまったら流石にもう理性的な話し合いは不可能だ。
それまで落ち着いて話をしていた事務局員はここで初めて少し取り乱し、声を裏返しながら叫んだ。
「誰か消臭剤と消毒薬持って来い!あと、お清めの塩もだ!」
それから警察を……と言いかけて、慌てて口をつぐんだ。
このあと事務局員達は「……大はどうにか押し留めただろうが!」と意味不明の逆ギレを口にした権田原を四の五の言わせず本社社屋から蹴り出したのち、支払い能力がないと分かった権田原から彼の所属事務所へターゲットを切り替え、所属タレントの監督不行き届きを理由にしっかりと訴訟を起こして経費分+αの損害賠償をゲットした。
結果的に賠償金を肩代わりする事になった事務所は当然権田原に支払いを要求したが「元々払う必要のないカネだった、俺は何ら納得していない」と自らの尻拭いをしてくれた相手に豪快に後ろ足で砂をかけた。
そのさらに数ヶ月後、「ウチを辞めたって損害賠償の支払い義務が無くなるわけじゃないですよ、訴状見ました?請求先は元々警察と権田原さんの連名になってたんですからね?分かってます?」というスタッフの声を白目を剥きながら振り切って事務所を退社、独立を宣言して自らの城・ボルケーノを立ち上げたのであった。
事の経緯を知る者からは「うんこボルケーノ(大噴火)」「うんこバラ達郎伝」などと心無くイジられ、オモチャにされた事は言うまでもない。
ちなみに、雛沢ももえこと安沢とし子の加入はその2ヶ月後の事であった。




