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明日の朝に会えたなら[下]






それは、薮神和彦が母親の胎内に宿る時まで遡る。


彼の母親はとても美人だった。


実業家である夫は妻を自慢に思っており、とても大切にしていた。

時が経つと二人の間に息子が産まれ、とても可愛がった。

金持ちで子供もいる。

夫は家族を愛し、妻も家族を愛した。

まさに理想の家族だった。


ある日、夫は海外へ出張する。

家には母子しかいない。

その時、訪問してきた見知らぬ男に妻は強姦された。

そして、その男の子供を身籠った。


それが薮神和彦。


夫婦は妊娠を確認しても病院へは行かなかった。

堕胎してしまえば次の妊娠が難しくなってしまうかもしれないと考えて不安になったのだ。

結局は産むしかなかった。

腹が膨らみはじめたら、外出はしないようにしていた。

だから近所の誰もが二人目の妊娠を知らなかった。

そして、彼はひっそりと産まれた。


出生届なんて出してもらえなかった。

産まれた頃から彼は独りだった。

いや、胎内に居た時から独りだったのだ。


両親はあからさまに長男との差別化をとり、次男として産まれた彼の全てを拒絶した。

家族にとっては思い出したくもない過去を毎日見せつけられているようなものだ。

目に見える憎悪と嫌悪。


両親は自分では世話をしなくてもいいようにと、住み込みの手伝いを雇った。

口が硬く、無口な人間を求めた。


それが足立正司だ。


彼は和彦の全てを世話した。

オムツやミルク、風呂や洗濯。

全てを。

和彦は夜泣きはせず、聞き分けの良いおとなしい子供だった。


それでも幼い和彦は家族の愛を求めた。

拒否されようとも、罵詈雑言を吐かれようとも愛を求めた。


兄から暴力を受け、父からは無視され、母親はヒステリックなまでに和彦を否定した。


まだ、言葉も分からない幼い子供は、とても孤独だった。


両親は、和彦の部屋を物置と共に最上階にあてがい、間違っても家のなかで鉢合わせにならないよう、手洗いや風呂場まで親切に設けてくれた。


ある程度の年齢になると、和彦はあらゆるものに興味を示すようになり、物事の善し悪しは同年齢の子供に比べればとても理解が早かったし、読み書きも完璧だった。


それでも和彦の両親は彼に無関心だった。


二人目の子供がいると知られてはいけないと窓は板で塞いである。

彼へ当てがわれたスペースを出なければ、どこで何をしても一向に構わなかった。

和彦の存在を感じさせなければいいのだ。

だから、物音もたてずに、ただ広いだけの部屋で一日中静かにしていた。


しかし、彼の兄はよく彼の部屋に訪れては意地悪をして和彦を泣かせた。


暇になったり両親に怒られたりすると決まって和彦にストレスを発散させに来るのだ。

その度に兄は「お前は穢れた血の息子だ。この家にはいてはいけない。地獄へ行け。産まれてはいけない悪魔の子供だ」と笑いながら罵った。

そう叫ぶ兄の形相の方がよっぽど地獄からの使者然としていた。


兄の虐めは姑息で意気地がなかった。

廊下を歩いていると背中を強く押したり、トイレに入っていると出てこられないように壁とドアにつっかえ棒を嵌め込んだりした。


助けてくれと叫ぶと足立が駆け付けてくれる。

足立は常に無表情だった。

感情は面に出さず、黙々と和彦の世話だけをしていた。


ある日、足立は和彦の写真を撮った。

何を考えての事かは分からなかった。

そして、数日後、現像した写真をくれた。

足立は何も言わず、ただ黙ってそれをくれたのだ。


その数日後、皆が寝静まった頃に踏み入れる事が許されていない下の階へ行った。

夜の闇に紛れて静寂を守り、衣擦れや足音を立てないよう慎重に。


初めて見る世界は色鮮やかな花や絵画、繊細なガラス細工が至るところに飾ってあった。

まるで別世界にいるようだった。

この家の中だけでこんなものが沢山あるのだ。

此処を出ればもっともっと素晴らしい物があるはずだ。


和彦は胸を高鳴らせて夢中でそれらを目に焼き付けた。


そして、それから毎晩のように煌めく世界へと降りていった。

夢の世界への秘密の冒険だった。


しかし、それも長くは続かなかった。


ある晩、トイレに立った母親と鉢合わせしてしまったのだ。

久しぶりに見た母親はやはり、美しかった。

足立が撮ってくれた自分の写真と似ているので、やはりこの人の息子なのだと、子供ながらに感じたが、相手はそうは思っていないらしく、彼女は悲鳴を飲み込み、近くにあった花瓶や置物を乱暴に投げつけてきた。


息子である和彦に。


和彦は頭や顔から血を流し、ひたすら謝った。


自分が悪いのだ。

約束も守れない、最悪の子供なのだ。


痛みはなかったが、胸が詰まった。

ただただ、苦しかった。


騒ぎを聞いた足立が和彦の肩を抱いて彼の部屋へと連れて上がるその時、父親が言った。


「足立!二度と降りてくるなと言っておけ!」


和彦は隣にいるのに足立にそう言ったのだ。


やはり、和彦は独りだった。


美しい世界などない。

そんなもの嘘だ、偽りだ。

それを証拠に、投げつけられた物たちはバラバラになって散らかっている。

見せ掛けの美しさだったのだ。

もう塵でしかない。

役立たずの不細工な塵。


翌日、和彦の部屋に無数の鏡が付けられた。

何事かと足立に問うと「奥様の言い付けでございます」と静かに言った。


母親は鏡を取り付ける事によって、和彦に己の存在がどれ程自分達を苦しめるのかを自覚させたかったのだ。


明らかに違う自分と兄の顔。


母に似ているが──父や兄には全く似ていない。

自分でもそう思った。


この顔がいけないのだ、と和彦は物置から持ち出した金属バットで鏡を全て割った。


凄まじい音がして辺りに破片が飛び散り、あっという間に部屋はキラキラとした美しい輝きをはらんだ。

階下で見たあの光たちのようだった。


不思議だと思った。

形作っていたあの物たちは壊れてしまえば美しくはなくなった。

しかし、この鏡の破片たちはキラキラと輝いており今の方が美しい。


しかし、そこに映るのは穢らわしい自分の姿だった。

頬を青く腫らし、額の傷は生々しい。

醜い性欲の化身は哀れで情けない表情で互いに見つめあった。

こんなものは見たくない。


この鏡のように壊してしまえば、違うカタチになれるのだろうか。


手近にあった掌大の破片を顔の右側に何度も突き刺した。


血が出た。

とても痛かった。

それを耐えそのまま皮膚を切り裂いた。

破片を強く握る右手からも血が出た。


「な、何を!」


鏡が割れる音を聞き付けて足立が部屋に飛び込んできたのだ。


「何をしているのです!馬鹿なことを!」


足立は和彦の手から慎重に破片を取り上げた。


「本当に──何故───」


和彦は答えなかった。


「もう、二度と、こんな─こんな馬鹿な事はしないでください!」


足立はそう言って傷を治療してくれた。

いつも何を考えているのか分からない足立だったが、この時はとても苦しそうな表情で目に涙を溜めていたことに驚いた。

その後ろで兄がニヤニヤ笑って部屋を覗いていた。


何だか足立が哀れに思えてしまった。


傷の具合が良くなると、和彦は一日の大半を物置で過ごした。


その中にはレコードや楽譜、美術雑誌や多彩な数の書籍が貯蔵れており、飽きることはなかった。

全て父親の物だった。

面白そうだと手を付けては直ぐに飽き、物置へ放り込んでいたようだ。

放り込まれた過去は埃をかぶり、朽ちていく。


和彦はそこからバイオリンや電子ピアノを引っ張り出してきては部屋へと運び込み、様々な音色を奏でた。

ある時は小説に没頭し、ある時は階下で見た色鮮やかな物たちの姿をスケッチブックに写した。

楽しかった。

父親とは違い、放り込まれた物たちに希望と喜びを感じたのだ。


彼は孤独の中に飲まれる覚悟を決め、二度とそこから出ないと決めた。


自分にはこの世界が似合っているのだ。

自分が生きていけるのはこの世界しかない。


階下から聞こえてくる話し声や笑い声は聞こえない振りをした。

外から聞こえてくる子供たちの声も聞こえない振りをした。


和彦は世界から居なくなった振りをした。




そんな中、和彦は九死に一生を得た。

その日、足立は休みをとって旅行に出ており家にはいなかった。

それが少しだけ不安だった。


夜中に不快な焦げ臭さに目を覚ました。

すると、驚いたことに扉の前で炎が踊っていた。


窓は塞がれているので炎に包まれた部屋には逃げ場がない。


─いよいよか。


和彦はそう思った。

火の気がないこの部屋から発火することは可能性としては考えにくい。

この階には自分しかいないのだから。


家族の誰かがやったのだ。

その時、扉の下の僅かな隙間から光が射し込み、その中に人の足の影が消えていったのが見えた。


和彦は再び横になると目を閉じ、覚悟を決めた。


このまま眠るように逝ってしまうのも良い。

穢れた身体を焼き付けてくれ。

生きた証などいらないから。

骨など遺さなくていいから。

せめて、苦しくないようにしてほしい。


しかし、そうはならなかった。


生きている。


意識が朦朧とする中に見えたのは母親でも父親でも兄でもなく、足立だった。


足立は煤だらけの顔で髪を乱し、和彦の顔に包帯を巻いた。


「火は消しました。火災は酷くないです。この部屋と外壁を少し焼いただけで消えました」


足立が看病をしてくれたのかと聞こうとしたが、意識は薄れ再び眠りについた。


目を覚ました時、足立は医学書を手にしていた。


盗み見てみると『火傷裂傷における簡易処置』と云う項目を読んでいるようだった。

やはり、怪我をしたからといっても病院へ連れていってはくれないのだ。

自分はこの世に存在していないことになっているのだから当然だった。


ふと両親がどうしているのか気になり聞いてみると、足立は無表情で答えた。


「旦那様は奥様と武志様を連れ海外へ行かれました。もう戻る事はありません。この家はあなたの物です。ご自由にご使用ください。との事です。私はこの家で引き続きお世話をさせていただきます。生活費は旦那様から振り込まれる手筈になっております」


