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病弱な幼馴染の嘘がバレた日  作者: 月雅
第3章

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第10話「共に歩む道」

「お元気で、父上」


セシリアの声が、門前の石畳に落ちた。


フリッツの馬車が、街道の向こうに小さくなっていく。ヴィクトルの馬車がその後に続いている。朝の光が二台の馬車を照らし、車輪が巻き上げる砂埃が金色に光った。


この門の前に、セシリアは立っていた。


辺境に初めて到着した日も、この門だった。馬車を降りた時、灰色の空と乾いた風と、何もない大地が広がっていた。あの日の自分は、ここで何ができるのかもわからなかった。


今、同じ門の前に立っている。


左手の薬指に、銀の指輪が光っていた。


フリッツは出発の前、セシリアと二人で食事を共にした。昨夜のことだった。


城館の食堂で、向かい合って座った。マルガレーテが給仕を手伝い、使用人たちが料理を運んだ。燻製の肉と、発酵食品を使った汁物。辺境の食卓だった。


フリッツは料理を一口含み、咀嚼し、飲み込んだ。


「悪くない」


低い声だった。父の、簡潔な評価だった。


セシリアは微笑んだ。


「領民の皆さんが育てた素材です。この土地の力ですよ」


フリッツは箸を置いた。娘の顔を見た。


「お前の力だ」


短かった。だがその一言が、帳面の数字よりも確かに、セシリアの胸に届いた。


食事の後、フリッツは窓の外を見た。辺境の夜空は暗かった。王都のように街灯はなく、星だけが光っていた。


「侯爵家の交易路を、辺境に接続する件は公爵殿と詰めた。書面は追って送る」


政治家の声だった。だがその声の端に、父の顔が覗いていた。


「父上」


「何だ」


「ありがとうございます。辺境に送ってくださったこと」


フリッツの手が、杯の上で止まった。


あの日、婚約破棄の後に辺境行きを決めたのはフリッツだった。娘を守るために、王都から遠ざけた。政治的な判断だった。だがその判断がなければ、今のセシリアはいなかった。


フリッツは杯を口に運び、一口含んだ。


「礼を言われることではない」


声は平坦だった。だが杯を置く手が、ほんの一瞬だけ震えていた。


セシリアはそれを見た。見て、何も言わなかった。この人も、レオンハルトと同じだった。言葉ではなく、行動の中に感情を閉じ込める人だった。


馬車が見えなくなった。


セシリアは門から振り返った。城館の石壁が、朝の光を受けて白く輝いている。


作業場に向かった。


いつもと同じ朝だった。帳面を開き、樽の温度を確認し、出荷の準備を点検する。領民たちが作業を始めている。仕込みの手順は定着していた。セシリアが確認するまでもなく、手が動いている。


「セシリア様、今朝の分、良い仕上がりですよ」


領民の男が声をかけた。燻製の最初の試食から手伝ってくれている人だった。


「ありがとうございます。午後の分も、同じ温度でお願いしますね」


日常だった。自分の日常。


帳面を閉じ、作業場を出た。空を見上げた。


辺境の夏の空は高かった。雲が薄く流れ、陽が大地を照らしている。畑の作物が育ち、村の屋根の向こうに緑が広がっている。


ここが私の場所だ。


その確信は、もう揺らがなかった。


夕刻、レオンハルトが城館の廊下でセシリアに声をかけた。


「来い」


一言だった。行き先も目的も言わない。いつもの簡潔さだった。


セシリアはレオンハルトの後に続いた。城館の廊下を歩き、玄関広間を抜け、門に向かった。


門前に出た。


夕暮れの光が、街道と荒野を橙色に染めていた。風が乾いた土の匂いを運んでいる。


レオンハルトは門の前に立ち、街道の先を見ていた。


セシリアが隣に並んだ。


「ここで初めてお前と会った」


レオンハルトの声は低かった。


セシリアの胸が、静かに震えた。


そうだった。この門の前で、馬車を降りたセシリアを迎えたのがレオンハルトだった。あの時のこの人は、冬の湖面のような目をしていた。何も映していないように見える、冷たい目。


今、同じ場所に立っている。同じ人の隣に。


だが全てが違っていた。


レオンハルトが口を開いた。


「俺は言葉が足りない。それは変わらないかもしれない」


声は簡潔だった。いつもの短い言葉だった。だがその言葉を選ぶ前の沈黙に、この人なりの誠実さがあった。


「だが、約束は守る。それだけは、ずっと変わらない」


セシリアの目が熱くなった。


この人は、いつもそうだった。言葉ではなく行動で示してきた。防寒具を自分で選び、山道で手を差し伸べ、帰還の瞬間に真っ先にこちらを見た。告白の時でさえ、「合理的ではない」と言いながら、体の奥にあるものを声にした。


