第9話「約束の証」
――これは、本当に現実なのだろうか。
宮内省からの書簡が届いたのは、朝露が石畳を濡らしている時刻だった。
セシリアは作業場に向かう途中だった。廊下の向こうから、エルマーが封書を手に早足で歩いてくるのが見えた。
「セシリア様。公爵様がお呼びです。執務室に」
エルマーの声は、いつもの仏頂面と釣り合わないほど張りがあった。
セシリアは帳面を抱えたまま、執務室に向かった。
扉は開いていた。
レオンハルトが机の前に立っていた。座っていなかった。手に封書を持ち、封蝋を割った状態で、中身を読み終えたところだった。
セシリアが入ると、レオンハルトがその書面を差し出した。
「読め」
セシリアは受け取った。
宮内省の封蝋。正式な書式。公爵家と侯爵家の婚約に関する認可通知。
文面を目で追った。
認可する、と書かれていた。
指先が震えた。
帳面が膝から滑り落ちそうになった。慌てて押さえたが、指の力が入らなかった。
「これで、正式だ」
レオンハルトの声が聞こえた。低く、簡潔だった。いつもの声だった。だがその声を耳にした瞬間、文面の意味が体の奥まで落ちてきた。
婚約が、正式に認可された。
セシリアは書面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
文字がにじんで見えた。涙ではなかった。ただ、視界が定まらなかった。
フリッツが辺境に到着したのは、認可の書簡が届いた三日後だった。
もう一台の馬車が、フリッツの馬車に続いていた。ヴィクトル・グレーヴェンだった。事業の定期確認として辺境を訪れるという名目で、フリッツの旅に同道していた。
門前にセシリアとレオンハルトが並んで立っていた。
フリッツが馬車を降りた。旅装の上に侯爵家の紋章が留められている。眼鏡の奥の目が、まず娘の顔を見た。
セシリアは深く一礼した。
「父上。遠路のお越し、ありがとうございます」
フリッツはセシリアの顔を見た。数秒の沈黙があった。
あの日、王都の別邸で再会した時と同じ間だった。だが今、父の目に映る娘は、あの時とも違っているはずだった。
「元気そうだな」
低い声だった。それだけだった。だがその短い言葉の中に、書簡では伝わらないものがあった。
レオンハルトが一歩前に出た。
「フリッツ侯爵。ようこそおいでくださいました」
「公爵殿。お招きに感謝する」
二人の間に交わされたのは、公式な挨拶だった。だがその声には、以前の緊張とは違う温度があった。
ヴィクトルが馬車から降り、セシリアに一礼した。
「お久しぶりです、セシリア嬢。出荷品の評判は相変わらず上々ですよ」
「ありがとうございます、ヴィクトル様。作業場をご覧いただけますか」
「もちろん。楽しみにしております」
穏やかなやり取りだった。事業パートナーとしての距離が、自然に定まっていた。
婚約契約書への署名は、城館の広間で行われた。
長い机の上に、羊皮紙の契約書が広げられていた。宮内省の書式に則った正式な文書。封蝋と家紋印の準備が整えられている。
フリッツが契約書を確認した。政治家の目だった。一文一文を丁寧に読み、数字と条件を照合していた。
レオンハルトが隣に立ち、同じ文書に目を通していた。
確認が終わった後、フリッツが最初にペンを取った。
侯爵家の家長として、署名した。
レオンハルトが続いた。公爵家の当主として、署名した。
セシリアとレオンハルトが、当事者として署名を求められた。
セシリアはペンを取った。
指先がわずかに震えていた。だがペン先が羊皮紙に触れた瞬間、震えが止まった。
自分の名前を、書いた。
ペンを置いた。
インクが乾くのを待つ間、セシリアは自分の署名を見つめた。帳面に数字を書く時と同じペン。同じ手。だが今、この手が書いたものは、数字ではなかった。
レオンハルトがセシリアの隣に立ち、同じ署名欄に自分の名を記した。
四つの署名が並んだ。
フリッツが契約書を見下ろし、封蝋の準備を指示した。
署名が終わった後、フリッツがセシリアに向き直った。
「一つ聞く」
政治家の声ではなかった。父の声だった。
「後悔はないか」
セシリアの呼吸が、一瞬止まった。