足立は事務的に述べると一礼した。


「お名前を─」


そうだ。

名前だ。

自分には名前がない。

今までは「お前」としか呼ばれなかった。


「──和彦」


自分の名を自分で決めた。


平和の『和』だ。

いい名前だと思った。


自分は一人の人間であり、生きている。

名前は新しい人生を踏み出すための第一歩。


これで惨めな暮らしからは解放されると喜びはしたが、やはり家族と離れるのは寂しい気もした。

なんだか不思議な感じだ。


恐らく和彦の部屋に火を放ったのは両親だ。

この家から出ていく口実が欲しかったのか、それとも本気で和彦の存在を消そうとしたかは分からない。

足立に無理矢理休みをとらせたのは確かだ。

不審に思った足立が何か起きてはいけないと両親には内緒で息を潜めていなければ和彦はもう生きてはいないだろう。


あれだけ酷い事をされたにもかかわらず、恋しいと云う感情を少しばかり持っていたことに少し驚いた。


階下に降りれば閑散としており、ゴミ一つとして落ちてはいなかった。

和彦に残されたのは大きな家だけだった。


火傷の痛みが引いたが痕は痛々しく残った。


和彦は独学であらゆる事を学んだ。

国内外の著書を貪るように読み、インターネットを使用して音楽やアートに触れた。


孤独な和彦の一生は自分の為だけにある。


美しい物を夢に見て焦がれるだけの人生だが、それでも生きていると感じられた。

火傷の跡がある顔は相変わらず醜い。

素人のにわか治療では限界があるのだ。


火は顔の右側を焼いた。


今さら整形手術を受けようとは思わない。

いや、自分はこの世に存在していないことになっているのだから医療など受けられないのだ。


もう嫌な思いはしたくない。

今のままで充分だ。

自ら傷つきに行くのは愚かだ。


このままおとなしく死んでいこう。





─────





「どうだった?」と薮神和彦。


彼の日記の事を思い出していたのでほとんど聞いていなかった。


やはり、まともに彼の顔を見ることができない。

一度見れば離れない。

それは、怒りや哀しみが混じっていたからなのか。

それならばもう、二度と見たくない。

彼の過去を見てしまえば自分は堪えられない。

あの苦しみが脳裏を離れない。

薮神和彦が──彼の暗闇が───


「ううん」と薮神和彦が唸る。


「何を考えていたのだろうね。きみが一番気に入っていた曲だというのに。それがようやく完成したのだ。嬉しくはないのか?」


麻梨乃の返事がないことに溜め息をついた。


「これは、私たちの曲だ。きみと私だけの。それを今宵美しい夜空へ飛び立たせたのに。──なんともつれない態度ではないか。─私の代わりに憧れの世界へと解き放ったのに、その船出を祝ってはくれないのか」


部屋は薄暗い。

立ち上がった薮神和彦の不気味なシルエットだけが月明かりに浮かぶ。

その姿を明瞭に見たわけでもないが、それでも顔を伏せてしまう。


「まぁ、もうそれはいい。あまりにくどいと嫌われるからね。女はそういう奴を嫌うのだろう?お喋りな男も嫌われる。ほら、私は勉強熱心だから。色々と勉強するのだよ。あとは、口の悪い奴だ。その点は私は大丈夫だろう?紳士的な態度を心掛けているからね。教養の無い奴は私も嫌いだ。私はそれを独学したからね。そこらの腑抜けどもは足元にも及ばないだろう。だが、ひとつ。分からない事がある。きみはなぜ、私を見ない?恋人同士なら見つめあうものだろう?───あぁ、なるほど、照れているのだな?」


その口調は冷たく荒い。

初めて薮神和彦と言葉を交わした時には想像もできなかった。


これは悪夢だ。


何と答えれば薮神和彦は喜ぶのだろうか。


「違うか?ではなぜ、私を見ない?──あんなに私の顔を見たがっていたのに、おかしなやつだな。─ん?震えているのか?暗いのが怖いのか?そうなら言えば良いじゃないか。電気をつけてやろう。─違う?なら何故、震えている?夏に寒いわけがない。怖いから震えるのだろう?何が怖い?私がその原因を消し去ってやろう。私はきみを守るよ。─どうした、聞こえないぞ?何が怖い?言わなければわからない。さぁ、言え。はっきりと!私の目を見て、何が怖いのか言え!そして私に教えてくれ!薮神和彦という男のその醜さを!」


薮神和彦は怒鳴りながら譜面台を突き飛ばした。


「お前が知るのには早すぎた!そして、知らなくて良い事まで知った!もうお前は逃げられない。逃げられないぞ!一生私がついて離れないんだ!本当に可哀想なやつだ──」


怒りながら窓辺へと向かう薮神和彦。

この身体は何を背負っているのだろう。

彼がその重荷から解放される日は来るのだろうか。

痛みや苦しみを過去の事だったと思える日は──。


「忌避され疎まれる。生きているのに死んでいる。回避できない不条理な境遇によって私の人生は歪み狂ったのだ。『お前は醜い悪だ。この家の恥だ。穢らわしい性欲の化身だ』と幼いこどもに吐き捨てる。産まれた時は普通の姿でもそれを穢らわしい者だと判断されれば、相手にとってもうそれは汚ならしい醜い塊なんだよ。美しい物とそうでない物の区別。その境界線は誰が決める?誰がどう、美しい物を決める?それが産まれながらにして埋め込まれた感性なら、人間は差別なくしては生きていけないのだと云うことになる。私は世の中を恨んだ。憎んだ。私は憎悪に育てられたのだよ。そんな私の結末は目に見えている。分かっている。私には成功や達成なんて言葉は愛に次いで不釣り合いなんだ。それを望んでもいけない。夢を見れば自分が愚かだと身に染みて虚しくなるだけだ。それでも──ほんの少しだけでも──それに憧れることは罪になるのか?私は──この枷をつけたまま憎しみを背負って生きていかなければならない」


薮神和彦は不気味な笑い声をあげた。


「人は皆、愛を欲する。どんな形であれ、最終的にたどり着くのは愛なんだよ。物語りを愛し、人を愛し、芸術を愛する。愛の形なんて様々なんだよ。──しかし、きみは私を愛していない。──愛していないんだ」


その囁くような哀しげな声に麻梨乃の心は潰れそうだった。


「花火は綺麗だった─そうだろう?」


「うん」


「あの夜きみはずっと私の傍に居てくれると言ったね?」


「うん」


「私はきみを愛しているし、幸せにすると誓いをたてた。きみを毎日楽しませてやるし生活に不自由はさせない。私には自信があるんだ。誰よりもきみを愛する自信がね!それなのに何が不満なのだ?」


麻梨乃は答えなかった。


「初めて私の姿を見たお前の表情。一生忘れないよ。それ以降、見ようともしないね?何故か?─私はきみに酷い事をしたのか?──あぁ!私はきみが分からない!分からないから、私もどうすれば良いのか分からない!なぜ─なぜきみは私の元に戻る?恐怖や憎悪があるのならすっぱりと来なくなるはずだ。しかし、きみは──。きみがその扉を出る度に次は来てくれないかもしれないと不安に苛まれた。その恐怖と孤独に叩き潰されそうになった。─だけどきみは来てくれる。必ず扉を叩いて──天使の様な声で私の名前を呼んでくれる。私は何度も考えた。これは愛なのだと。彼女は私を愛してくれる唯一の人物なのだと。しかし、そんなわけがない!地獄から這い出てきたような、こんな私を愛してくれる女など存在しないのだから!きみは嘘つきだ。大嘘つきだ!私は嘘などつかれたことがない!全てをありのままにぶつけられた!きみが私に嘘をついたと言うのなら、それは本当に辛く酷いものだ」


薮神和彦は麻梨乃を見た。

月光を背負う薮神和彦の姿は逆光のため真っ黒だ。


「私はきみに私の事を知ろうとするなと言った。それでもきみは下らない好奇心に動かされた。私が怒るのは当然だろう。知られたくない秘密を知られたら誰でも困惑するし、腹が立つ。それとも、あんなに酷い過去を持っているのに隠していた私が悪いのか?酷いのはどちらだ?黙っていた私か─知ろうとしたお前か?」


「それは─」


「もう一人忘れていたなぁ!酷いのは、私かきみか、それとも扉の向こう側に居るお前か!」


麻梨乃は誰の事だろうと扉を見た。

すると、部屋の扉が開いた。


「私にはお見通しだ」


薮神和彦がそう呟くとその扉から誰か入ってきた。


「紹介するまでもないだろう?そこの扉越しでこの部屋の話を立ち聞きしていた悪趣味な人物。お前のかつての恋人の阿久津亮介くんだよ!懐かしいねぇ!挨拶したまえ!」


麻梨乃は息をのんだ。

なぜ、こんな所に亮介が?

この場所をどうやって知ったのだろう。

なぜ、あんなに苦しそうなんだ?


