第21話:検地帳の真実
第21話:検地帳の真実
永禄四年十月上旬の河内平野は、見渡す限りの黄金色の波に覆われていた。
生駒山地の山裾から生駒川や寝屋川の清流に沿って広がる一面の田畑には、たわわに実った稲穂が首を垂れ、澄み切った秋空の下で、爽やかな秋風が吹くたびにザザァと心地よい音を立てて波打っていた。赤トンボの群れが黄金色の稲穂の上を気持ちよさそうに飛び交い、遠くの村々からは稲刈りに励む農民たちの威勢の良い掛け歌が届いていた。
悠真は、中堅奉行の塩田とともに、二の丸から貸与された馬の手綱を引きながら、河内国交野郡の農村へと続く舗装された街道を進んでいた。
二人の護衛として長槍を肩に担ぎ、鼻歌を歌いながら歩いていたのは、さきに飯盛山の北の山道で悠真を捕らえ、泥の中に引きずり倒したあの足軽の与作であった。
「いやあ、天野の旦那! まさかあの時、ドロドロになって泣いていた旦那が、いまや二の丸で岩成様や塩田の頭から重宝される『お奉行様』になるとは、おいら夢にも思わなかったぜ!」
与作が粗野な笑顔を見せ、白い歯を覗かせて大声で笑った。
与作の身なりは、さきに捕縛された頃の汚れ果てた姿とは一変していた。
三好家から支給された新しい木綿の小袖を纏い、足元には頑丈な新しい草鞋を履き、腰には給金で購入したという上質な煙草入れを差していた。
悠真は苦笑しながら、並んで歩く与作に視線を向けた。
「与作さん、あの節はお世話になりました。あの時、与作さんに捕まえてもらっていなかったら、僕は今頃山の中で野放しになって餓死していたかもしれません」
「ガハハ! 旦那は人がいいな! あんときはおいらも、南蛮の妖術師か細川の隠密かと思って必死だったんだ! ……けどよ、旦那が二の丸に入ってから、おいらたち足軽の米の手当てが一度も滞らなくなったんだ。二の丸の帳面が正しくなったおかげだって、みんな感謝してるんだぜ」
与作はそう言うと、街道の脇に広がる黄金色の田畑を誇らしげに見渡した。
「見なよ、旦那。この交野の田んぼを。昔、細川や畠山が暴れていた頃はな、秋の収穫前になると武士どもが押しかけてきて、実った稲を勝手に刈り取っていく『青刈り』ってやつをやられちまってな。百姓もおいらたち足軽も、冬になると干した藁しか食うものがなかったんだ。……けど、筑前様(長慶)が飯盛山にお入りになってからは、そんな無体な掠奪は一一切禁止だ。年貢の分量もきちんと帳面で決めてくれるから、百姓たちも安心して汗を流せるんだよ」
与作の言葉は、歴史の教科書が語らない、民衆の側から見た「三好長慶の政治」の真実であった。
三好政権が畿内九ヶ国で支持された最大の理由は、過酷な軍功を競う合戦ではなく、武士による不当な掠奪や押領を厳しく罰し、治安と経済の秩序を維持したことにあった。
悠真は、自らの抱える検地用の文箱の重みを確かめながら、長慶という天下人がこの地に根付かせた平和の深さを、肌で感じ取っていた。
昼前、一団は交野郡の要である「津田村」の庄屋(村の長老)の屋敷前に到着した。
屋敷の前の広場には、検地のための木杭が打たれ、村の長老や農民たちが、緊張した面持ちで悠真たちをお辞儀で出迎えた。
今回の出張の目的は、今年度の新領地における「秋の検地(土地調査)」と、収穫量に応じた「作徳米(年貢米)」の最終査定であった。
塩田が文箱から大きな手漉き和紙の『交野郡旧検地帳』を取り出し、広場の文机の上に広げた。
「庄屋殿、長老殿。筑前様のご意向により、本年の検地を執り行う。我が三好家のお裁きは、過去の領主のような誤魔化しや強弁は一切許さぬ。すべてはこの間縄と算術の数字によって、公平に相定める」
塩田の宣言に、村の長老は「ははっ……何卒、手加減のほどを……」と平伏した。
検地が始まった。
与作ら足軽たちが、竹で編まれた一定の長さを持つ「間縄」を引っ張り、田畑の縦横の長さを正確に計測していく。
悠真は塩田の脇に座り、計測された数値を自らの控えノートに素早くアラビア数字で書き込んでいった。
当時の従来の検地は、領主側の奉行が目測と歩数で適当に計算(目検)し、実際の面積よりも広く見積もって年貢を過剰に跳ね上げるという、不当な搾取が横行していた。
しかし、悠真と塩田の行う検地は違っていた。
悠真は和紙の上に田畑の形状を三角形や四角形に分割した図面を描き、現代の面積計算式を当てはめて、一坪の誤差もなく正確な上田・中田・下田の面積を弾き出した。
「一番の田、上田。横十五間、縦十二間。面積二反一畝二十歩」
「二番の田、下田。川沿いの粘土質につき、実りは二割落ち。下田として計算」
悠真が即座に弾き出す正確な数値と、土地の質に応じた合理的な等級分けに、立ち会っていた村の長老と庄屋は目を丸くした。
