第20話:武士の風流
第20話:武士の風流
永禄四年九月中旬の和泉国は、どこまでも澄み渡る秋晴れの澄んだ青空に包まれていた。
南から吹き寄せる大阪湾の爽やかな塩気を含んだ海風が、街道沿いにどこまでも広がる田畑の稲穂を黄金色に波打たせ、和泉山脈の山裾から立ち上る新米を炊く香ばしい木煙の匂いが、秋の深まりを告げていた。
悠真は、信貴山城から二の丸へと戻った後、岩成友通から直接手渡された太い革袋を肩にかけ、和泉国岸和田城の南に位置する春木の地を目指して街道を進んでいた。
革袋の中には、和泉国における秋の作徳米(年貢米)の割り当て目録、堺の港から岸和田城下へ至る関銭の免除手形、そして紀伊国境の守備にあたる武士たちへの冬用兵糧および被服の支給調書がぎっしりと納められていた。
三好政権において、和泉国は単なる一地方ではなかった。
紀伊の畠山勢や高野山の僧兵に対する防波堤であり、同時に堺と阿波・淡路を結ぶ海上・陸上物流の要衝であった。
その重要拠点を治めていたのが、当主・三好長慶の次弟であり、和泉守護代を務める三好豊前守実休(みよしぶぜんのかみじっきゅう/義賢)であった。
春木の別邸へと続く松林の街道を抜けると、そこに広がっていたのは、合戦の陣所特有の殺伐とした雰囲気とは完全に隔離された、一筋の美しい風流の空間であった。
敷地の周囲には素木の板塀が整然と巡らされ、門前には清らかな井戸水が打ち撒かれて、秋の陽光を受けて黒く湿っていた。
門を守る警護の武士たちも、二の丸の奉行衆のように質素でありながら隙のない身なりをし、悠真の手形を確認すると恭しく門を開いた。
門をくぐり、庭園へと一歩足を踏み入れた瞬間、悠真の鼻腔を突いたのは、庭のあちこちに群生する金木犀の甘い香りと、濡れた苔のしっとりとした匂いであった。
庭園には、赤や白、紫の秋桜や桔梗の花が咲き乱れ、白い玉砂利が美しく敷き詰められていた。奥の竹林からは、細い竹樋を伝って岩に注ぐ水の「カコン」という清々しい音が、秋の静寂の中に響き渡っていた。
庭園の奥、数寄屋造りの小さな茶室の縁側に、一人の男が膝を崩して座っていた。
男は小袖の袖を捲り上げ、膝の上に置かれた和紙の短冊に、集中した面持ちで細筆を走らせていた。
三好実休であった。
「おお! 二の丸からの使者か! 天野殿とおっしゃったな! よくぞ和泉まで出張られた!」
悠真の足音に気づいた実休が顔を上げると、まるで腹の底から響くような雷の如き大声で笑い、太い手を叩いて悠真を呼び寄せた。
三十代後半の三好実休は、長慶の兄弟たちの中で最も骨太で、恵まれた体格をしていた。
日焼けした浅黒い肌、太い首筋、そして口の周りを覆う豊かで整えられた黒髭は、根っからの軍人・猛将であることを雄弁に物語っていた。しかし、その顔立ちの奥にある瞳は、驚くほど澄み切り、相手を包み込むような温かい知性と優しさに満ちあふれていた。
「さあさあ、遠路遥々苦労であった! 立ち話も何だ、この茶室へ上がられよ!」
実休は文机の上の短冊を大切そうに収めると、大きな身体を揺らして悠真を茶室へと招き入れた。
四畳半の小さな畳が敷かれた茶室の中は、静謐な気が満ちていた。
床の間には、和歌が一幅掛けられ、青磁の小ぶりな花瓶に野の秋草が一枝、繊細な生け方で生けられていた。
実休は自ら素焼きの炉の前に膝を折り、炭を足して鉄釜のお湯を沸かし始めた。
実休の茶を立てる所作を横から見つめながら、悠真はその手つきの滑らかさに深く息を呑んだ。
実休の太い指先が、竹の茶匙を繊細に扱い、抹茶をすくって黒楽茶碗へと落とし込む。そして、竹の茶筅を手に取り、手首の滑らかな回転でお湯を泡立てていく。
シュシュシュ、シュシュシュ。
茶筅が陶器の側面を擦る心地よい連続音が、秋の静寂の中に流れていく。
武功を誇る猛将の姿と、一幅の絵画のように美しい茶の湯の動作の同居。
当時の三好実休は、武野紹鴎に師事し、名物茶器「紹鴎茄子」をはじめとする第一級の唐物茶器を収集する、天下屈指の大茶人・文化人としてもその名を響かせていたのだ。
「天野殿。まずは一服、召し上がられよ。二の丸での連日の帳面付け、お疲れであったろう」
実休は点て終えた黒楽茶碗を、茶室の作法に則って丁寧な手つきで悠真の前へと差し出した。
悠真は両手で茶碗を受け取り、一礼して茶を口に含んだ。
口の中に広がる、濃厚な抹茶の深い苦み。そして、その苦みの奥からじわじわと込み上げてくる、豊かな甘みと芳醇な香りが、長旅で凝り固まっていた悠真の身体を芯から解きほぐしていった。