「招待もしていないというのによく来てくれたね。まぁ、この家に来客なんて珍しいからね、心から歓迎しよう」


「俺が来ることがよく分かったな」と今まで見たことのないような恐ろしい形相と威嚇するような声で亮介が言う。


何故か息が切れている。

額の汗が酷い。


「私はね阿久津くん、ここからきみを見ていたのだよ。きみがこそこそ私の家へと侵入している様子をここから堂々と見ていた。不法侵入だ。警察へ通報してやろうかとも考えたのだけどね、きみと話をしてみたかった。同じ人物を愛した者同士だからね!きみは泥棒のように静かにこの家へと侵入したが、どこが目的の部屋かが分からなかった。しかし、どこからともなくピアノの音色が聞こえてくる。この部屋は防音処置をしてあるから、扉や窓を閉め切れば音が漏れることはない。しかし、私はきみの侵入を歓迎しようと少しばかり扉を開けて示してやった。道を示してやったのさ。どうだ?親切だろう?私は憎らしい相手にも別け隔てなく接する心優しい男なのだ!」


薮神和彦は寒気がするような気味悪い笑い声をあげた。


「麻梨乃。帰るよ。皆が待ってる」


そう言って亮介が麻梨乃に近づいたが、薮神和彦がそれを許すわけがない。


「勝手な事をされては困るな」


麻梨乃と亮介の間に薮神和彦が立ちはだかる。


「きみと麻梨乃にはどんな繋がりがあるのかな?きみと彼女が別れた今となっては恋愛では繋がれていないはずだ。あまりにくどいと嫌われるぞ。さっさと次の恋人を探せば良い!津田茜なんてどうだ?子供同士のじゃれあいにしけこむがいい」


「その事を知っているとは思わなかったよ。どうせ違法な手段でも使って調べたんだろ?俺は麻梨乃に言った。きみしか好きになれないと。この意味分かるよな?」


「ふふふ。見上げた執着心だ。感心するよ。だがねぇ、勇ましく此処に来たが、残念ながらすぐに帰ってもらうことになる。きみが居れば麻梨乃が困惑してしまう。出口はあちらだ」


薮神和彦は亮介の背後を指した。


「どうした?」


亮介は薮神和彦のシルエットを睨み付けている。


「動けないのか?腰が抜けたか?きみもまた、震えているのか?どいつもこいつも震えている!こんなに軟弱な奴だとは思わなかったよ。失望だ。麻梨乃!きみはまさかこんな奴の元へ戻る気ではないだろうね?恐怖で震えているじゃないか!情けないぞ。じつに情けない」


「誰がいつ怖いと言った?俺は何も恐れちゃいない。ただ怖いと思うとすれば、お前から麻梨乃を救い出す事ができないと考えた時だ」


「まるで私が犯罪者のような口ぶりだな。失礼な事を言うねぇ。まぁいい。しかし、それは貴様の脆弱な神経故の恐怖心だろう?いずれにしても私を恐れているのだ。皆私を恐れている。家族でさえも。─私は地獄で闇を貪る神。それも相当酷く恐れられ、避けられている─薮の中で潜む悪神なのさ」


「薮の中の─神」


麻梨乃ははっとした。

苗字までも彼自身の考えたものであったのだ。


一隅の薮に祀られる激しく祟る神のことを『薮神』と云う。


幼い身体はそれを背負った。

彼は本当に苦しいのだ。

辛くて仕方がないのだ。

そうやって生きていくしかなかったのだ。

美しさを羨み、幸せを望む。

決して手に入ることのない現実は孤独な男を嘲笑うのだ。


「しかし、きみの勇気は高く買ってやる。一人で此処へ来るには相当な勇気と─体力が要っただろう」と嘲笑する。


「お前、麻梨乃に何をした?」


「何を─とは?」


「彼女があんなに衰弱しているのに気が付いていないとは言わせない。お前の影響で彼女がああなったのは明らかだ!何をした!」


今までに聞いた事のない怒りの声色だった。


「私は何もしていないよ。ただ彼女の芸術の琴線に触れただけだ。彼女の人生は輝きを得たのさ。感謝されこそすれ非難される覚えはない」


「それだけじゃないだろう。お前は何か酷い事をして麻梨乃を縛り付けているんじゃないのか!」


「きみの言う酷い事とは何か分からないがね、もし私が彼女に対してそのような事をしていたならば、彼女が自らの意志と足でここに来ると思うかい?先程もその話をしていたのだけれど、きみも知っての通り私は彼女に強制はしていない。麻梨乃は私に会いたくて来ているのだよ。そうだね、麻梨乃?」


二人の男は椅子に座って微かに震える少女を見た。


「はっきり言うんだ。この分からず屋の坊やに。分からせてやらないと可哀想だ。きみは何故、私に会いに来る?きみは私を恐れているのか?答えを聞かせてくれないか?」


部屋に静寂が訪れた。

開け放たれている窓にかかる薄いカーテンが大きく膨らんだ。


「私は─」麻梨乃が言う。


「私は─私の意思で此処にいる。酷いことは何もされてない。私は─自分がそうしたいし─和彦さんに─会いに来てる。私は─恐れてなんか─ない」


消えそうな声だ。

震えている。


「ほ、ほら。聞いただろう?─今のが彼女の気持ちだ」


そう言った薮神和彦の声も震えている。


この2人は何かがおかしいと亮介は確信した。


─何がおかしい?この違和感は何だ?


亮介は表情を和らげた。

それが彼女に伝わるかは分からない。


「麻梨乃。俺の目を見て言ってくれ。本当に自分の意思なのか?」


麻梨乃は──しっかりと頷いた。


「薮神さんと一緒に居る。だからもう、帰って─お願い」


「聞いただろう!帰ってくれだって!さぁ、帰れ!帰れ!」


薮神和彦の声は勝ち誇ったかのように堂々としていた。


「嘘だ、麻梨乃!それはきみの本心ではないだろう!この男に何か言われたのか?何か酷いことでもされたのか?」


亮介は薮神和彦を追い越して麻梨乃の肩を揺すった。

以前よりもずっと痩せてしまったその身体に心苦しくなる。


「正直に言ってくれ!麻梨乃!」


「彼女は最初から正直じゃないか。きみがそれを認めないだけだろう。見苦しいぞ。男たるもの紳士であるべきだ。悪足掻きは良くない。現実なんてものはいつも残酷で容赦がないものさ。それをきみのような年頃で知れるなんて滅多にないぞ」


「麻梨乃はお前に騙されている」


「私は彼女に嘘をついた事など一度もない。騙すなんて人聞きの悪い事を言わないでくれないかな。とても心外だ」


「お前は卑怯だ!彼女を恐怖で縛り付けているのだろう!それなら嘘をついた事にはならないからな!脅しだ!お前は麻梨乃を脅しているんだ!」


「恐怖?─本当の恐怖を体験した事もないというのに、よくもまぁ、そんな事を言うね。私が恐怖で彼女を縛り付ける?その恐怖とは何だ?」


「恐怖や嘘でないとすれば、なぜ彼女はこんなにも窶れている!日に日に弱っていく?」


「きみも経験者なら分かるだろうが、人には恋をすると食事も喉を通らない者もいるのだよ。私もそうなのだがね─どうやら彼女もそうみたいだ」


「お前と麻梨乃を一緒にするな!」


一瞬、恐ろしいほどの静寂が訪れた。

激しい言葉の流れがピタリと止まり、感情だけが膨らんで張りつめる。


「そう─。確かに一緒にしてはいけない」


そう言って地獄からの隙間風のような苦痛の溜め息をついた。

亮介は先程まで堂々としていた薮神和彦の声色とこの弱々しい声の違いに驚き、背筋が凍った。


「彼女の美しさは太陽の光を浴びて人一倍輝くが、私には月の光りさえ届かない。一生輝く事を知らない暗闇の魔物。薮の中の醜い悪神だ。一緒にしてはいけない」


麻梨乃は泣きそうだった。


違う!違う!

薮神和彦は悪神じゃない!

魔物じゃない!

自分からそんな事を言ってはいけない!

誰かがそれを教えてあげなければいけない!


「そんなことない!和彦さんは私に色んな事を教えてくれた。悪くない!何も悪くない!月の光りが当たっても輝かないのは、和彦さん自身が輝いてるから!その輝きで、この心を癒してくれる。だって、ほら、私ここに来て変わったもん。優しくなれたもん。だから悪神なんて─そんなこと言わないで」


薮神和彦はその場に崩れた。


「きみは何故そんなに優しいのだ─」


この2人の間に何が起こっているのだ。


「だから亮介、帰って。あんたにはもう─用はない。お願い──この人を傷つけないで。もう─苦しめないで」


その時、亮介は麻梨乃の頬に伝う涙を見逃さなかった。

あの、何かに怯えるような目も─。

だが確信がない。

ただの思い込みなのかもしれないという不安が込み上げてくる。


「─分かった。麻梨乃がそんなにこの人の事を愛しているなら、俺に2人の間を割って入る権利はない。麻梨乃が本当に愛しているなら─」


「愛してる」


麻梨乃は亮介の目を見て歯が浮くような台詞をはっきりと言った。

こんな言葉、普段は絶対に言わない。

もっと恥じらいながら大切にしながら囁くようにしか言わない。


─やはり、ちがう。


これは強い気持ちだと思ったが、それは薮神和彦に向けられた言葉ではないような気がした。

さっきの彼女の「愛してる」の言葉が作りものだという、何か確かな自信がほしい。

麻梨乃が何かに恐れているのは確かだ。

それが薮神和彦であることも間違いない。

ただ、根拠がない。


薮神和彦の何に恐れている?


「2人の仲を知らずにいた俺は惨めだ─」


亮介は麻梨乃に言ったが、ゆっくりと立ち上がった薮神和彦が口を開いた。


「実はね私の一目惚れなのだよ。あの衝撃は忘れられない」


その声は先ほどの暗さや怒りとは全く違い暖かく優しさに溢れていた。


「それから毎日彼女を見る度に、私の心は捕われていった。その時彼女はまだ中学2年生だった」


麻梨乃が東京に引っ越してきた時期だと亮介は思った。


「彼女はね、私がどんな姿をしてようと愛し続けると約束してくれた」


亮介も麻梨乃も黙って薮神和彦の言葉を聞いていた。


「彼女に出会うまでの私は自分の世界に没頭していた。孤独という地獄に落ちる覚悟を決めていたんだ。世界は自分の中にしか存在しないと思う事で、他人との接触に頼らず生きようとした。他人の力など借りずにね。しかし、他人の作った美しい物に取り付かれ、魅了された。そして、それに人生を捧げていこうと思った。それで充分幸せだった。満たされていた。それ以上の幸せなんて存在しないと──そう思っていた。まさか自分がそれ以外の幸せを求める日が来るとは思わなかったよ」


薮神和彦の声は生き生きとしている。


「美しい物に喜びを感じないなんてどうかしている。だから、君も私も彼女に惹かれたんだ。私は麻梨乃を愛した。彼女の事を知るほど距離が縮まる気がして嬉しかったが、それと同時に君という恋人の存在に酷くショックを受けた。その度、光と影の温度差を思い知った。彼女は太陽に向いて咲く向日葵。私は湿った影で欝陶しく思われる蔦。共存は不可能だ」


