第1話「三年分の決別」
――もう、いいでしょう。
セシリアは胸の奥でそう呟いた。
大広間には楽団の旋律が満ちている。 シャンデリアの蝋燭が幾百と灯り、磨き上げられた大理石の床に淡い光の模様を落としていた。 ヴェルディア王国の秋季舞踏会。 貴族たちが華やかな装いで談笑する中、セシリアは壁際に立ち尽くしていた。
隣にいるべき人は、いない。
「申し訳ない、セシリア。リゼットが急に倒れたと連絡があって――」
一刻ほど前、会場の入口でギルベルトはそう言った。 困ったように眉を下げて、けれどその足はもう出口へ向いていた。
「強い君ならわかるだろう?」
その言葉を残して、彼は行ってしまった。 引き留める暇もなかった。 いや、引き留める気力が、もう残っていなかった。
セシリアは手袋の中で拳を握った。
わかる。 ええ、わかりますとも。 三年間、ずっとわかってきた。
十七歳の誕生日。 「リゼットの具合が悪くて」と届いた手紙。 一人きりの食卓に並んだ、二人分の料理。 蝋燭の火が最後まで揺れていたのを、今でも覚えている。
学院の卒業舞踏会。 エスコートの約束をしていた。 当日の朝になって「今日は行けない」と伝言が届いた。 会場の隅で一人立ち尽くしたセシリアに、周囲は同情と好奇の視線を注いだ。
去年の秋の園遊会。 一昨年の春の茶会。 その前の、その前の、その前の約束。
全部、同じだった。 いつもリゼットが倒れた。 いつもギルベルトは走っていった。 いつもセシリアは一人で残された。
周囲には「理解のある婚約者」として微笑んでみせた。 「お気になさらず」と何度言ったかわからない。 そう言うたびに、胸の奥の何かが薄く削れていくのを感じていた。
壁際に立つセシリアの傍らに、マルガレーテが静かに歩み寄った。
「お嬢様」
低く抑えた声だった。 十年仕えた侍女の目に、怒りの色がにじんでいる。
「――大丈夫よ、マルガレーテ」
セシリアは微笑んだ。 いつもの微笑みだった。 穏やかで、礼儀正しくて、何も壊さない笑顔。
でも今夜は、その笑顔を作る頬の筋肉が、ひどく重かった。
大広間の向こうで、若い令嬢たちが楽しげに笑っている。 セシリアと同じ年頃の娘たち。 婚約者と腕を組み、音楽に身を委ね、当たり前のように幸福を享受している。
当たり前のこと。 それが、セシリアにはずっと与えられなかった。
胸の底で、何かが音を立てた。 薄く、薄く削れ続けていたものが、ついに限界を迎えた音だった。
「マルガレーテ」
セシリアの声から、微笑みが消えた。
「外套を」
「……はい、お嬢様」
マルガレーテは一瞬だけ目を見開き、すぐに頷いた。
セシリアは大広間を出た。
廊下を早足で進む。 絹の靴が石畳を叩く音が、自分の心臓の音と重なった。
中庭に面した回廊を抜け、正面玄関の階段を下りたところで、その背中が見えた。
ギルベルトだった。
馬車に乗り込もうとしている。 従者が扉を開け、ギルベルトが片足をかけたところだった。
「ギルベルト」
声が出た。 敬称をつけなかった。 侯爵令嬢から伯爵家嫡男への呼びかけとして、それは正しい。 婚約中は対等に振る舞うことを許されていた。 でも今、セシリアの口からその名が出たのは、礼儀の計算ではなかった。
ギルベルトが振り返った。
「セシリア? どうしたの、こんなところまで――」
柔らかい声だった。 困ったような、申し訳なさそうな、いつもの表情。 いつもの優しい顔。 その優しさがセシリアに向けられたことは、三年間で一度もなかった。
「婚約を、破棄します」
夜気が冷たかった。 セシリアの声は震えなかった。
ギルベルトの目が見開かれた。 従者が息を呑む気配がした。 馬車の扉を持つ手が止まった。
「……え?」
「三年間、あなたとの約束はただの一度も守られませんでした」
セシリアは一歩も動かなかった。 背筋を伸ばし、正面からギルベルトを見据えた。
「誕生日も。卒業の舞踏会も。全て、あなたは来なかった」
ギルベルトの唇が開きかけ、閉じた。 また開いた。
「それは……リゼットの体調が――」
「存じております」
セシリアは遮った。 声は静かだった。 静かで、硬かった。
「いつもそうでした。いつもリゼット嬢が理由でした。あなたにとって、私との約束はその程度のものだった」
「そんなつもりは――」
「つもりがなくても、結果は同じです」
ギルベルトが口を閉じた。 数秒の沈黙が落ちた。 遠くから舞踏会の音楽が微かに聞こえていた。
やがてギルベルトは、困ったように笑った。
「……僕が悪かった。次はちゃんとするから」
その言葉を、セシリアは聞いたことがあった。 一度ではない。何度も。
「次はない、と申し上げています」
