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病弱な幼馴染の嘘がバレた日  作者: 月雅
第3章

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第9話「約束の証」

――これは、本当に現実なのだろうか。


宮内省からの書簡が届いたのは、朝露が石畳を濡らしている時刻だった。


セシリアは作業場に向かう途中だった。廊下の向こうから、エルマーが封書を手に早足で歩いてくるのが見えた。


「セシリア様。公爵様がお呼びです。執務室に」


エルマーの声は、いつもの仏頂面と釣り合わないほど張りがあった。


セシリアは帳面を抱えたまま、執務室に向かった。


扉は開いていた。


レオンハルトが机の前に立っていた。座っていなかった。手に封書を持ち、封蝋を割った状態で、中身を読み終えたところだった。


セシリアが入ると、レオンハルトがその書面を差し出した。


「読め」


セシリアは受け取った。


宮内省の封蝋。正式な書式。公爵家と侯爵家の婚約に関する認可通知。


文面を目で追った。


認可する、と書かれていた。


指先が震えた。


帳面が膝から滑り落ちそうになった。慌てて押さえたが、指の力が入らなかった。


「これで、正式だ」


レオンハルトの声が聞こえた。低く、簡潔だった。いつもの声だった。だがその声を耳にした瞬間、文面の意味が体の奥まで落ちてきた。


婚約が、正式に認可された。


セシリアは書面を見つめたまま、しばらく動けなかった。


文字がにじんで見えた。涙ではなかった。ただ、視界が定まらなかった。


フリッツが辺境に到着したのは、認可の書簡が届いた三日後だった。


もう一台の馬車が、フリッツの馬車に続いていた。ヴィクトル・グレーヴェンだった。事業の定期確認として辺境を訪れるという名目で、フリッツの旅に同道していた。


門前にセシリアとレオンハルトが並んで立っていた。


フリッツが馬車を降りた。旅装の上に侯爵家の紋章が留められている。眼鏡の奥の目が、まず娘の顔を見た。


セシリアは深く一礼した。


「父上。遠路のお越し、ありがとうございます」


フリッツはセシリアの顔を見た。数秒の沈黙があった。


あの日、王都の別邸で再会した時と同じ間だった。だが今、父の目に映る娘は、あの時とも違っているはずだった。


「元気そうだな」


低い声だった。それだけだった。だがその短い言葉の中に、書簡では伝わらないものがあった。


レオンハルトが一歩前に出た。


「フリッツ侯爵。ようこそおいでくださいました」


「公爵殿。お招きに感謝する」


二人の間に交わされたのは、公式な挨拶だった。だがその声には、以前の緊張とは違う温度があった。


ヴィクトルが馬車から降り、セシリアに一礼した。


「お久しぶりです、セシリア嬢。出荷品の評判は相変わらず上々ですよ」


「ありがとうございます、ヴィクトル様。作業場をご覧いただけますか」


「もちろん。楽しみにしております」


穏やかなやり取りだった。事業パートナーとしての距離が、自然に定まっていた。


婚約契約書への署名は、城館の広間で行われた。


長い机の上に、羊皮紙の契約書が広げられていた。宮内省の書式に則った正式な文書。封蝋と家紋印の準備が整えられている。


フリッツが契約書を確認した。政治家の目だった。一文一文を丁寧に読み、数字と条件を照合していた。


レオンハルトが隣に立ち、同じ文書に目を通していた。


確認が終わった後、フリッツが最初にペンを取った。


侯爵家の家長として、署名した。


レオンハルトが続いた。公爵家の当主として、署名した。


セシリアとレオンハルトが、当事者として署名を求められた。


セシリアはペンを取った。


指先がわずかに震えていた。だがペン先が羊皮紙に触れた瞬間、震えが止まった。


自分の名前を、書いた。


ペンを置いた。


インクが乾くのを待つ間、セシリアは自分の署名を見つめた。帳面に数字を書く時と同じペン。同じ手。だが今、この手が書いたものは、数字ではなかった。


レオンハルトがセシリアの隣に立ち、同じ署名欄に自分の名を記した。


四つの署名が並んだ。


フリッツが契約書を見下ろし、封蝋の準備を指示した。


署名が終わった後、フリッツがセシリアに向き直った。


「一つ聞く」


政治家の声ではなかった。父の声だった。


「後悔はないか」


セシリアの呼吸が、一瞬止まった。