亮介には薮神和彦が何故そんなに美や光と影に執着しているのか分からなかった。


「しかし、奇跡が起きた!」


薮神和彦は嬉しそうに声を上げた。


「向日葵がこちらを向いた。太陽に背を向け、影で生きる哀れな蔦に手を差し出したんだ!信じられるか?私は初めて自分を疑ったよ。だが、嘘じゃなかったのだ。私の目の前にも光が差したのだ!それがこんなにも柔らかく暖かいだなんて──」


月が雲で隠れている。

とても不気味で少し恐ろしいのに何故か亮介は哀しい気持ちになっていた。

光りが届かなくなった薄暗い部屋には薮神和彦の低い声だけが響いている。


「──今夜、月の明かりを頼りに全ての事を済ませるには無理があるようだな」


薮神和彦は窓から夜空を見上げた。


「できれば電気は点けたくないんだけど、客人が来ているから仕方がない。いいよね─麻梨乃?」


麻梨乃は声を震わせて「うん」と言った。


亮介の耳にパチンと電気のスイッチを入れる音が聞こえてくると、明るく照らされた広い部屋の中に、俯いて椅子に座る麻梨乃と後ろ姿の薮神和彦が視界に入ってきた。

麻梨乃は顔を上げようとせず、床を見ていた。

薮神和彦は壁にかけられている絵を眺めている。


薮神和彦の背はすらりと高く、細身でどこにでも居るような男の背中だった。

彼の見つめている絵には微笑んでいる麻梨乃がいた。

亮介はひと目で薮神和彦が描いた絵だと理解した。


「目が難しかった─」


薮神和彦は愛しそうに呟いた。


「彼女の輝く瞳を表現するのに苦労した。幸せな悩みだったよ」


薮神和彦は絵の中で微笑む麻梨乃の頬に触れた。


「肌の質感も難しかった。何せ生身の人間を描くのは初めてだったからね。人間の肌がこんなにも繊細で美しいものだとは思わなかったよ」


薮神和彦は再び深く悲惨な溜め息をついた。


「人間はとても欲深い生き物だと思わないか?常に自分に無い物を欲する。そして、与えられたものを当たり前の権利だと思い込む。私だって欲深い。君たちと同じように幸せになろうと試行錯誤だってする。私が欲するものは光と愛。そして、人間らしさだ」


薮神和彦は床に視線を落としながら亮介と向き合うように姿勢を変えた。


「だがその願いは一生叶えられない」


薮神和彦は顔を上げて亮介を睨んだ。

亮介はそんな薮神和彦を見て息を飲み一歩後退した。

薮神和彦の視線が胸を刺すように感じたからではない。


答えは単純だ。


彼の顔にとてつもない恐怖を感じたからだ。


彼が光を嫌い闇を求め、美を愛し醜くさを恨む理由がここにあった。


「どうだ?驚いたか?」


ほとんど肉の付いていない顔はこけて青白かった。

唇は炎症したかのように腫れ上がり、瞼が垂れ下がった右目の瞳はほとんど見えてない。

右半分の顔は、皮膚が引っ張り合っていて骨の形が見るだけで分かる。

頭髪は半分失われていた。

彼の顔でまともなのは、筋の通った鼻と目尻が緩く下がった左目、そしてすっきりとした顎のラインだった。

それらの残りの部品が元の顔立ちの良さを表していた。


その顔は哀しみと憎しみを噛み締めていた。


「酷い顔だろう?実に醜い。吐き気がするね。これでも私は人間か?──麻梨乃を奪った奴を打ちのめしてやろうと勇んでこの家に来たのに後悔しているのでないのか?無理もない。帰ってもいいんだぞ?帰り道は分かるだろう?それとも足立に送らせようか?」


亮介はその場から動けなかった。


「君の元彼氏は男らしくなったようだ。それとも足がすくんで動けなくなったか?」


薮神和彦は気持ちの悪い笑い声を張り上げた。

こんなにも恐ろしい笑い方を聞いた事がなかった。


地獄の鬼が笑っている───


「私の家族は両親と兄と私の4人家族だった。実に優しい正直者の両親は兄をとても可愛いがり溺愛していて私なんて存在しないも同然の扱いだった。見知らぬ犯罪者に強姦されて産まれてきた私への扱いは酷いものだった。喋ってはいけない。食事の時間は別。外出禁止。家族の前には現れるな。様々な取り決めがあった。そんな両親の愛を受けて育つ兄も当然心優しかった。度々階段で私の背中を押してくれた。よろめいた私を助けようとしたみたいだが、その助けも虚しく私は毎回転げ落ちるんだけどね。まったく、この家族愛には涙が出るよ」


亮介は立ち尽くしたままだった。

言葉が出てこなかった。


「この顔はね─幼い頃はまだましだった。麻梨乃は知っての通り、ある夜、家族の究極の愛が私を包み込んだ。眠っていた私は異様な焦げ臭さで目を覚ました。驚いた事に炎が目の前で踊っているんだ。私は死ぬと確信した。この日々の苦しみから解放されるなら、このまま眠るようにこの世を去るのも悪くないと思い、無理に脱出しようとは思わなかった。部屋を焼きながら私の方へ迫ってくる炎の熱さに堪え、横になっていると意識が遠退いていくのが分かった。後で目を覚ますなんて思ってもみなかった。数日後、意識を取り戻した私は両親が助けてくれたのだと信じたが、そんな思いはすぐに弾き飛ばされた。助けてくれたのは住み込みで家族を世話してくれていた男─足立だった。その後、両親の行方を聞くと火事のあと兄を連れて海外に引っ越したと言うではないか。私は外に一歩も出る事が許されていないので、足立の看病でなんとか火傷の痛みを乗り越えた。跡も痛々しく残っている。これが、私の家族が私に残してくれた唯一の思い出なのさ。死んでやろうと何度も肌に刃物を当てた。この顔がいけないのだと自ら傷付けた。しかし、無理だった。生きたいのだよ、私は。少しでも幸せの味を知りたかったのだよ。そう─望むのは自由だろ?」


啜り泣く麻梨乃。

呆れ顔の薮神和彦。

困惑する亮介。


「どうだ?とても聞き応えのあるお話だっただろう?─並の人間には味わえない!私は悪魔と契約を結んだ記憶はないし、他人に悪さをしたり、犯罪を犯した事もない。周囲を怖がらせたり、困らせないように忍ぶようにひっそり存在している。ただ、それだけだ。それだけだったのに、何故こんなことになるのだ?こんな可笑しな人生、誰が望む?」


薮神和彦はまた笑った。


「私は世間から隠れて生きてきた。これからもそれは変わらない。お前達は日の光を当たり前のように浴びて、友と話をし、愛を感じる事ができる─。笑い、泣くことができる。それなのに、なぜ不平不満を言う?穢れなき姿に生まれたお前達の暮らしに足りない物は何もないはずだ!」


薮神和彦は恐ろしい形相で怒りを口にだした。

手に作った拳を震わせ、蒼白かった顔は紅潮している。


「お前達は私のような人間がいるから生きていられるんだ。私のように醜く穢れた怪物を見て悪だと決めつけて忌み蔑んで、自分達はあんな風に生まれなくて良かったと思う。不幸な人間はまだいるのだと安心する。自分はあいつよりも優位な立場に居るんだと光が当たる高みで高慢な態度をとり、鬱陶しいと影を詰る。影があるから光がより美しく輝いて見えるのだ──」


亮介は薮神和彦が両目に涙を溜めている事に気付いた。


「家に閉じこもっていた私にとって、外の世界は美しく輝きに満ち永遠の可能性を持っているものだった。太陽の光を吸収し健康的な美しさを誇る世界だ。しかし、毎日見かける麻梨乃は違った。下を向いて歩き幸せなど微塵も感じられない。私は疑問を感じた。外を堂々と歩けるのに、なぜそれに喜びを感じないのか?この世に産まれて当たり前のように愛されることに幸せを感じていないのか?私は麻梨乃にその事を知ってもらうためにメッセージを送った。そして、彼女は知る事ができた─。自分がどれだけ幸せだったかという事を。芸術を愛し、幸せに生きていると思っていた私に暗い影がある事実を。これは裏切りなんかではない。君がどれだけ幸せだったかと気が付いてほしかった。恐らく私を男前で気の優しい人物だと思っていたのだろう。写真を見せた時のきみの表情を見ればわかる」


「ごめんなさい─」


麻梨乃は小さく呟いた。


「そう。あの時も君はそう言った。私の身の上話を聞いて同情したのだろうね。だが私が求めているものはそんなちっぽけな感情ではない。私が求めたものは大きな愛だ。家族─世間からもらえなかった寛大で繊細な愛。麻梨乃は私にその愛を一生捧げると誓ってくれた。嬉しかった。泣き叫びたかった。生きてきて良かったと思えた初めての瞬間だった。──私の過去は私だけのもの。だから、私の苦しみは私だけのものだ。だが、彼女は──その苦しみを共に──私と共に生きるとそう約束をしてくれた」


その時、震える麻梨乃の左手の薬指に指輪が光るのを亮介は見逃さなかった。


「私達は結婚する。もちろん麻梨乃が大学を出るまで待つつもりだ。変な虫がつかないように今まで同様、常に見張っておかなければならない」


薮神和彦は先程よりも更に姿勢を伸ばした。


「今まで同様って─どういう事だ?」


亮介が聞き返すと部屋の空気が凍り付いた。


「つい、調子に乗って口を滑らせてしまった─。まぁこの口が、口と呼べるような代物なのかは疑問だがね」


麻梨乃も今まで伏せていた顔をあげて薮神和彦を見た。


「さっきの言葉の答えはこの部屋にある。この窓から外を見るがいい」


薮神和彦は近くの窓を指さすと、恭しくその場から少し離れた。

亮介と麻梨乃はゆっくり窓に近づき外の景色をみた。

その光景を見た麻梨乃は目を見開き息を飲んだ。


「あれ─私の家─。なんで?」


何が起きたか理解できず狼狽するしかなかった麻梨乃に亮介は静かに説明をした。


「ここは蔦の家だ。さっき君に会いに家まで行くと、以前君を乗せて消えて行った車がこの家に入るのが見えた。麻梨乃、きみはあいつに取り付かれているんだ」


「取り付かれてるなんて─」


そんな事はない。

だって風船だって偶然目の前に辿り着いた。

今の薮神和彦のように、力なくすがるようにして、目の前に辿り着いたのだ。

自分しか救える者はいない。

それに、待ち合わせ場所だって──


「あいつは毎日この部屋から君の事を見て、その全てを支配しようとしたんだ。きみに意思なんてないんだ!全てあいつの仕業だ」


「そんな─」と麻梨乃は目を泳がせる。

理解するのに精一杯なのだ。


「ようやく気が付いたようだね」


薮神和彦は2人の会話を邪魔するようにそう言うと、麻梨乃の手をひき再び椅子に座らせた。

冷たく硬い手は力強く、それでも優しかった。


「ここはきみ達が何度も侵入しようとして断念した家だ。こんな形で入るとは想像していなかっただろう」


そう言うと薮神和彦は小さく笑った。


「種明かしだ、麻梨乃。きみが風船に括り付けられた手紙を読んだ日。私はきみがそこの道を通るタイミングを見計らって萎む寸前の風船を投げ落とした。そして、私がこの家の住人だときみに悟られないよう、わざわざO駅のS公園で待ち合わせをし遠回りをしてこの家まで送らせる。帰りも同様だ。車内からは外の様子を見られないようにする。結果、距離感は狂う。まったく!姑息だよなぁ!」