父の目が、娘を真っ直ぐに見ていた。眼鏡の奥の目。あの日、「お前の気持ちは知っている」と言った目。
「一度もありません」
声は震えなかった。震えさせなかった。
フリッツの目が、わずかに潤んだ。
一瞬だった。すぐに眼鏡の奥に隠れた。だがセシリアは見た。感情を表に出さない父の、精一杯の揺れを。
フリッツがレオンハルトに向き直った。
「公爵殿、娘を頼む」
声は低かった。静かだった。だがその一言に、政治家としての判断と、父としての祈りが同居していた。
「約束する」
レオンハルトの声は簡潔だった。
あの日、王都の書斎で「保証はできない。だが約束はする」と言った人の声だった。今は「約束する」だけだった。言葉が短くなっていた。だがその短さの中に、以前より確かなものがあった。
フリッツはセシリアの方を見た。
「よくやった」
短かった。それだけだった。
セシリアの目から、涙がこぼれた。
堪えようとしなかった。父の前で泣くのは、子供の頃以来だった。だが今の涙は、あの頃とは違っていた。
マルガレーテが広間の隅で、顔を伏せていた。両手で口元を押さえ、肩が小さく震えていた。声は出さなかった。
午後、ヴィクトルは作業場を視察した。
量産体制の安定を自分の目で確認し、帳面の数字を照合し、領民たちの手際を見た。
「見事なものです。これだけ短期間で、ここまで安定させたのは並大抵ではない」
ヴィクトルの声には、商人としての評価と、それだけではない敬意があった。
作業場を出た時、ヴィクトルの目がセシリアの左手に止まった。
薬指に、細い銀の指輪が光っていた。
ヴィクトルは一瞬目を細め、穏やかに笑った。
「おめでとうございます、セシリア嬢」
「ありがとうございます、ヴィクトル様」
セシリアは頷いた。それ以上の言葉は要らなかった。事業パートナーとしての関係が、自然にそこにあった。
指輪がセシリアの手に渡ったのは、署名が終わった後だった。
広間にフリッツとマルガレーテがいる前で、レオンハルトが「一つ、渡したいものがある」と言った。
外套のポケットから、小さな箱を取り出した。
箱を開けた。
中に、細い銀の指輪があった。華美ではなかった。装飾は最小限で、辺境の鍛冶が打った素朴な造りだった。
「母が父からもらったものだ」
レオンハルトの声は低かった。
「母が今回の滞在の際に俺に託した」
セシリアの目が見開かれた。
エレオノーラが残していった。辺境を去る時に外した指輪を、息子の伴侶に渡すために、わざわざ持ってきていたのだ。
あの人は、最初からそのつもりだったのだ。
涙が溢れた。
堪えられなかった。エレオノーラの顔が浮かんだ。「息子をよろしくお願いします」と深く頭を下げた、あの人の姿。途中で止まった帳簿。「ありがとう」と掠れた声で言った、あの瞬間。
全てが繋がった。
レオンハルトがぎこちなくセシリアの左手を取った。
指先が震えていた。この人の指が、震えていた。剣を握る手。書類を捌く手。約束を守り続けてきた手。その手が、小さな指輪一つを通すことに、これほどの緊張を見せていた。
銀の指輪が、セシリアの薬指を通った。
「合うか」
声が掠れていた。
セシリアは指輪を見た。細い銀が、薬指の上で静かに光っていた。
「……はい」
声は小さかった。涙で滲んでいた。
セシリアはレオンハルトの手を握り返した。
そして、額を彼の胸に預けた。
レオンハルトの体が、一瞬硬くなった。
数秒の後、手がゆっくりとセシリアの背に回された。
ぎこちなかった。庭園で涙を拭った時よりも、山道で手を引いた時よりも、不器用だった。だがその不器用さの中に、この人の全てがあった。
初めての抱擁だった。
セシリアの耳に、レオンハルトの心臓の音が聞こえた。速かった。この人も、同じだった。
広間の隅で、フリッツが窓の外に目を向けていた。眼鏡を外し、レンズを布で拭いていた。拭う必要のない、綺麗なレンズを。
マルガレーテは顔を伏せたまま、声を殺して泣いていた。
窓の外に、初夏の陽が差していた。辺境の大地に、金色の光が降り注いでいる。
セシリアはレオンハルトの胸の中で、目を閉じた。
婚約破棄の日に始まった旅が、ここで一つの形を結んだ。
痛みも、迷いも、全てがここに至るための道だった。




