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病弱な幼馴染の嘘がバレた日  作者: 月雅
第4章

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第2話「旅支度」

セシリアは作業場の棚に帳面を並べていた。


出荷の記録、品質管理の手順書、仕込みの温度と日数の一覧。一冊ずつ確認し、付箋を挟み、棚の定位置に戻していく。


王都行きの日程が決まった。五日後に出発する。


作業場の管理を領民に引き継ぐ必要があった。セシリアが不在の間も、仕込みと出荷は止められない。


「セシリア様、この帳面の温度のところ、もう一度教えていただけますか」


領民の男が手順書を開いて近づいてきた。燻製の初期から手伝ってくれている人だった。


「ここです。仕込みから三日目に、この温度を下回っていないか確認してください。下回っていたら、布を一枚追加して蓋をしてください」


「わかりました。前にも教わりましたが、念のため」


「念のためが大事です。お願いしますね」


領民が頷き、作業台に戻っていった。


セシリアはその背中を見た。


手順は定着していた。帳面を見れば、自分がいなくても判断できる。仕込みの手順書は二冊作ってある。一冊は棚に、もう一冊は作業台の横に。


自分がいなくても、作業場は回る。


その事実を確認することが、出発の準備だった。同時に、それはセシリアがこの土地で積み上げてきたものの形でもあった。一人に頼る仕組みではなく、仕組みそのものが根を下ろしている。


城館に戻ると、マルガレーテが自室で衣装を広げていた。


旅装と、王都での社交用の衣装。二つの異なる装いが、寝台の上に並べられていた。


旅装は実用的なもの。七日間の馬車の旅に耐える生地と仕立て。社交用の衣装は、侯爵令嬢として、そして公爵家の婚約者として王都の社交界に立つためのものだった。


マルガレーテが衣装の襟元を整えながら、手が止まった。


一瞬だった。指先が布の上で静止し、すぐに動き始めた。


だがセシリアはその瞬間を見ていた。


「どうしたの」


声は穏やかだった。


マルガレーテは衣装に目を落としたまま答えた。


「……何でもありません。襟の糸がほつれかけていたので」


手が布の上を滑った。ほつれを確かめる指先は丁寧だった。だがその指先に、いつもの迷いのなさがなかった。


セシリアはマルガレーテの横顔を見た。


何かがある。だが今、問い詰める場面ではなかった。


マルガレーテが自分から話す時を待つ。この人との十年は、そういうやり方を教えてくれていた。


「王都では忙しくなりますね」


セシリアは衣装に手を伸ばし、袖の長さを確かめた。


「ええ。挨拶回りの合間に衣装を整える時間を確保しなければなりませんから、お嬢様の身支度は朝のうちに済ませます」


マルガレーテの声は、いつもの実務的な調子に戻っていた。


だがセシリアの胸に、小さな引っかかりが残った。あの一瞬の手の止まり方。衣装を見つめる目の奥にあったもの。


それが何なのか、まだわからなかった。


夕刻、レオンハルトの執務室で出発の最終確認が行われた。


レオンハルトはエルマーに留守中の指示を出していた。国境の定期報告の処理、領内の徴税事務、作業場の巡回確認。一つ一つを簡潔に伝え、エルマーが頷いていく。


「何かあれば早馬を出せ。五日で届く」


「承知いたしました」


エルマーが一礼して退室した。


セシリアは帳面を手に、旅程の最終確認を報告した。


「馬車は一台。近衛二名が随行。王都までの行程は七日。ヴァイスフェルト侯爵邸に滞在いたします」


レオンハルトは頷いた。


「マルガレーテも同行する」


「はい。お嬢様——私の身支度と、社交の場での補佐を」


言い直した。公爵の前での呼称。だがレオンハルトは気にした様子もなく、書類に目を戻していた。


報告が終わり、セシリアは帳面を閉じた。


執務室の窓から、夕暮れの光が差し込んでいた。盛夏の陽が長い影を引き、石畳の上に橙色の線を描いている。


「少し、外に出ませんか」


セシリアの口から、言葉が自然に出た。


レオンハルトが書類から顔を上げた。


「門前まで。少しだけ」


レオンハルトは一瞬の間を置いて、椅子から立ち上がった。


門前に出ると、夕暮れの風が二人の間を抜けた。


街道の先に、辺境の大地が広がっている。畑の作物が夕陽を受けて金色に染まり、遠くの丘の稜線が空と溶け合っている。


セシリアは門柱の傍に立ち、街道の先を見つめた。


「あの日もここに立っていましたね」


声は穏やかだった。


辺境に初めて到着した日のことだった。馬車を降りた時、灰色の空と乾いた風と、何もない大地。あの日ここに立っていた自分は、この場所で何ができるのかもわからなかった。


レオンハルトが隣に立っていた。


「ああ。だが今は違う」


声は低かった。夕暮れの風に乗って、静かに届いた。


「ここはもうお前の場所だ。帰ってくる場所だ」


セシリアの胸に、温かいものが広がった。


帰る場所。


辺境に来た時、ここは「送られた場所」だった。父の政治的判断で、王都から遠ざけられた土地。だが今、この人は「帰ってくる場所」と言った。


王都に行く。社交界に立つ。だが、帰る場所はここにある。


セシリアの左手が、隣に立つレオンハルトの手に伸びた。


指先が触れた。レオンハルトの手は温かかった。硬い掌だった。


レオンハルトの指が、セシリアの指に応えた。強く。確かに。繋いだ手がそのまま、二人の間に留まった。


夕陽が街道の先に沈みかけていた。空が橙から薄紫に変わっていく。


しばらく、言葉はなかった。繋いだ手の温度だけが、二人の間にあった。


「手、離さないでくださいね」


セシリアが呟いた。小さな声だった。王都の社交界への緊張が、その一言に滲んでいた。


レオンハルトの指が、わずかに力を込めた。


「離すつもりがあるように見えるか」


声は素っ気なかった。だがその素っ気なさの中に、この人の全てがあった。


セシリアは笑った。小さく、柔らかく。


繋いだ手の上に、夕暮れの最後の光が落ちていた。指先が絡んでいた。銀の指輪が、橙色の光を受けて鈍く光っていた。



王都。ランツァー伯爵邸。


夜の社交の場から戻ったギルベルトは、書斎の椅子に腰を下ろした。


上着を脱ぎ、椅子の背にかけた。机の上には、伯爵家の実務に関する書類が積まれている。昼間に手をつけた帳面が、途中で開いたまま残っていた。


今夜の席で、ある話を耳にした。


「辺境公爵の婚礼が近いらしい。宮内省が祝宴を手配しているそうだ」


隣に座った知人が、杯を傾けながら言った。


ギルベルトは相手の目を見た。


「そうらしいね」


平静な声だった。杯を口に運び、一口含んだ。喉を通る酒の温度を確かめるように、ゆっくりと飲んだ。


知人はそれ以上何も言わなかった。


社交の場を辞し、伯爵邸に戻った。


書斎の窓の外は暗かった。夏の夜の空気が、開いた窓から流れ込んでいる。


ギルベルトは窓の外を見た。


視線の先には何もなかった。王都の夜空に、星が幾つか光っているだけだった。


しばらくそのまま立っていた。


やがて窓から目を離し、机に向き直った。開いたままの帳面に手を伸ばし、ペンを取った。


足元は揺らいでいなかった。

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