薮神和彦は楽しそうに笑った。


「私はこの窓から麻梨乃を見守っていた」


「お前は麻梨乃を精神的に縛り付け、我が物にしようとしているだけだ!見守るだなんて、都合の良い言葉を使っているだけだ!」


「どうぞ好きに怒鳴ってくれ。どの道彼女は私の元から離れない」


「お前のやっていることは犯罪だ!」


「─犯罪?私がやっている事が犯罪なら、私の家族がやった事は何だ?あの火事なんて火の気がない所で起きた。完全な放火だ。近所の奴らだってそんな事は気が付いていたはずだ!そいつらだって共犯だ!いくら私が外出しなくても、この家に子供が2人居る事ぐらい知っているはずだ!なのに見て見ぬふりかよ!臭いものには蓋をすればいいのか?俺みたいな弱者には生きる権利はないのか?」


その興奮した物言いは、もはや以前の薮神和彦ではなくなっている。


「お前と麻梨乃は違うんだ。彼女はお前に何をした?お前を傷つけたか?そんな事はしていないはずだ。だから解放してやってくれ。恐怖で震えている彼女に哀れみを感じろ」


「哀れみ?哀れみを感じろだと?偉そうに言ってんじゃねえよ小僧が!─誰か私に哀れみを感じた奴はいるか?恐怖や悲しみで震える私に手を差し延べてくれた奴はいるのか?」


「確かにお前の生きてきた道は不幸だったかもしれない。だけどその人生に愛する人を巻き込んでどうする?お前はこれからも外を歩く事はないのだろう。彼女にもそんな思いをさせる気なのか?」


「はな垂れ坊主に、こんな話をしたのが間違いだ。お前なんかに何が分かる。この苦しみの何が分かる!辛かっただろう、苦しかっただろうと言うのは簡単だ!私はこの苦しみから逃れられない!その恐怖がわかるのか?」


「分からないさ!お前の苦しみも孤独も恐怖も!想像でしか感じる事ができない。でも、それはお前も同じじゃないか!麻梨乃を巻き込もうとしている!彼女の恐怖心が分かっていないじゃないか!」


「小僧のくせに偉そうな口をたたくな!外に出なくても知識は身につく。人の感情も例外ではない。彼女が誰を愛しているか、今何を思っているか、なぜ私の元へやって来るのか─。そして、きみがまだ麻梨乃を忘れることができないことぐらい、ここに来る前から分かっている」


そう言うと薮神和彦は麻梨乃の肩に手を乗せながら喋り続けた。


「いつかこの日が来るだろうと思っていた。きみは麻梨乃を取り返しに来たんだろう?なら、私の情に訴えかけていないで力ずくで取り返してみたらどうだ?私に人間らしさのかけらも無い事は充分に分かったはずだ。言葉なんて無駄だ。─どうだ?」


亮介は黙っていた。

今まで誰かと殴り合うなんてした事はない。

痛む身体では不利だ。


「ん?その身体では─無理かな?なら、帰るんだな」


薮神和彦は亮介を睨んだ。

これ以上このエリアに入ってくればどんな奴だろうと許さない。

そう目で威嚇している肉食獣のようだ。


薮神和彦は亮介の前に進みでた。


「身体が上手く動かないのではないのか?─小僧。後悔するぞ?」


「後悔するのはお前の方だ。それとも、もうしてたりして?」


2人は睨み合っていたが、薮神和彦がゆっくりと亮介に背を向けた。

子供のような仕草で服の裾を握り締めている。

彼は紅く潤んだ優しい瞳で麻梨乃を見た。


「──私を孤独から救い出せるのはきみだけなんだよ」


その声は掠れていた。

弱々しく痛々しい。

麻梨乃の瞳からは涙が溢れた。


「私は決して麻梨乃を傷つけない。もし少しでも彼女に痛みが走れば、私は自分に罰を与える。この醜い顔が彼女に恐怖をもたらすなら─」


薮神和彦が大きく深呼吸をすると、部屋には何とも言えない緊張感が張り詰めた。


「恐怖を─もたらすなら、違う恐怖を見せつけ、私の顔が恐怖ではないと思い出させる!」


薮神和彦はそう言うと、亮介の右腕をわしづかみにして背後に回り、自分の左腕を彼の首に巻き付けた。


亮介は苦しそうな声を出しながら、首に巻き付いた薮神和彦の腕を解こうとしてもがいている。

麻梨乃は恐怖のあまり声を出せず、ただ泣きながら立ち尽くしていた。


「お前─恐怖を見せつけるって俺を─麻梨乃の目の前で─」


薮神和彦は笑う。

感情のない壊れた笑いだ。


「そう言う事だ。お前が余計な事を言う度、私の腕はお前の首に蛇の如く絡み付く!」


「後ろに回るなんて卑怯だ!」


薮神和彦が亮介の右腕をさらに背中に回して捻りあげ痛みを倍増させると、亮介は痛みに堪えきれず苦しそうに声をあげた。


「余計な事を言えばこうなる。次は首だ。これで分かっただろう?私は本気だ」


「亮介を放して!それ以上苦しめないで!やめて─お願い─」


麻梨乃が泣きながら懇願した。


「─どうだ?健気な彼女に同情されるのは?」


「彼女は同情してるんじゃない。俺の事を愛しているんだ。同情されているのはお前の方だ!彼女はお前の事が可哀相だから一緒にいただけの事だ!彼女の心にはお前に対する恋愛感情は全くないんだよ!」


「好きなように騒ぐがいい。結果は目に見えている。さぁ!麻梨乃!新居はもう用意ができている。君が高校を卒業するまでこの地を離れないつもりにしていたけど、邪魔者が入ったので今すぐにでもそちらに移ろう。学校へはそこから通えばいい。海の見える家だ。潮風に耐えられる強い家だぞ?部屋は沢山ある。数え切れないほど!部屋には絵を飾ろう!あんなに綺麗な場所なら何枚でも描く事ができる!ピアノだって周りを気にせずきみに聴かせてやれる!もう、他人なんて気にしなくてもいいのだ!素晴らしい!暖炉もある。冬は寒くなるだろうから薪を燃やすんだ!天気の良い日なんかは庭で食事なんてのもお洒落だと思わないか?昼からワインやシャンパンなんてのも悪くはない!君の場合アルコールは成人になってからだぞ?なんだかワクワクするなぁ!そうだろう?これからは二人きりの時間が増える!これから互いを深く知り合うのも楽しみだな!」


薮神和彦は楽しそうに話したが、涙を流す麻梨乃の視線は亮介に向いていた。


「私は飽き飽きしているんだ。こんな暮らし!物陰に隠れてひっそりと生きる事に何の望みがある?日向に揺れる花を見て焦がれるだけの暮らしに意味があるか?もうこりごりだ!こんな生き方!私はきみをつれて行くよ」


哀れな薮神和彦の瞼はその白い肌に咲いた薔薇のように紅かった。


「私を──救いだしてくれるのはきみだけだから。きみの言葉で私は救われるんだ」


哀しい、苦しい。


「─私の望んだ答えを出さなければ、私の左腕はこの首にきつく絡み付く」


薮神和彦はそう言うと静かに左腕に力を入れた。

それに合わせて亮介は苦しそうな声をだした。


「何も迷う事はないはずだ。もう心は決まっているのだから。私はきみの気持ちはお見通しだよ。正直に言えば良い。嘘は──駄目だ」


麻梨乃は亮介から視線を外すと薮神和彦を見た。

しっかりと、目をそらさずに。


唇を震わせた彼女の目は潤んでおり、頬には涙の跡が光っている。


「ずっと傍に」


麻梨乃は小さな声でそう言った。


「え?」


「ずっと傍にいる。眩しすぎる太陽の光からあなたを守りたい。あなたの苦しみと哀しみを一緒に背負います」


麻梨乃は目から溢れる涙を拭くとぎこちなく微笑んだ。


その笑顔に薮神和彦の声が鋭くなり、彼女の表情は一瞬にして凍り付いた。


「─気に入らない」


薮神和彦がそう言ったので、亮介に今以上の危険が迫ると思った。


「気に入らない」


薮神和彦はもう一度そう言った。

冷たく感情がない。


「何が?私はあなたと結婚して一緒に暮らすって─」


「それが気に入らないって言ってるんだ!私は正直に言えと言ったんだ!私はねぇ!お前の事は全てお見通しなんだと言っただろう!今お前は嘘をついた!」


薮神和彦は大声を張り上げると亮介を乱暴に突き飛ばした。

解放されてその場に倒れ込み苦しそうに咳込む亮介に駆け寄った麻梨乃は彼の背中を撫でた。

その様子を横目で見た薮神和彦は力無く歩くと、麻梨乃が座っていた椅子の背に触れた。


「私はきみに様々な事を教えた。きみも嬉しそうにしていたのに─なぜだ?なぜ、こんなに残酷な仕打ちができる?期待をもたせやがって─。これが─これが悪神として生まれ落ちてしまった私への酬いか?穢らわしい生、醜い顔、悲惨な過去を理解してもらえると少しでも感じたのが罪ならば─これ以上の罰はない。絵や音楽、愛─そして私の人生を─きみに捧げたのに─。きみは私の全てを打ち砕いた─」


