8.ゆらぐこころ
「――陣術か。それも、魔術と併用しているなんて頭が良いね」
ふと――先程までガーランドと戦っていたはずの少年が、こちらにやってきた。見れば、あちらは決着がついているのか――ガーランドは地面に座り込んで降参していた。
肩越しにそれを見て、マリウスはふっと溜息を吐く。状況をどうにか理解したあとで、鞭を手放すと両手を上げた。
「――私達の負け、か。仕方ない。とどめをさすと良い」
近寄ってくる気配に、顔を上げるつもりはなかった。顔を上げれば、あの澄んだ目を見てしまう事になるから。
「クライスト領での代行は、例外なく死罪なんでしょう?――なら、今ここでそうするがいい」
急かすように、マリウスは囁いた。主の望みを叶える事の出来ない私は、どうせ不用品だから――そう、思いながら。
だが、一向に痛みというものはやってこない。身体を貫く刃も、与えてもらえはしなかった。
「……どうして、代行者なの」
泣きそうな声――これは、イオンのものだ。ほんのひと時だけ、仲良くコーンポタージュを飲んだ、それだけの仲――それなのにどうして彼女は泣いているのだろうか。
「私が、主様の人形だからだ。代行者になるためだけに、私は育てられた。だから、イオン――私の事は、もう気にかけないほうが良い」
涙で潤んだ瞳を直視しないように、囁いた。彼の兄だろうか、自分を今この地面に縫い付けているあの男が、イオンを後ろに下がらせる。
別に配慮してそうしたわけではないのだろうが、結果的にイオンの目を見ないで済むのはありがたい。安堵し顔を上げれば、ガーランドが自分の傍に立っている。そして、ぽんぽんと肩を叩いた。
「頼んで殺してくれるような冷徹な奴らじゃない」
どうやら、その言葉は正しいようだった。目の前の敵は全員、既に武器を納めている。これだからクライストの連中は甘いのだ。そうして油断して、いつ何が起こるかも解らないでしょう。後ろから刺されでもしたら、どうするつもりなのか。
「泣いている子供の目の前で、人を殺めるわけにもいきませんので」
肩をすくめ、先程の少年が困った様子でイオンを見る。震えながら泣いているんだろう、未だに、か細い嗚咽が聞こえてくる。どうして、そんなに泣いてしまうのか――マリウスには、まだ何となく理解が出来ない。
けれど、今すぐに死ねないというのは随分と苦痛である。溜息を吐いて顔を上げると、ふと、自分は腕は動かせるのだという事を思い出した。
「……なら、こうすればいいよね」
気付いてしまえば、問題なんてどこにもないのだ。自らを、自分の手で死罪にすればいい。そうすれば誰も、手を汚さないでいいわけだ。そして、せめてもの自分の主への忠誠も守られる――
「――なっ、やめなさい!」
誰かの叫ぶ声、それが自分を制止するよりも前に、マリウスは素早く短剣を抜き、自らの腹に突き立てた。
暗闇に浮かぶ意識が一つ。ともすれば溶け込んで行きそうな心地良い闇に包まれ、マリウスは薄らと笑みを浮かべた。
死後の世界というものがあるならば、ここは自分にぴったりの場所だ。何もなくて、真っ暗で、とても居心地が良い。
きっと意識すらこの闇に溶けた時、自分は死を迎えるのだろう。なんて素晴らしい事なんだろうか。
――レプティール、ああ、なんて忌まわしい子なの。
暗闇でひとり漂っていると、そんな言葉が聞こえてくる。
あの声は、代行によって浄化された母のものだろうか――もうどのくらい前のことだったろうか?
少なくとも、軽く八百年ほどは前か――。
錬金術師の子として生まれた自分は、十の時に「死んで」いた。
不老不死を忌むものとする国の方針には、背けない。自分も両親のように、神の代行で浄化されるものと思っていたのに――
「レプティール?つまらん名だ。お前には――そうだな、アンドロマリウス――これでどうだ」
急に目の前に現れた、蒼い影。紫色の瞳が自分の傍に近づいて、そこに自分の赤い瞳が写りこんだ。
「アンドロマリウス……?」
「高貴な神の名だ。有り難く受け取るがいい」
至極優しい手つきで自分の頭を撫でる青年――自分の主となった人物。記憶の中の彼は慈愛に満ちていた。そんなものが、仮面である事はとうの昔に気付いていたが。
「お前は今から、私の息子だ。アンドロマリウス・ルシオン・レディエンス――今日からそう名乗るがいい」
ルシオン――それは、目の前の青年、レディエンス王その人のファーストネーム。
忌み子であった自分にそんな名前を与えてくれた、それはつまり彼にとって自分はそれだけの価値があるという事に他ならない。幼子であるマリウスにでも、それは十分に理解できた。
――嬉しいとも、複雑とも、恐れ多いとも思った。けれど、迷わず頷いた。
「私の人形として存分に働いておくれ、アンドロマリウス。――忌まわしいクライストを滅ぼすために。そして、呪われた者たちも――お前を苦しめた錬金術も、すべて消し去るのだ」
優しく語る主の、紫の瞳には狂気が潜んでいる。呪詛のように囁かれる言葉に目を伏せ、マリウスは主の言葉を反芻する。
クライストを、滅ぼすために。呪われたものを浄化するために。そして、忌まわしい錬金術さえも消し去るために。
代行者になるのだ――と。