第2話「氷の公爵」
車輪が石を噛む音で、セシリアは目を覚ました。
馬車の窓から見える景色は、七日前に王都を発った頃とはまるで違っていた。 なだらかな丘陵地帯は消え、痩せた土地が灰色の空の下に広がっている。 木々はまばらで、吹きつける風に枝を傾けていた。 草は短く、土の色が目立つ。
「お嬢様、そろそろ到着かと」
向かいの席でマルガレーテが姿勢を正した。 七日間の馬車旅で、二人とも顔に疲れが滲んでいる。
セシリアは窓の外に目を戻した。
遠くに、石造りの城館が見えた。 華美な装飾はない。 厚い壁と、高い塔。 風雪に耐えることだけを考えて築かれたような、無骨な建物だった。
辺境公爵領。 ここが、これからの自分の居場所になる。
セシリアは膝の上で手を重ねた。 指先が冷えていた。 旅の疲れだけではなかった。
王都を発つ日、父フリッツは門まで見送りに出た。 「体に気をつけろ」とだけ言って、不器用に頷いた。 その顔を思い出すと、胸の奥がきゅっと締まる。
馬車がゆっくりと速度を落とした。 城館の正門が近づいてくる。 護衛騎士が馬車の横に並び、到着を告げた。
馬車が停まった。
扉が開かれ、セシリアは護衛騎士の手を借りて地面に降り立った。 冷たい風が頬を打った。 王都とは空気の質がまるで違う。 乾いていて、硬い。
正門の前に、数人の人影が並んでいた。
その中央に立つ男が、一歩も動かなかった。
長身だった。 濃い灰色の外套を纏い、背筋を伸ばして立っている。 黒に近い暗褐色の髪。 切れ長の目は、冬の湖面のように静かで、温度が読めない。
レオンハルト・ヴェルクマイスター。 辺境公爵。 社交界で「氷の公爵」と呼ばれる人物。
セシリアはその場で深く一礼した。 裾を軽く摘まみ、侯爵令嬢としての正式な礼を取る。
「ヴァイスフェルト侯爵家長女、セシリアと申します。この度は受け入れてくださり、心より感謝申し上げます、レオンハルト様」
レオンハルトは無言のまま、わずかに顎を引いた。 数秒の沈黙があった。
「フリッツ侯爵の推薦であれば、断る理由はない」
低く、簡潔な声だった。 歓迎の言葉はない。社交辞令もない。 事実だけが、短く置かれた。
レオンハルトの視線がセシリアの上を一瞬だけ走り、すぐに逸れた。 品定めというより、確認に近い動きだった。
「長旅で疲れているだろう。部屋に案内させる。明日、領地を案内する。朝は早い」
それだけ言って、レオンハルトは踵を返した。 外套の裾が風に翻る。 従者たちが慌てて後を追った。
セシリアはその背中を見つめた。
マルガレーテが隣に寄り、小さな声で囁いた。
「……あの方は、冷たすぎます」
セシリアは苦笑した。
「冷たいかどうかは、まだわかりません」
そう答えながら、胸の奥で不安が波立つのを感じていた。 あの人のもとで、自分に何ができるのだろう。
案内された部屋は、質素だが清潔だった。
石壁に小さな窓。 簡素な寝台と、暖炉。 王都の侯爵邸とは比べるべくもない。 だが、暖炉にはすでに火が入れられ、寝台の毛布は厚手のものが重ねられていた。
「必要なものがあれば申し出ろ、との公爵様からのお言葉です」
案内の使用人はそう告げて退室した。
マルガレーテが荷解きを始めながら、窓の外を見た。
「本当に……何もない土地ですね」
窓から見える風景は、広大な荒野と、遠くに連なる山並みだけだった。 畑はわずかに見えるが、作物が育っている様子は心もとない。
セシリアも窓辺に立った。
王都の華やかな街並みとは正反対だった。 だが不思議と、嫌な気持ちはしなかった。 むしろ、ここには嘘がない、と感じた。
取り繕う必要のない場所。 社交の仮面を被らなくていい場所。
その安堵が本物かどうかは、まだわからない。
セシリアは窓から離れ、旅装を解き始めた。 明日は早いと言われた。 ならば、今夜は休まなければならない。
翌朝、セシリアが身支度を整えて部屋を出ると、廊下にレオンハルトが立っていた。
セシリアは足を止めた。
約束の時刻ちょうどだった。 一分の遅れもない。