薮神和彦の目からはボロボロと涙が流れた。

そして「あまりにも残酷だ─」と声を漏らした。


先程までの憤怒の形相は消え去り、疲れはて傷付いた普通の男の表情に戻っていた。

彼の人生は悲惨で残酷で誰にも理解してもらえない苦しみに溢れていたのだ。

その人生が彼の表情を醜く変えていた。

麻梨乃と過ごした期間だけ、彼は穏やかな気持ちになれたのだ。


亮介は麻梨乃の手を借りよろめきながら立ち上がった。


「2人とも今すぐ私の前から消えろ。この家から出て二度と顔を見せるな」


「和彦さん」


「何も言うな。今すぐ、出ていけ!振り返るな!そのまま扉を開けて出ていけ!」


薮神和彦を見つめる麻梨乃の心中は分からない。

ただ、その空間は2人だけにしか分からない特別な空気が漂っていた。

それは亮介には触れられない、いや、触れてはいけないものだった。


麻梨乃は亮介に手を引かれながらふらりふらりと歩いた。

そして扉の前で立ち止まる。


「麻梨乃、行かないと」


行かなければならない。

進まなければならないのだ。

麻梨乃には麻梨乃の人生がある。

これから先は自分の足で進むのだ。


亮介は扉の前で立ち止まった麻梨乃の背中を優しく押してドアを開けた。


麻梨乃は部屋から一歩踏み出すと、そのまま静かに、2歩3歩と足を出した。

後ろでドアが閉まる音が聞こえると振り返った。


「さぁ、帰ろう」


亮介はそう言ったが、麻梨乃はその場から動けないでいた。

亮介に背中を押されても足が言うことをきかなかった。


「麻梨乃─もう、大丈夫だよ」


亮介を見る。

心配そうな瞳が潤んでいる。

彼も薮神和彦の心を覗いたのだ。

寂しく哀しい暗い闇を。


「─亮介。──ちょっと待ってて」


亮介は麻梨乃の腕を掴んだ。


「駄目だよ。麻梨乃。戻っちゃいけない。今度こそ何をされるか分からない」


「大丈夫。─大丈夫。すぐに戻るから」と麻梨乃はその腕を優しく撫で、自分の腕から引き離した。


「ありがとう」と微笑んだ麻梨乃は以前の優しさを取り戻しているようにみえた。

柔らかく暖かい微笑みを湛えながら部屋へ戻る麻梨乃。

亮介は閉じられた扉を睨みながら何が起きても直ぐに飛び込めるように身構えた。






部屋の中は暗さを取り戻していた。

月の光りが届き、人工的な光りは一切ない神秘的で美しい蒼白い部屋。

その中央の椅子に薮神和彦は座っていた。


1枚の絵のように美しい場景。


「きれい」


思わず声が漏れた。


「戻るなと言ったはずだ─。きみは私の願いを聞き入れてはくれないのだね。どうも困ったお嬢さんだ」


麻梨乃は静かに薮神和彦へと近付いた。


「それ以上近付くな」


そう言われたので立ち止まる。

その声は厳しく威圧的だったが、優しくもあり暖かみもあった。

以前の薮神和彦に戻った気がした。


「誰かを心の底から大切に思ったのは始めてだったよ。私の人生に現れてくれてありがとう。とても幸せだったよ」


薮神和彦はこちらを見ない。

ただ、月を見ているだけ。

月は良い。

眩しくないし、直視できる。

暗闇を優しく照らしてくれる。


「さぁ、もう行かなければいけない。きみの恋人が心配するぞ」


「─さようなら」


麻梨乃は薮神和彦に背を向けると部屋を出た。

それを確認した薮神和彦は頬に涙を伝わせ小さく息を吐いた。


「─ようやく終わった。─とても美しい夢だった」





部屋から出てきた麻梨乃の崩れそうな身体を亮介は思い切り抱きしめた。

痩せ細った頼りない身体。

麻梨乃の目は涙で溢れている。


「さぁ。帰ろう」


麻梨乃は亮介の言葉にただ頷き、手を引かれて歩いた。


1階に到着し、来た道を引き返していると急に目の前に老人が現れた。


「足立さん」


それは麻梨乃を車に乗せて消えていった老人だったが、よく見ればさほど歳はとっていないようだった。

薮神和彦の話に出てきた人物だ。


「─お帰りになられるので?」


彼はそう尋ねてきた。

穏やかな表情だ。


「はい」


「今日はそこの玄関から帰るといいでしょう」


2人は彼の指差す方を見た。

そこにはこの家に相応しいくらいの大きさの玄関フロアがあった。

彼は2人の間を割り、玄関へと進み出ると扉を開けた。


「これでお別れですね」


「─はい。いろいろとありがとうございました」


「薮神和彦は中身はまだまだ子供でございます。故に不器用な方法でしか人と接する事ができない。もし薮神があなた方に不愉快な思いをさせてしまったならば、私が代わって謝ります。申し訳ありませんでした」


そう言うと足立正司は頭を深く下げた。


「あと指輪を─その指輪を薮神和彦に返してやってください」


麻梨乃は自分の左手の薬指にはめられている指輪を見た。

綺麗な青い石が付いているシルバーのリングは彼女の指には大きすぎて似つかわしくない。


「お願いします。返してやってください」


麻梨乃は薬指から指輪を外すと何も言わず足立正司に差し出した。


「勝手を言って申し訳ありません」


「─あの。足立さん」


気になっていたことを聞いてみる事にした。


「何でございますか?阿久津様」


「あなたはなぜ、薮神和彦の下に留まるのですか?幼い子供の頃なら分かります。なぜ、今も。あなたは麻梨乃が苦しんでいるのを知っていたのでしょう?なぜ、あの人を止めなかったのです?」


足立正司は小さく微笑んだ。

その瞳には過去が映されているのだろうか。


「私はこの家に来た時、ただらなぬ空気を読み取りました。そして、奥様に起こった許される事のない悲劇、それによって産まれた罪のない命の事を知らされました。救われる事のない魂、清められる事のできない苦痛です。幼い子供が負うには辛すぎる現実だ。無口で無表情、感情を出さないし不気味な子供でした。しかし、彼は優しい人だ。和彦様は覚えていらっしゃらないかと思いますが、私ははっきりと覚えています」


足立正司は昔を懐かしむような優しい笑みを浮かべた。


「和彦様は私に何度も「辛いなら出て行ってもいい。僕のせいでお前まで辛い思いをしているなら出て行ってくれ」と強く仰いました。私は絶対に頚を縦には振らなかった。─和彦様が鏡を割った事はご存知で?─その時、和彦様の兄上が私達を小馬鹿にするように鼻で笑ったのです。和彦様は私に気を使って「ごめんね」と言ってくださいました。私の事を哀れに思ってくださったのです。自分のせいでお前まで何十も年下の子供に笑われてしまうだなんて、とそう思われたのです。火災に巻き込まれた時もそうでした。もう自分の世話は必要ないから自由に生きろ、自分の事は忘れてくれと。私からすれば当時の和彦様はまだまだ世話の必要なお子様です。─その時、私は誓いました。貴方の下で生きていくと。少しでも幸せだと思えるような人生を送ってもらいたいと思ったのです。吉名様。貴女が初めてこの家に来られた時の薮神和彦を見せてあげたい。彼は「恋」というものを知らなかった。和彦様が必死に伝えてくる感情に私は嬉しさが抑えられなかった。私はあの方に「それは恋で御座います」と伝えました。「あなたは吉名麻梨乃という女性を一目見て彼女に心を奪われた。あなたは彼女に一目惚れをしたのです」と言うと、和彦様は嬉しそうに「そうか、そうか」と頷いていらっしゃいました。私はそれが嬉しくて仕方がなかった。きっと彼はとても幸せなんだと思いました。だからその幸せを維持させたかった。私はあの方のためだけに、生きていくと誓ったのです。この恋は長続きはしないと分かっておりました。勿論、あの方自身も」


足立正司は少し声を震わせた。


「私は──あの方に少しでも幸せだと感じてもらえれば嬉しいと思っておりました。確実に地獄へと向かう事を知っておきながら、それを幸せだと呼べるのかと自分の行いを問いただす時もありました。苦しみを倍増させるだけではないのかと。しかし、和彦様の幸せを止める権利は私にはない。私の頭には他の事は一切なかった。和彦様の幸せの為に吉名様─あなたの親切心を──分けて頂きました。貴女が和彦様から抜け出せなくなってもいい─一時はそう思いました。しかし、和彦様は分かっていました。自分の戻るべき場所を。この恋を終わらせないといけないと。だから、貴女が和彦様の過去を知りながらもその想いを受け入れた時、あの方は驚いておりました。疑い、驚き、不安になった。可笑しい話ですが素直に受け入れる事ができなかったのです。あの方は─勝手に貴方に惚れ、我が物にしようとし、いざその通りになると手放した。和彦様はとても優しい。貴女の心を知っていた。阿久津様にしか向いていないという事をしっかりと理解されていたのです。自分なんかに向くはずがないと分かっていらっしゃいました。それでも─少しは幸せだったと─仰いました。吉名様、あなたにはとても辛く哀しい思いをさせてしまった。恨むべきは止めようとしなかった私です」


足立正司は深く、そして震えながら頭を下げた。

麻梨乃はただ静かに泣いていた。


「あなたは、何故この家に?」


「元は旦那様の秘書をやっておりました。私の父親もそうでした。父は旦那様のお父様の元で。お互い世代交代をしながら私共の関係は成っておりました。─口が固くて裏切ることのない信頼できる人物。聞こえは良いですが、私は利用されただけなのです。和彦様が仰った事があります。「お前は哀れだ。両親に利用されている。この家に閉じ込められ、出ることが叶わない。私という呪いから出られない。哀れで可哀想なやつだ」と。私たちはひっそりと暮らしました。顔を合わせても話などしない日もありました。だから、吉名様の登場によってあの方の喜びが私に素直に届けられたのです」


