第3話「王都の朝」
——王都の空気は、こんなに重かっただろうか。
七日間の馬車の旅を終え、ヴァイスフェルト侯爵邸に到着したのは夕刻だった。一夜明けた朝、セシリアは客間の窓を開けた。
石造りの街並みが朝靄の中に広がっている。馬車の轍が石畳を削る音、商人の呼び声、教会の鐘の残響。辺境にはない密度の音が、窓の向こうに満ちていた。
この街を訪れるのは、レオンハルトとの交際の意思表明を宮内省に届け出た時以来だった。あの時は「辺境公爵の婚約者候補」だった。今は「公爵家の正式な婚約者」として、社交界に臨む。
肩書きが変わっている。周囲の目も変わっているはずだった。
マルガレーテが朝の支度を整えてくれた。社交用の衣装に袖を通し、髪を結い上げ、銀の指輪が映える程度に手元を整える。鏡の中の自分は、侯爵令嬢としての装いに包まれていた。
辺境では作業着が多かった。帳面を抱え、作業場の土を踏み、領民と言葉を交わす日々。この衣装の自分には、どこか座りの悪さがあった。
だが、マルガレーテが丁寧に整えてくれた襟元に触れた時、安堵が胸に落ちた。この人がいてくれる。それだけで、背筋が伸びた。
階下の広間で、フリッツが待っていた。
朝食の席に着き、セシリアは深く一礼した。
「父上。お久しぶりでございます」
フリッツは娘の顔を見た。眼鏡の奥の目が、一瞬だけ細くなった。
「よく来た」
低い声。簡潔な言葉。だがその声の端に、書簡では伝わらない温度があった。
「明日から忙しくなるぞ。挨拶回りの相手は五家。宮内省の担当者との面会も明日中に入る」
政治家の声に戻っていた。パンを一切れ取り、バターを塗る手つきは落ち着いていた。
「宮内省の担当は、ヘルムート・ドライアー伯爵。古参の実務家だ。敵ではないが、味方でもない。制度の番人だと思え」
「承知いたしました」
「それと——」
フリッツの手が、一瞬止まった。
「社交界では、お前のことが話題になっている。辺境公爵の婚礼前の挨拶回りだ。注目は避けられん」
セシリアは頷いた。父の書簡にあった通りだった。
「その中に、かつてのランツァー伯爵家の件を知る者もいる。『あの伯爵家の嫡男がかつてヴァイスフェルト嬢と婚約していた』『今は見る影もない』。そういう声がある」
フリッツの目が、娘を真っ直ぐに見た。
「だが一方で、『最近は家の実務に手をつけているらしい』という話も聞く。いずれにせよ、お前が気にすることではない」
セシリアは「はい」と答えた。
気にしていなかった。過去は過去だった。だが、社交界の目がその過去を持ち出すことは、自分の意思では止められない。
フリッツは朝食を終え、席を立った。
「レオンハルト公爵殿は」
「別室で休んでおられます。昨日の到着が遅かったので」
「そうか。面会は午後でいい。まずはお前自身の準備を整えろ」
フリッツは広間を出ていった。背中に政治家の重さがあった。
午後、ヘルムート・ドライアーとの面会が行われた。
侯爵邸の応接間。セシリアが椅子に座り、マルガレーテが部屋の隅に控えた。レオンハルトは別室でフリッツと会談中だった。
扉が開き、ヘルムートが入ってきた。
五十代半ばの男だった。灰色がかった髪を短く整え、仕立ての良い上着に宮内省の徽章を留めている。痩身だが、背筋はまっすぐだった。
目は穏やかに見えた。だがその穏やかさの裏に、何層もの計算が動いている目だった。社交的な笑みを浮かべていたが、笑みの下に感情はなかった。
セシリアは立ち上がり、一礼した。
「お初にお目にかかります。セシリア・ヴァイスフェルトでございます」
「ヘルムート・ドライアーでございます。ヴァイスフェルト嬢、このたびは婚礼の件でご足労いただき、恐れ入ります」
声は落ち着いていた。丁寧だが距離のある声だった。
着席を促され、セシリアは椅子に戻った。
ヘルムートが口を開いた。
「公爵家の婚礼は王家にとっても重要な案件でございます。祝宴の場で、辺境の事業についてもお話しいただく機会がございます。王家の方々にとっても、辺境公爵領の現状は関心事でございますゆえ」
好意的にも聞こえた。だが「関心事」という言葉の重さを、セシリアは聞き逃さなかった。
関心。それは期待であると同時に、監視でもあった。
「承知いたしました。辺境の現状について、きちんとお伝えできるよう準備いたします」
「結構でございます。挨拶回りの件も、宮内省として把握しております。主要な五家への訪問は明日から三日間で完了する日程を組んでおります」
ヘルムートの手元に、書類の束があった。日程表らしきものが見えた。全てが既に整えられている。
「何かご不明な点がございましたら、お申しつけください」
事務的だった。親切ではあるが、温度のない親切だった。制度の番人。フリッツの言葉が、そのまま目の前に座っていた。
「ありがとうございます、ヘルムート様。何卒よろしくお願いいたします」
ヘルムートが一礼し、応接間を出ていった。
扉が閉まった後、セシリアは椅子の背にもたれた。
息を吐いた。
辺境で、エレオノーラの値踏みを受けた時とは違う緊張だった。あれは個人の目だった。今回は制度の目だった。個人に対しては自分の言葉で応えられる。だが制度の目には、制度の言葉が必要になる。
辺境では実績と行動で評価された。ここでは家格と作法と会話の機微が評価される。
かつてこの街にいた頃の自分は、「同情される令嬢」だった。ギルベルトとの婚約時代、社交の場で壁際に立ち、微笑みを作っていた。
今は違う。「注目される令嬢」として、視線の中心に立たなければならない。
同情と注目。視線の質が全く違う。その違いに、セシリアは最初の揺れを覚えた。
辺境の自分がここで通用するのか。
揺れは小さかった。だが確かに、胸の奥にあった。
廊下に出ると、前方からレオンハルトが歩いてきた。
フリッツとの会談を終えたところだった。上着の襟元が整えられている。社交用の装いは、辺境の外套とは違って窮屈そうに見えた。
レオンハルトがセシリアに気づき、足を止めた。
「大丈夫か」
短い問いだった。ヘルムートとの面会があったことを、既に知っているのだろう。
「はい」
セシリアは答えた。
レオンハルトの手が、セシリアの背中にそっと触れた。
軽く。一瞬だけ。指先が衣装の布地を通して背中に触れ、すぐに離れた。
「困ったら俺を使え。公爵の名前は、こういう時のためにある」
不器用な励ましだった。声は低く、素っ気なかった。
セシリアの口元が緩んだ。
「あなたの名前ではなく、あなた自身が頼りです」
レオンハルトの目が逸れた。耳が赤くなっていた。廊下の窓の外を見つめている。視線が戻ってこなかった。
セシリアはその横顔を見て、胸の奥が温かくなった。
王都の空気は重い。社交界の目は厳しい。だがこの人がいる。フリッツがいる。マルガレーテがいる。
明日から、挨拶回りが始まる。最初の相手は、かつてギルベルトとの婚約時代に面識のある侯爵夫人だった。「過去の自分を知る人」との再会。
セシリアは廊下の窓に目を向けた。
王都の空は高かった。辺境の空とは違う色をしていた。だがその空の下で、左手の薬指に銀の指輪が光っていた。
帰る場所がある。