「セシリア、落ち着いて。君は強い人だろう? こんなことで――」
「こんなこと」
セシリアの声が、初めて低くなった。
「三年分の裏切りが、『こんなこと』ですか」
ギルベルトの笑顔が消えた。
セシリアの目に、涙はなかった。 泣くには、長すぎた。
「正式な手続きは、父を通じて進めます。ランツァー伯爵家にも通達が届くでしょう」
それだけ言って、セシリアは踵を返した。 マルガレーテが外套を差し出し、セシリアの肩にかけた。
背後でギルベルトが何か言いかけた気配があった。 セシリアは振り返らなかった。
馬車の中は暗く、静かだった。
窓の外を街灯の光が流れていく。 セシリアは膝の上で両手を重ね、じっと前を見つめていた。
マルガレーテが向かいの席に座り、何も言わなかった。 ただ、その目が赤く潤んでいた。
胸の中が空洞のようだった。 重荷を下ろした解放感と、底のない空虚が同時にあった。
――私は、大切にされる価値のない人間なのだろうか。
その問いが浮かんで、セシリアは唇を噛んだ。 三年間、ずっと蓋をしてきた問いだった。
ヴァイスフェルト侯爵邸に着いたのは、夜も更けてからだった。
書斎の扉を叩くと、父フリッツはまだ机に向かっていた。 羽根ペンを置き、眼鏡の奥からセシリアを見た。
「戻ったか。早いな」
「父上。お話がございます」
セシリアは書斎の中央に立ち、背筋を正した。
「ランツァー伯爵家嫡男ギルベルトとの婚約を、破棄したく存じます」
フリッツの表情は動かなかった。 数秒の間、父と娘は無言で向かい合った。
「……理由は」
「三年間、婚約者としての義務が果たされませんでした。約束の反故が常態化し、改善の見込みがありません」
声は事務的だった。 そうでなければ、保てなかった。
フリッツは椅子の背にもたれ、長い息を吐いた。
「知っていた」
低い声だった。
「お前が三年間、耐えていたことも。あの男が約束を守らなかったことも」
セシリアの指先が、かすかに震えた。
「……存じておりました、父上」
知っていて、待っていてくれた。 娘が自分で決断するのを。
フリッツが立ち上がった。 書棚から封蝋のついた書簡を一通取り出した。
「手続きは私が進める。侯爵家からの正式な破棄請求だ。伯爵家が異議を申し立てる余地はほぼない」
「ありがとうございます」
「それと、もう一つ」
フリッツは書簡を机に置いた。 ヴァイスフェルト家の家紋ではない封蝋が、蝋燭の光に照らされていた。
「辺境公爵レオンハルト・ヴェルクマイスター殿から、以前より書簡を頂いている。領地の内政に明るい者を派遣してほしいとの打診だ」
セシリアは顔を上げた。
「婚約破棄の噂は、遠からず王都に広まる」
フリッツの声は淡々としていた。 だがその目は、娘を見つめていた。
「噂が広まる前に、公爵家の公的な仕事に就いていれば、お前の社会的な立場は守られる。辺境公爵の内政助力者という肩書は、侯爵令嬢にとって不名誉なものではない」
政治の言葉だった。 けれどその奥にあるものを、セシリアは理解していた。
「お前の力を貸してやれ」
父の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「私の、力……」
セシリアは呟いた。 その言葉が、胸の空洞にかすかに響いた。
自分の力。 自分に何ができるのか、今はまだわからない。 でも、ここではない場所で、やり直せるかもしれない。
「――お受けいたします」
セシリアは頭を下げた。
その夜、自室に戻ったセシリアは、寝台に腰を下ろした。
マルガレーテが暖炉に薪をくべ、静かに退室した。
一人になった部屋で、セシリアはぼんやりと天井を見上げた。
不意に、頭の奥で何かがちらついた。
知らない部屋。白い光。四角い窓の向こうに、見たことのない街並み。 誰かが笑っている声。自分の手が、自分の知らない道具を持っている。 匂い。温かくて、懐かしくて、名前のわからない匂い。
映像は曖昧で、輪郭がぼやけていた。 掴もうとすると指の間からこぼれ落ちるように、すぐに薄れていく。
「……何」
セシリアは額に手を当てた。
夢ではなかった。 目は開いている。 だが確かに、今、自分のものではない記憶が頭をよぎった。
説明ができなかった。 疲れているのだろうかと思った。 でも、あの映像の中の感覚は、疲労が見せる幻とは違う確かさがあった。
窓の外に目を向けた。 月明かりが薄い雲に遮られ、庭園は暗く沈んでいた。
だがその暗闇の向こうに、夜が明ける気配がほんのわずかに感じられた。
明日から、すべてが変わる。
セシリアは窓に手を伸ばし、冷たい硝子に指先を触れた。 そこに映る自分の顔は、三年ぶりに、泣いていなかった。