その時、村の長老が、震える手で一通の古びた和紙の請願書を塩田の前に差し出した。
「お奉行様……恐れながら、この三番の田でございますが……今年の八月の猛暑により、近くの用水路が干上がり、米のノギが立ち申さず、実りが平年の半分以下となっております。どうか……どうか作徳米の減免をご考慮賜りたく存じます……」
長老の額が、擦り剥けそうなほど土に押し付けられた。村の農民たちも、生きた心地のしない表情で息をのんで奉行たちの裁定を待っていた。過去の領主であれば、「知ったことか、決められた年貢を払わねば村を焼き払う」と突っぱねられるのが常だったからだ。
塩田は悠真を見た。
悠真は即座に、長慶がさきに制定した『三好家作徳規定・免税条項』の控えをめくった。
そこには、長慶自らの筆跡でこう明記されていた。
『日照り、洪水、害虫により、収穫が三割以上減少したる田畑においては、代官・奉行が現地を検分し、被害の度合いに応じて年貢を免除または割引すべし。民を干上がらせるは、領主の恥なり』
悠真は干上がった田んぼの稲穂を直接手に取り、籾を割って中の実の詰まり具合を自分の目で確認した。
悠真は塩田に向かって頷いた。
「塩田様。こちらの田は、確かに日照りにより四割近く実りが落ちております。長慶様の規定に基づき、今年の作徳米を三割削減し、来年の用水路改修のための材木手形を給付すべきと存じます」
塩田は力強く頷き、検地帳に大きく朱筆で『三割免除・用木給付』と書き込んだ。
その瞬間、広場に静寂が訪れ、直後に村の農民たちから地鳴りのような歓声と泣き声が湧き起こった。
「お……お奉行様! ありがたや! ありがたや!」
長老と庄屋は涙をポロポロと流しながら、何度も何度も土下座を繰り返した。
「三好様のお裁きは、誠に仏のごとくでございます! 以前の細川様の代官は、干ばつだろうと容赦なく米を奪っていきました! これで……これで今年の冬も、子供たちに暖かい粥を食わせてやることができます!」
検地が終わる頃には、秋の陽光が優しく傾き始めていた。
庄屋の母屋の庭先に、大きな木製の三宝が運ばれてきた。
そこには、今日収穫されたばかりの今秋の初米を、村の女たちが炊き上げた、握り飯が山のように盛られていた。
湯気がホカホカと立ち上り、新米特有の甘い芳しい香りが秋の空気に広がっていた。
「お奉行様、与作様! 粗末なものでございますが、村の感謝の印でございます! どうかお召し上がりくだされ!」
庄屋が恭しく差し出した握り飯は、悠真の拳ほどもある巨大なもので、表面には大粒の粗塩が塗られていた。
悠真と塩田、そして与作は、庭先の丸太に腰掛け、握り飯を手に取った。
熱々の握り飯を、ガブリと口一杯に頬張る。
「……っ!」
悠真の口の中に、溢れんばかりの新米のみずみずしい甘みと、強い塩気が広がった。
現代の最高級のブランド米をも遥かに凌駕する、土地と水と、人々の汗が凝縮された圧倒的な「生の味」であった。
与作は二つ目の握り飯を豪快に口に押し込み、頬を膨らませながら大声で笑った。
「うめえ! たまらん美味さだ!……なあ旦那、筑前様(長慶)の世になってからよ、おいらたち足軽も、百姓も、こうして腹一杯新米の飯が食えるようになったんだ。戦も無体な駆り出しはねえし、お裁きは正しい。……これが……この平和が、ずっと続けばいいんだがな」
与作の何気ない一言が、悠真の胸の深くに染み渡っていった。
悠真は握り飯を噛み締めながら、遠く黄金色に光る河内平野を見つめた。
歴史の教科書では、天下人といえば将軍を倒し、敵の首を斬り、豪華な城を建てた者ばかりが持て囃される。
しかし、三好長慶という男が作ろうとした「天下」の真価は、ここにあったのだ。
武力で威張るのではなく、正確なデータと公正なお裁きによって民の生活を守り、こうした名もなき農民や足軽たちが、秋の陽光の下で腹一杯新米の飯を食える「日常の平和」を作り上げること。
それこそが、三好長慶という男が人生と命を削って追い求めた、本当の天下の姿だったのだ。
(長慶様……あんたの作ったこの国は、こんなにも温かいんだ)
悠真の目から、溢れ出た一滴の涙が、手に持った握り飯の上にぽたりと落ちた。
歴史から消された天下。忘れ去られた時代。
しかし、今自分の口の中にあるこの新米の味も、与作の笑顔も、農民たちの涙も、決して無価値な幻などではなかった。四百年前のこの地に、確かに存在した美しき生の現実だった。
悠真は涙を拭い、残りの握り飯を力強く噛み締めた。
黄金色の稲穂を渡る秋風が、悠真の頬を優しく撫でて吹き抜けていった。この温かな生の記憶を、絶対に未来へ残すのだという誓いが、悠真の胸の中でどこまでも強く、確かなものとして固まっていた。