父の目が、娘を真っ直ぐに見ていた。眼鏡の奥の目。あの日、「お前の気持ちは知っている」と言った目。


「一度もありません」


声は震えなかった。震えさせなかった。


フリッツの目が、わずかに潤んだ。


一瞬だった。すぐに眼鏡の奥に隠れた。だがセシリアは見た。感情を表に出さない父の、精一杯の揺れを。


フリッツがレオンハルトに向き直った。


「公爵殿、娘を頼む」


声は低かった。静かだった。だがその一言に、政治家としての判断と、父としての祈りが同居していた。


「約束する」


レオンハルトの声は簡潔だった。


あの日、王都の書斎で「保証はできない。だが約束はする」と言った人の声だった。今は「約束する」だけだった。言葉が短くなっていた。だがその短さの中に、以前より確かなものがあった。


フリッツはセシリアの方を見た。


「よくやった」


短かった。それだけだった。


セシリアの目から、涙がこぼれた。


堪えようとしなかった。父の前で泣くのは、子供の頃以来だった。だが今の涙は、あの頃とは違っていた。


マルガレーテが広間の隅で、顔を伏せていた。両手で口元を押さえ、肩が小さく震えていた。声は出さなかった。


午後、ヴィクトルは作業場を視察した。


量産体制の安定を自分の目で確認し、帳面の数字を照合し、領民たちの手際を見た。


「見事なものです。これだけ短期間で、ここまで安定させたのは並大抵ではない」


ヴィクトルの声には、商人としての評価と、それだけではない敬意があった。


作業場を出た時、ヴィクトルの目がセシリアの左手に止まった。


薬指に、細い銀の指輪が光っていた。


ヴィクトルは一瞬目を細め、穏やかに笑った。


「おめでとうございます、セシリア嬢」


「ありがとうございます、ヴィクトル様」


セシリアは頷いた。それ以上の言葉は要らなかった。事業パートナーとしての関係が、自然にそこにあった。


指輪がセシリアの手に渡ったのは、署名が終わった後だった。


広間にフリッツとマルガレーテがいる前で、レオンハルトが「一つ、渡したいものがある」と言った。


外套のポケットから、小さな箱を取り出した。


箱を開けた。


中に、細い銀の指輪があった。華美ではなかった。装飾は最小限で、辺境の鍛冶が打った素朴な造りだった。


「母が父からもらったものだ」


レオンハルトの声は低かった。


「母が今回の滞在の際に俺に託した」


セシリアの目が見開かれた。


エレオノーラが残していった。辺境を去る時に外した指輪を、息子の伴侶に渡すために、わざわざ持ってきていたのだ。


あの人は、最初からそのつもりだったのだ。


涙が溢れた。


堪えられなかった。エレオノーラの顔が浮かんだ。「息子をよろしくお願いします」と深く頭を下げた、あの人の姿。途中で止まった帳簿。「ありがとう」と掠れた声で言った、あの瞬間。


全てが繋がった。


レオンハルトがぎこちなくセシリアの左手を取った。


指先が震えていた。この人の指が、震えていた。剣を握る手。書類を捌く手。約束を守り続けてきた手。その手が、小さな指輪一つを通すことに、これほどの緊張を見せていた。


銀の指輪が、セシリアの薬指を通った。


「合うか」


声が掠れていた。


セシリアは指輪を見た。細い銀が、薬指の上で静かに光っていた。


「……はい」


声は小さかった。涙で滲んでいた。


セシリアはレオンハルトの手を握り返した。


そして、額を彼の胸に預けた。


レオンハルトの体が、一瞬硬くなった。


数秒の後、手がゆっくりとセシリアの背に回された。


ぎこちなかった。庭園で涙を拭った時よりも、山道で手を引いた時よりも、不器用だった。だがその不器用さの中に、この人の全てがあった。


初めての抱擁だった。


セシリアの耳に、レオンハルトの心臓の音が聞こえた。速かった。この人も、同じだった。


広間の隅で、フリッツが窓の外に目を向けていた。眼鏡を外し、レンズを布で拭いていた。拭う必要のない、綺麗なレンズを。


マルガレーテは顔を伏せたまま、声を殺して泣いていた。


窓の外に、初夏の陽が差していた。辺境の大地に、金色の光が降り注いでいる。


セシリアはレオンハルトの胸の中で、目を閉じた。


婚約破棄の日に始まった旅が、ここで一つの形を結んだ。


痛みも、迷いも、全てがここに至るための道だった。

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