不器用な人だった。


だがその不器用さの中に、誰よりも確かなものがあった。


「知っています」


セシリアの声は静かだった。震えてはいなかった。


そして、自分からレオンハルトの手を取った。


指先がレオンハルトの掌に触れた。硬い手だった。剣を握り、書類を捌き、約束を守り続けてきた手。


「私も約束します」


レオンハルトの指が、セシリアの手に力を込めた。


「この土地で、あなたの隣で、ずっと」


声は穏やかだった。飾りはなかった。


レオンハルトの指がセシリアの手を強く握り返した。


二つの手が重なっていた。始まりの場所で。


沈黙が落ちた。


風が吹いた。辺境の夏の風だった。麦の穂を揺らし、畑の緑を渡り、二人の間を吹き抜けていった。


セシリアはレオンハルトの横顔を見た。夕暮れの光が、この人の輪郭を照らしている。冬の湖面のような目は、今、穏やかな光を湛えていた。


「レオンハルト」


名前を呼んだ。


「何だ」


「ありがとうございます。私を選んでくれて」


レオンハルトの目が逸れた。視線が街道の先に向いた。


「……俺の方だ」


声が低かった。


セシリアが「え?」と聞き返した。


レオンハルトは正面を向いたまま答えた。


「お前が俺を選んでくれた。それが先だ」


セシリアの目が潤んだ。


この人は覚えている。あの日、王都の客間で「はい」と答えた瞬間を。命令ではないと言われて、自分の意思で選んだ瞬間を。


涙が一筋、頬を伝った。


レオンハルトがセシリアの方を向いた。


右手が上がった。庭園で涙を拭おうとした時と同じ動き。肩に触れかけて止まった時と同じ動き。


今回は、止まらなかった。


指先がセシリアの額に触れた。


そっと。静かに。


唇が額に寄せられた。


短く。


息を一つ吸う間よりも短い、静かな口づけだった。


セシリアの呼吸が止まった。額に残る温もりが、体の奥まで沁みていった。


「……もう一度」


声は小さかった。呟きだった。自分でも、なぜそう言ったのかわからなかった。


レオンハルトの耳が赤くなった。


「……何度でも」


声が掠れていた。


もう一度、額に唇が押し当てられた。


今度は、少しだけ長かった。


風が吹いた。辺境の夏の匂いが、二人を包んだ。乾いた土と、麦と、遠くの煙突から漂う燻製の香り。この土地の匂いだった。


セシリアは目を閉じた。


頬の涙が乾いていくのを感じた。額の温もりが消えなかった。


門の内側で、二つの影が並んでいた。


マルガレーテは廊下の窓から、門前に立つ二人の姿を見ていた。


風に髪をなびかせて並ぶ二つの影。片方は長身で、もう片方はその肩の高さに頭が届く。


夕暮れの光が、二人の上に金色の影を落としていた。


隣に、エルマーが立っていた。何の用があったのか、たまたま廊下を通りかかっただけかもしれない。腕を組み、窓の外を見ていた。


マルガレーテは小さく呟いた。


「実りましたね」


エルマーは腕を組んだまま、窓の外を見た。


「ああ」


短い一言だった。だがその声は、あの日の「春ですね」「ああ」とは違う温度を持っていた。季節が変わっていた。言葉も変わっていた。だが、静かな確信だけは同じだった。


王都。ランツァー伯爵邸の書斎。


ギルベルトの机の上に、一枚の公報が置かれていた。


辺境公爵レオンハルト・ヴェルクマイスターと、ヴァイスフェルト侯爵家長女セシリア・ヴァイスフェルトの婚約が正式に成立した旨を告げる、宮内省の公報だった。


ギルベルトは公報を読み終え、丁寧に折り畳んだ。


机の上に置いた。


窓の外を見た。夏の陽が、街路樹に降り注いでいた。葉が光を受けて輝いている。


かつてこの窓から見た景色と、何も変わっていなかった。変わったのは、自分だった。


ギルベルトは椅子から立ち上がった。


書斎の扉を開けた。


廊下に従者が立っていた。


「今日の予定は」


従者が一瞬驚いた顔をした。主人が自分から予定を聞くことは、これまでほとんどなかった。


「午後に商人との打ち合わせがございます」


「行こう」


短い一言だった。


ギルベルトは廊下を歩き出した。背筋が伸びていた。


過去を振り返る足取りではなかった。暖炉で燃やした手紙の灰は、もう残っていない。あの日呟いた「幸せに」は、届かない場所に向けた言葉だった。


だが、それでよかった。


自分の選択の結果を、引き受ける。その上で、前を向く。


それは赦しではなかった。救いでもなかった。


ただ、小さな一歩だった。


(完)


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― 新着の感想 ―
素敵な余韻に溢れた結末で、皆が前を向いて進んでいく最高の瞬間でした!! ありがとうございました
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