足立正司は大きく息を吐いた。


「私は、あなた方の中にある薮神和彦の思い出を悪いものにはしたくはない。長々と失礼しました。──門の鍵は開けておりますので─。お見送りできなくて申し訳ありません」


足立正司は再び頭を深々と下げた。





麻梨乃と亮介は玄関を出ると門扉までゆっくり歩いた。

亮介がノブを回して手前に引いた。

鈍い悲しい嘆きの様な金属音が夜空に響いた。

2人は僅かな隙間から外に出ると門をそっと閉めた。



麻梨乃の家はすぐそこだ。

2人でのんびりと会話をしながら帰るような距離ではない。


「じゃ、ここでお別れだね」


亮介はそう言うと麻梨乃を見た。

彼女はもう泣いていない。


「亮介」


「何?」


「わがまま言っていい?」


「いいよ。何?」


「もう少しだけ一緒に居てほしい」


「─俺もそう思ってた」


「ありがとう」


2人は話しはせずそのまま歩き続けた。

すると公園に到着した。

入口で立ち止まった麻梨乃の手を握るとベンチまで連れて行った。

亮介がベンチに腰をかけると麻梨乃も同じように座る。


「さっきから身体が辛そう─怪我でもしてる?」


小さく消えそうな声でそう聞いた。

亮介はそんな麻梨乃とは逆に明るく返事をした。


「川縁を転げ落ちたんだ!」


「大丈夫?」


「あぁ!この通り元気だよ!あっ!もうこんな時間か十時だよ。声のボリューム落とさないと─」


そう言うと亮介は携帯電話の電源をつけて無邪気に笑って見せた。

屋敷に侵入した時にいきなり鳴って気が付かれてはいけないと電源を切っていたのだ。


「ごめん。心配かけて─本当にごめんなさい」


「皆もすごく心配してたよ?だから今度、皆に挨拶しないとね」


「うん」


亮介は一安心した表情を見せた。


「今日限りで、今日起きた事を話すのは終わりにしよう。俺も何も聞かない。今日以外は─。だから答えてほしい。麻梨乃は薮神の事どう思ってるの?やっぱり──好きなの?」


長く短い間があった。

薮神和彦の柔らかい声、美しいピアノの音色、幻想的な部屋。


「初めて会った時からそう云う感情はあった。優しくて、何でも知ってて、芸術的で─。何も知らない自分には全てが魅力的だった。だから好きって感情は大きく膨らんでいった。それは止められなかった」


その言葉を聞いた亮介は悲しそうな表情をしていたが精一杯隠していた。


「最初のうちはそう思ってたけど、だんだん支配欲が強くなってきて、自由がなくなってきて怖くなった。突き放されたと思ったら優しくして、私が恐怖を感じると─必死に謝る。花火大会の日、そんなあの人から抜け出せる気がしたけど、結局無理やった。あの人の正体を知ってしまった時からもう、後戻りは不可能になってた。酷く哀しい人生が─あの人と同じように呪いになってた。皆が心配してくれているのは胸が痛むほど分かってた。でも、彼にはそんな人物がいない。ずっと独りぼっち。暗くて深い闇で──。胸が張り裂けそうやった。私がどうにかしてあげられるのならって何度も思った。でも、やっぱり─皆が恋しかった。だから、皆を見ないようにした。その代わりに、あの携帯のクマのストラップ──あれを握りしめた」


薮神和彦と同じだった。

華やかで美しい世界から背を向け、暗闇を目指す。

光があるから闇がある。

光を知らなければ羨む事もない。

思い出は過去のもの。

単なる記憶だ。

そんなものいつかは歪んで消えてしまう。

いつしかそう思いこむようになっていた。


美里と千佳が花火大会へと誘ってくれなければ、あのまま闇へと飲まれていただろう。


「ごめんなさい」


「いいんだ。済んだ事だしね」


そう言いながらも、亮介は寂しそうに笑い続けた。


「亮介は薮神さんの事どう思ってる?─怒ってる?」


「当たり前だよ!そりゃ哀れむべき酷い過去の持ち主だよ。でもそれは誰かを傷つける理由にはならないよ。悲しい過去を持っている人でも、明るく生きている人もいるんだ。それとこれとは別だ」


「そうやんな。なぁ?さっきの指輪、覚えてる?」


「薮神が麻梨乃に贈ったってやつ?」


麻梨乃は頷く。


「俺より先に指輪を贈るなんて!何て奴だ!」と冗談混じりに怒ってみせると麻梨乃は可笑しそうに小さく笑った。

それを見てようやく安心する。


「そう。あの指輪、お母さんの思い出らしいよ。家族が家を出て行った後に両親の寝室で見つけて大事に仕舞いこんでた。普通はさ、あんなに酷い事されてたら相手の事なんて思い出したくないよ。だから、そんな人を思い出すような物があれば捨てるか二度と目に見えないような場所に隠す。でも、あの人は大事にとってた。その話を聞いて、あの人は誰よりも人間らしい感情を持ってるなって感じた。特に[愛]に関しては他の誰よりも純粋で繊細で敏感。薮神さんは、誰からも愛されてへんって心が痛む程分かってたけど家族への愛はあったと思う。家族を恨んでるって口ぶりやったけど、ほんまは心から愛したんやと思う。それは今もそうやと思う。いつまでも一方通行の愛。私はあの人を憎んだり嫌いにはなれへん。あの人はまた、孤独で寒い暗い闇に戻る」


亮介は麻梨乃の手の上に自分の手をそっと重ねた。


その時、亮介の携帯が鳴った。


「あ。健太だ」


そう言うと携帯のディスプレイを見つめたままで、応答する気配がなかった。


「出ないの?」


「え?あぁ、急用ならまたかかってくるよ」


麻梨乃は携帯電話を奪い取ると通話ボタンを押して亮介に返した。

亮介は「何すんだよ」と言いたげな表情を見せながら受話器を耳にあてた。


「もしもし?」


『亮介!お前!やっと出た!どこ行ってたんだよ?ずっと電話してたのに繋がらなかったんだぞ?』


「電源はいれてたよ。きっと電波が届かなかったんだよ」と嘯く。


『何呑気な事言ってんだよ!心配かけやがって!お前の親も心配してたぞ』


「言ったのか?」


『当たり前だろ?まぁ「あいつの事だからすぐに戻るだろう」って言ってたけど、すげぇ心配してたよ。今どこだよ?』


「ちょっと待ってて」


『待つって何を?』


亮介は麻梨乃に了解を得て健太に居場所を教えると電話を切った。


「すぐ近くだから来るって」との言葉の通り自転車に乗った健太と琢磨の後ろから美里と千佳が追ってきた。


「麻梨乃!」


美里は自転車を放り出すように降りると麻梨乃に抱きついた。


「麻梨乃!今まで何してたの?連絡しても返事ないし!心配したんだよ!こんなに痩せて!もぅ─」


美里は涙を流しながらそう言った。


「ごめんなさい」


麻梨乃はそう言うと立ち上がって深く頭を下げた。


「本当にごめんなさい。心配かけて、ごめんなさい」


麻梨乃の様子を見て健太が口を開いた。


「いいじゃん!吉名さんが無事ならそれで!俺はそれで充分だよ。ついでに亮介も無事なら!なぁ?」


「おい!俺がついでってどういう意味だよ!」


「ってのは冗談で、2人共無事で本当に良かった。皆もそう思ってる。もう2人して心配かけんなよ?」


2人は声を揃えてもう一度謝った。


「じゃ、亮介。お前は病院に戻るんだ。俺の後ろに乗ってけ!」


健太のその言葉に麻梨乃は驚いた。


「まだ退院してへんかったん?何で言わへんのよ!」


「まぁまぁいいじゃん!もうすぐ退院だし!」


「でもさっき、あんな」


「大丈夫だよ!じゃ俺戻るよ!麻梨乃をよろしくね!」


亮介は美里と千佳にそう言うと健太の自転車の後ろに乗り、手を振りながら琢磨と3人で公園から出て行ってしまった。


「じゃ、私達も帰ろうか?」


千佳がそう言うと、美里は麻梨乃の隣に座りながら口を開いた。


「ちょっとだけ話しようよ?3人でこうやって話するなんて久しぶりじゃない?」


「そういえばそうだね」


千佳が自転車を降り、麻梨乃の隣に座ったのを確認して美里が話しだした。


「月が綺麗だね。ねぇ麻梨乃?阿久津くんとよりを戻したの?」


「戻してない」


「戻す気はないの?」


麻梨乃は黙っていた。


「この話ね──阿久津くんには絶対にするなって言われてたんだけど、最近の阿久津くんが可哀相で─。麻梨乃には知ってほしいなぁって思ったから言うね」


麻梨乃は美里を見た。


「1年の時、私が麻梨乃に話しかけたの覚えてる?」


麻梨乃は頷いた。


「あれね、実は阿久津くんに頼まれたの。麻梨乃はいつも1人で寂しいだろうから仲良くなってあげてほしい。断られてもめげないでほしい。彼女にとっては余計なお世話かもしれないけど。男の俺じゃ限界がある。麻梨乃はとても優しくて面白くていい子なんだよって恥ずかしそうにそう言ってた。あの時、2人はまだ付き合ってなかったんだよ?それなのに阿久津くんはいつも麻梨乃の事を気にかけてた。麻梨乃はすごく阿久津くんに愛されてるんだよ?それは今も変わらないよ」


麻梨乃は黙っていた。


「麻梨乃が私達の友達になってくれた時は正直びっくりした。断られると思ってたから。阿久津くんもびっくりしてたけど、とても嬉しそうだった。本当に嬉しそうにしてたんだよ?」


