第102話 青く輝く海
蒼い光が奔った。
ぼこぼこと沸き立つ黒い肉が、核を覆い隠そうとした、寸前。
ティティが放った光の矢が俺の横を掠め、剥き出しの核に突き立った。
『ア、ア、アアアァァア、アア――――――――ッ!』
恐ろしい絶叫が海を渡る。
触腕がのたうちながら腐り落ち、ガルディオの全身がどろりと溶け出した。
『この、人間ごときがァァアアア! 呪ってやる、呪ってやる、呪ってやるぅぅううう!』
天に轟く呪詛と共に、溶けかけた肉体が凄まじい瘴気を噴き上げる。
海に落ちた肉片が毒と化して水面を染め、噎せるほどに濃い毒霧が大気へ広がっていく。
「ッ、く……!」
呼吸さえままらない毒霧の中、俺は光の矢に穿たれ、崩れゆく核に手を突っ込むと、消滅していくガルディオの魔力を吸い上げた。
(この力を、トレース、出来れば……っ!)
海へと崩れ落ちながら、ガルディオはひび割れた哄笑を上げる。
『はは、はははは! 無駄だ無駄だ無駄だ! 魔王様の復活は既に間近! 貴様らのちっぽけな喜び、希望、絆! すべては混沌へと融け消えるのだ! 万物は我らの手に!』
やがて呪いにも似た毒霧を残して、その姿は完全に腐り落ちた。
「か、ッは……!」
凄まじい濃度の毒に肺が焼ける。
俺は海へと落ちながら、毒霧に覆われようとしている船へ手をかざした。
ガルディオからトレースした『毒霧』に『反転』を乗せて、放つ。
「『反転』!」
大気に白銀の光が迸った。
光の輪が広がって、暗雲が消し飛び、立ちこめていた瘴気が霧散する。澄んだ風が海を渡り、海に重たく蟠っていた毒が蒸発した。
「は……」
霞む目に、海の青さが眩しい。
これで、南国諸島の人々が毒に苦しめられることはない。
良かった、と呟いた時、落ち行く身体を受け止めるものがあった。
「水龍……」
水龍は俺を頭に乗せると、船へ降ろしてくれた。
「ロクちゃん!」
胸に飛び込んできたティティを抱き留める。
「ティティ、よくやってくれた」
この小さな身体で、あの強大な魔族を射抜いてくれたのだ。
愛おしさを込めて強く抱き締めると、ティティは嬉しそうに笑った。
フェリスたちの無事を確認する。
甲板に座り込んだリゼが、シャロットを抱き締めて泣いていた。
「シャロット、ごめんなさい、私、なんてことを……!」
「いいのです。ねえさまがご無事で、シャロはうれしいです」
膝を付き、そっと声を掛ける。
「リゼ、大丈夫か。手荒くしてごめん、どこか痛いところは……」
リゼはくしゃりと顔を歪めて俺を見上げた。
「ロクさま、申し訳ございません、私……!」
俺に縋ろうとした手が、はっと躊躇う。
その目に映るのは、俺の腕に刻まれた、焼け爛れた傷――
俺は痛みに構わず、その身体を抱き締めた。
「っ……ぁぁ……! ごめんなさい、ごめん、なさい……!」
「いいんだ。リゼが無事で良かった」
腕の中で震える背中を、俺は飽かず撫で続けた。
:+:-・:+:-・:+:-・:+:-・:+:-・:+:-・:+:-・:+:-・:+:-
マストが折れ、中破した船を、水龍と人魚たちが港まで運んでくれた。
「水龍! それに、人魚まで! 本当にいたのか……!」
港で出迎えてくれた人々が目を丸くしている。
去り際、人魚たちはありったけのオーロラ珊瑚を手渡してくれた。
「本当にありがとうございました。どうぞ、お役立てください」
これで解毒薬が作れると、ウォンたちが喜び合う。
「それと、勇者さまへ、これを」
スピカがきらきら光る何かを差し出す。
それは透き通る石が付いたネックレスだった。
「これは『水天の輝石』。人魚の秘宝です。魔力を繋いだ相手と、五感を共有することが出来ます。視覚も、聴覚も、痛みさえも。ただ、使用者に多大な負荷が掛かります。どうかお気を付けて」
「ありがとう、でも……」
大切な宝物ではないのだろうか?
スピカは俺の心を読んだように、初めて笑った。笑うことが苦手なのか、ちょっぴり不器用で、可愛らしい笑顔だった。
「与えることも、受け取ることも、同じくらい大切なことです。あなたが今まで救ったたくさんの人が、あなたに力を貸してくれるでしょう。どうか受け取って」
俺が頷くと、スピカは伸び上がり、そっと首に掛けてくれた。
「忘れないで。一度結ばれた絆は、目に見えずとも繋がっています。たとえ遠く離れても、お心はいつも側に」
水龍が、俺とティティに頬をすり寄せる。
手を振って、海へ帰っていく水龍と人魚たちを見送る。きゅいきゅいと嬉しそうな水龍の子どもの声が、いつまでも響いていた。
青く煌めく海を見晴るかす。
奏が授けてくれた『反転』と、魔族からトレースした『毒霧』の力。
(この力があれば、【瘴気の巣】を払えるかもしれない……)
『時は満ちた』というガルディオの言葉が耳に蘇る。
近付く決戦の予感に、遠く北の空へと目を馳せた時、ティティの弓が眩く輝いた。
「わ!」
青い光と共に、美しい女性が現れる。
女性は胸に手を当て、流れるような仕草でお辞儀をした。
「千年の長きに渡り、再来をお待ちしておりました、我らが主君。『朝凪の弓』、ここに。海よりも深い忠義をもってお仕えすることをお約束いたします」
朝凪の弓に宿った初代神姫は、長い銀髪をきっちりと結い上げ、片眼鏡を掛けた長身の女性だった。ほっそりとした身体に、すらりと伸びた四肢。無駄のない仕草と、身体にフィットするタイトなローブが、出来る女感を醸し出している。
「力を貸してくれてありがとう。どうぞ、よろしくお願いします」
朝凪の弓は俺に深々と一礼すると、ティティを振り向いた。
目をきらきらさせているティティに片目を瞑る。
「やあ、ボクのキュートなティティどの。この朝凪の弓、どんなに入り乱れた戦場でも百発百中、スマートな勝利を約束しよう。小難しい計算はボクがやるさ、君はただ、仲間を信じて射てばいい。そのまっすぐな心のようにね」
「頼りにしてるよ、相棒っ!」
ティティと初代神姫は、軽やかなハイタッチを交わした。
歓喜の声を上げる町人の中から、ウォンが進み出る。
「本当にありがとうございました。あなたがたのお陰で、多くの人が救われました。皆さまの旅路が幸福と笑顔に彩られたものであることを、心より祈っております」
ウォンは俺と握手を交わすと、ティティと抱擁した。
「元気でな、ティティ。また、顔を見せに来ておくれ」
「うん! おじーちゃんたちも、元気でね!」
隊商や町の人たちに見送られて、港町を後にする。
輝く海を背に、人々はいつまでも手を振っていた。
「ロクちゃん」
晴れ渡った蒼穹の下、御者台の隣に座ったティティが、手綱を握る俺を見上げる。
「ティティね、やっとみんなに恩返しができたよ」
小さなぬくもりが、肩に寄りかかった。
「大好きなみんなを守ってくれて――守る力をくれて、ありがとう」
大切な贈り物のようにそっと告げられた言葉に、俺は目を細めた。