胸の奥で、何かが小さく跳ねた。 セシリアは無意識に胸元に手を当てた。
驚いただけだ。 そう自分に言い聞かせた。
「……おはようございます、レオンハルト様」
「馬車を用意させた。行くぞ」
それだけだった。 レオンハルトは長い廊下を歩き始め、セシリアはその後に続いた。 護衛の近衛が二人、無言でレオンハルトの背後についた。 マルガレーテがセシリアの隣を歩く。
馬車に乗り込むと、レオンハルトは向かいの席で腕を組んだ。
「領地の概要を話す」
前置きなく、簡潔な言葉が始まった。
寒冷地で作物が育ちにくいこと。 冬季の食料保存が常に課題であること。 特産品と呼べるものがなく、交易路の整備も遅れていること。 国境防衛のための兵は維持しているが、財政は厳しいこと。
一つ一つが、重い事実だった。
「……フリッツ侯爵には以前から、内政に明るい人材の派遣を頼んでいた」
レオンハルトの目が、車窓の外を向いたまま言った。
「軍事は俺の領分だ。だが経済と商業は別だ。足りないものは補う。合理的な判断だ」
合理的。 その言葉が、この人の口癖なのかもしれないとセシリアは思った。
馬車が村に着いた。
レオンハルトが先に降り、セシリアが続いた。
村は小さかった。 木造の家々が身を寄せ合うように並んでいる。 道は未舗装で、ところどころ水溜まりが残っていた。
だが、レオンハルトの姿を見た村人たちの顔が変わった。
緊張ではなかった。 安堵だった。
老人が頭を下げ、子供が駆け寄ってくる。 レオンハルトは子供の頭に無造作に手を置き、何も言わずに歩き続けた。
慕われている。
セシリアにはそれがわかった。
村の奥で、数人の女たちが何かを干していた。 近づくと、それは薄く切った肉だった。 風に晒して乾かしているようだが、端のほうはすでに黒ずみ、異臭を放っていた。
「冬が来る前に保存しなきゃなんないけど、半分は腐っちまうんだ」
年嵩の女が、諦めたような顔で言った。
セシリアは膝を折り、女と同じ目線に腰を落とした。
「いつ頃から干しているのですか」
「三日前だよ。でもこの時期は湿気が多くてねえ」
女はセシリアが膝を折ったことに一瞬驚いた顔をした。 侯爵令嬢が地面に膝をつくことは、普通はない。 だが女はすぐに表情を緩め、困りごとを話し始めた。
セシリアは頷きながら聞いた。 乾燥だけでは追いつかない。湿気が多く、気温が安定しない。 肉も魚も、冬を越せるだけの保存ができない。
その時だった。
頭の奥で、何かがちらついた。
煙。 煙に包まれた魚。 茶色く色づいた肉の表面。 塩をまぶした白い結晶。
前の晩、王都を発つ前の夜に感じたのと同じ感覚だった。 自分のものではない記憶の断片。 映像は曖昧で、手を伸ばすと霧のように散る。
けれど今は、あの夜よりも少しだけ輪郭がはっきりしていた。 煙で、肉を。 塩で、魚を。 それが何を意味するのか、まだ言葉にならない。 けれど、胸の底で「知っている」という感覚が微かに脈打っていた。
「……お嬢様?」
マルガレーテの声で、セシリアは我に返った。
「いえ、何でもありません」
セシリアは立ち上がり、女に「ありがとうございます」と頭を下げた。
ふと顔を上げると、少し離れた場所にレオンハルトが立っていた。
腕を組み、何も言わず、こちらを見ていた。
その目には、何の感情も読み取れなかった。 けれど、セシリアが村人に膝を折って話を聞いていた時間、この人はずっとそこに立っていた。
黙って、見ていた。
セシリアはその視線から目を逸らし、馬車へ向かった。
胸の奥で、あの記憶の断片がまだ微かにちらついていた。 煙と、塩。 何かが繋がりかけている。 まだ掴めない。 だが確かに、自分の中に何かがある。
馬車の窓から、灰色の空を見上げた。 荒野の向こうに、薄い光が差していた。
この場所で、自分に何ができるのか。 まだわからない。 でも、あの村人の顔を見て、あの記憶の断片に触れて、胸の奥に灯ったものがあった。
それが何なのか、まだ名前をつけられない。 ただ、不安だけではない何かが、確かにそこにあった。