麻梨乃は涙を流しながら自分の口を押さえるときつく目を閉じた。


「なんで私なんかのために─」


そう言うと、腰を丸めて両膝に顔を埋めた。

千佳が優しく背中を撫でてくれる。


「じゃ、帰ろうか?家まで送るよ」


美里はそう言うと立ち上がり、麻梨乃の肩をあげた。


「帰りたくない─」


麻梨乃は泣きながら美里と千佳にそう言った。

美里は少し考えて口を開いた。


「じゃ2人共、私の家に来る?時間も遅いから騒げないけど、麻梨乃の気持ちが落ち着くなら側にいるよ」


美里は麻梨乃の手をとると立ち上がらせた。

美里の自転車の後ろに座り、風を感じていると亮介の背中を思い出した。


何も考えられなかった。


美里の家まではそれほど時間はかからない。

寝静まった家を忍び足で美里の部屋へと駆け込むと、三人は声を出さず笑いあった。


「布団はもう用意できないから、これで我慢してね」


そう言うと美里は畳の上に大きいタオルケットを置いた。


「夏だし丁度いいでしょ!今日は私も畳で寝ようっと!」


暗くなった部屋で、3人は川の字に横になった。

少しの間、懐かしい話で盛り上がっていた。


なんだ。

凄く楽しい思い出ばかりじゃないか。

それらがもうずっと昔に起こった出来事のように遠く儚い記憶に思えた。

もう戻る事のできない美しい世界。

幸せな時間。


「じゃ、おやすみ」


話はつきそうになかったが、美里がそう言うと3人は眠りについた。





翌朝、自然と目が覚めた。

時計を見てみると、もうすぐ六時になろうとしている。

両端に眠る美里と千佳の顔を確認し、お腹の辺りにかけられたタオルケットをたたんだ。


麻梨乃は2人を起こさないように物音を立てず慎重に部屋から出ると玄関へ向かった。

靴を履いていると後ろから声をかけられたので驚いて振り向くとそこには美里が立っていた。


「私の自転車使っていいよ。病院は分かる?」


美里は小さい声でそう言いながら自転車の鍵を麻梨乃に渡した。


「ありがとう。U総合病院でいいの?」


「そう。気をつけてね」


「ひとつ聞いていいかな?」


「どうしたの?」


「亮介の怪我って私が原因?」


「阿久津くんはそんな事、ひと言も言ってなかったよ」


「─そう。自転車ありがとう。行ってくる」


「うん。行ってらっしゃい」


麻梨乃は美里に見送られながら自転車を走らせた。

まだ汚れていない早朝の綺麗な空気が顔にあたって気持ちがいい。

散歩中のおじいさんに朝の挨拶をされたので返事をした。

街は今正に目覚めたばかりだった。

いつもの道がなんだか違ったように目に飛び込んでくる。


病院へ到着すると自転車を押して入口まで進んだ。


「やっぱり。面会時間にはまだ時間が─」


麻梨乃が肩を落としていると携帯が鳴った。


亮介からだ。


麻梨乃はすぐに自転車を停車させると電話にでた。


「もしもし」


『おはよう麻梨乃』


「おはよう」


『朝早くにごめんね。昨日はよく眠れた?』


「うん、まあ。昨日は美里の家に千佳と泊まらせてもらった」


『そうなんだ。じゃぁ遅くまで話してたんじゃないの?』


「ちょっとだけ話してた。亮介は?よく眠れた?」


『実は俺も2人と話し込んでたんだ。今さっき起きたところ。睡眠時間はざっと二時間ってとこかな』


「あのあと病院に戻ったんじゃないの?」


『そうだけど、なんだか面倒臭くなっちゃって』


そういいながら亮介は笑った。


『で、今起きて麻梨乃は何してるかな?って思って電話した。麻梨乃は?俺の事考えてたりした?』


「え?」


『まさか!そんな事ないか!野暮な事を聞いたね』


「考えてた。昨日の夜、ずっと亮介の事ばっかり考えてた。明日の朝に亮介に会えたら───」


麻梨乃は言葉を詰まらせた。


『俺に─会えたら?』


亮介は言葉の続きを要求する。


「明日の朝、亮介に会えたら─。でも会えへん。結果は今こうして電話してるだけ」


『会えるよ!会おうよ!』


「あかん。それやったら意味がない。作り上げたって──」


『じゃ俺、電話したのまずかったかな?よし!じゃ最初からやり直そう!俺は電話をかけない!麻梨乃は病院に到着したばかり!いいね?』


そう言うと亮介は電話を切った。


「病院って─。なんで私が病院に居ること知ってるん」


麻梨乃は不思議に思った。


「麻梨乃!」


自分を呼ぶ声のする方を見ると、そこには亮介が立っていた。


「亮介!なんでここに居るん?他の誰かの家じゃなかったん?」


「びっくりした?俺は2人と話をしてたって言っただけだよ。2人の家には行ってない。そこのベンチで喋ってたんだ。すると3人共いつの間にか眠ってた」


亮介はすぐ近くのベンチを指差すと悪戯に微笑んだ。

こんなに近くに居たなんて想像もしていなかったので何から話そうか迷ってしまった。

話すことは決めていたのに飛んでしまったのだ。


「これだと大丈夫?作り上げてないよ」


こんな偶然ない。

本当は面会時間が始まってから直ぐに会いに行こうと思っていた。

朝一番で。

しかし、これは─


「大丈夫」


「じゃ聞かせてほしいな。直接。さっきの続きを。明日の朝に俺に会えたら──何て言おうとしたの?」


「会えたら─。そう─亮介に会えたら──」


亮介は麻梨乃を見守るような眼差しで優しく待ってくれた。


「また私の事好きになってくれる?」


麻梨乃の声は消えそうだがはっきりと亮介の耳に届いた。


「そう聞きたかったけど、亮介にはもう良い人が居てるんやった。ごめん。今のことは忘れて」


「良い人?─誰?」


亮介は心当たりがないので戸惑った。


「薮神さんが言ってた、津田茜って─」


「まさか!俺はそんな子は知らない。健太に聞かされてびっくりしたよ。俺とその子には何にも接点はないよ。それに麻梨乃に告白した時に俺は言ったはずだよ?出会った時から大好きで、これからもずっと大好きだって。麻梨乃はこれからもずっと大好きってのはありえないと言ってたけど、どう?俺の言葉を信じてくれた?」


麻梨乃は歯を食いしばり涙を堪えていた。


亮介は麻梨乃の肩を引き寄せ優しく抱きしめた。


「麻梨乃。ずっと一緒に居よう」


亮介は麻梨乃を離してやると互いに見つめあった。


麻梨乃の唇に自分の唇をそっと合わせた。


どのくらいの時間キスをしていたのか分からない。

再び見つめ合った2人は照れ臭そうに笑った。


「俺たち付き合って長いけど、今のが初めてのキスなんて誰も信じないだろうな」


2人は可笑しそうに笑うと、再び軽いキスを交わした。


「大好きだよ。麻梨乃」


「私も大好き。これからもずっと」


「なんだか、懐かしいな。──ほら、俺たちが付き合い始めた日。麻梨乃は一時間の遅刻してさ、俺をからかおうとして電話してきたでしょ?今日のは逆だけどさ──新しく始めよう」


「ありがとう」


そう言って麻梨乃は亮介の胸に顔を埋めた。




そんな2人を木の影から2人の男子が見ていた。


「あ!また蝦に刺された!」


「痛っ!健太!また俺の足踏んだ!」


「ごめんごめん!痒くて痒くて─てかいい加減帰ろうぜ?いつまであのいちゃついてるのを見る気だよ?」


「俺もそろそろ千佳ちゃんに告白をしようかなぁ」


「お前まさか、まだ付き合ってなかったのか?てっきりあいつがお前に告白したと思ってたぜ」


「千佳ちゃんが俺なんかに告白するわけないよ」


「あいつお前の事好きだぜ?あのボウリングの日、あれはお前達を仲良くさせるために俺達が仕組んだんだ。──まさか─気が付いてなかったのか?」


健太は琢磨の顔が赤くなるのを面白がって、しばらくそちらを見ていることにした。






夏休みも終わり、学校が始まった。


帰宅した麻梨乃はポストに自分宛ての手紙を見つけた。


家に入る前に差出人を確認したが名前がなかった。

麻梨乃は蔦の家に視線をやった。

あの日以来、あの家に電気はついていない。

1か月後に取り壊される予定になっている。


麻梨乃は自分の部屋に駆け込むと、封筒を空けた。

中には紙が1枚入っていた。

それは流れるような字で書かれていた。


[吉名麻梨乃様。私どもはこの地を離れます。もうお目にかかる事はないでしょう。それでは、どうかお元気で。足立正司]


麻梨乃は窓から蔦の家を見た。

もうあの家には誰も居ないのだ。




大きく深呼吸をすると、服を着替えて家を飛び出した。


今から大好きな人達に会いに行くのだ。

何がなんでも守り抜くべき宝に──。




──────────





お色直しを終え、席に戻る。

顔を赤らめた上司や家族、友人たちの盛り上がりは一定を保っていた。

悪酔いする者はおらず、皆が楽しそうにしてくれているだけで2人は満足だった。


席についてテーブルの端に何かがあることに気が付いた。


係りの女性に尋ねてみても分からないと頚を捻るだけだったので、仕方なく手に取ってみた。


メッセージカードには綺麗で流れるような字。

『阿久津麻梨乃様』とだけ書かれている。

それと一緒にあるのがリボンが結ばれている長細い小さな箱だった。


「何それ」と亮介。


「さぁ。誰かが置いたのかな。ほら、新しい名前になってる」


「本当だ。阿久津麻梨乃。良い名前だね」と嬉しそうな亮介。


リボンを解いて箱を開ける。


なんだか懐かしい気持ちになった。


そして、蓋を開けて驚いた。


─そんな。


「何だったの?」


「─薔薇」


「薔薇?」


麻梨乃は箱に横たわる一輪の薔薇をつまみ上げた。


「深紅の─薔薇」


麻梨乃の口調に亮介が何かを感じとり辺りを見た。


─薮神和彦がいる。


「あ─あそこ」と亮介が腰を浮かせた。


スーツを来た老人が式場を出ようとしていたのだ。

遠目だが間違いない。

あれは足立正司だ。

彼は最後に会った時と変わらず凛としていた。


こちらに気が付いた足立正司は一瞬戸惑ったように表情を崩したが、直ぐに微笑みを浮かべて深く頭を下げた。


麻梨乃も薔薇を手に立ち上がる。


2人は伝えられなかった感謝を込めて頭を下げた。

足立正司、そしてその影に潜む薮神和彦に向かって。




─END─

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