実休は笑顔で、干し柿と栗を練り固めた素朴な和菓子を小皿に載せて押し滑らせた。
「お見事なお茶でございます、豊前守(実休)様。……お心遣い、深く感謝いたします」
「かか! 硬苦しい礼はいらんよ! わしはな、兄上(長慶)のように難しい顔をして、朝から夜まで帳面に向かうのはどうにも苦手でな。こうして茶を点て、庭の草木を愛で、和歌を詠むことだけが至福の時なのだよ」
実休は大声で笑い、自らも茶を点てて美味そうに飲み乾した。
実休は茶布で丁寧に茶碗を拭きながら、庭の秋草に視線を落とし、穏やかな声音で語り始めた。
「天野殿。……兄上は、飯盛山でお元気でおられるか?」
「はっ。筑前様は毎日朝一番から深夜まで、各地からの注進状と主帳面に向かわれております。お身体を休める暇もおなく……」
「そうか。……相変わらずだな、あの人は」
実休の瞳に、深い愛惜と、心の底からの尊敬の色が浮かび上がった。
「天野殿。兄上はお厳しいお人に見えるであろう。無口で、怒鳴らず、笑わず、家臣にも容赦のない命を下される。……だがな、あの人は誰よりも心優しいお人なのだよ。……優しすぎるがゆえに、己の感情をすべて殺し、国を止めまいと一人で莫大な重荷を背負っておられるのだ」
実休は自らの太い指先を愛おしそうに見つめた。
「わしら兄弟の役目はな、あの優しい兄上を、合戦の泥と血から守ることだ。さきに急死した一存(十河一存)が讃岐を守り、冬康(安宅冬康)が海を固め、わしが和泉と紀伊の敵を打ち払う。……わしらが表で槍を振るうからこそ、兄上は飯盛山で安心して帳面を開くことができる。わしはな、あの兄上の弟であることを、心から誇りに思っているのだよ」
実休の言葉が、悠真の胸の奥底を激しく打ち揺さぶった。
一存の急死という巨星の落日に続き、この三好実休という男もまた、兄・長慶のために己の全人生と命を捧げる覚悟を固めていたのだ。
三好家という政権の強さの本質が、ここにあった。
他家を打倒して天下を奪うという不毛な野望ではなく、長慶という「誠実な長男」を中心に結ばれた、圧倒的な兄弟の絆と、完璧な仕事共同体。
実休は文机の上から、さきほど書いていた和紙の短冊を取り出し、悠真の手元へと手渡した。
『草枯れし 野辺の秋風 吹き過ぎて 心に残る 月のかげかな』
そこには、荒々しい武将の書いたものとは思えないほど繊細で、秋の静寂と人生の儚さを詠み込んだ美しき和歌が、流麗な墨致で記されていた。
実休は短冊を見つめる悠真に向かって、静かに、しかし力強い声で語りかけた。
「天野殿。世の者は、わしら三好の家を『将軍を追い払った野心家』『合戦で領地を奪い合う武者』と呼ぶ。……だがな、わしらは人を殺すために刀を握っているのではないのだ。……合戦は命を奪うが、茶と歌は命を養い、人の心を繋ぐ。わしらが命がけで守りたいのは、こうして穏やかに茶を飲み、和歌を詠み合える、平和な世そのものなのだよ」
悠真の手が、激しく震えた。
短冊の手漉き和紙の手触りが、指先に伝わってくる。
悠真の脳裏に、冷酷な「確定した史実」の記憶が、怒涛の如く襲いかかってきた。
(半年後……永禄五年三月五日……)
悠真の視界が、溢れ出る涙によって激しく滲み始めた。
目の前にいる、この歌を愛し、茶を点て、兄を誇りに思い、平和を心から望む温かい男。
半年後の春、紀伊の畠山高政が数万の大軍を率いて攻め寄せてきたとき、この実休は和泉・久米田の地で迎撃の陣を張り、敵の鉄砲隊の乱射を正面から浴びて、三十六歳の若さで壮絶な討死を遂げるのだ。
歴史の教科書や史料集の上に書かれた「三好実休・久米田にて討死」という、たった一行の冷たい無機質な文字。
それが今、目の前で温かい茶を差し出し、笑顔で和歌の心を語る、かけがえのない「生きている人間」として存在している。
救いたい。
この男を死なせたくない。この温かい笑顔を、この風流な心を、久米田の泥と血の中で失わせたくない。
悠真の胸の中で、歴史への「介入」という激しい衝動と、世界修正力の恐怖との葛藤が、狂おしいほどに渦巻き始めていた。
「天野殿? どうされた、顔色が真っ白だが……茶が苦すぎたか?」
実休が心配そうに身を乗り出し、悠真の顔を覗き込んだ。
悠真は必死で目頭の熱さをこらえ、畳の上に深く深く頭をこすりつけた。
「い、いえ……! あまりにも素晴らしい和歌とお茶でしたので……胸が熱くなりました」
実休は大声で笑い、悠真の肩をドシリと力強く叩いた。
「かか! 大袈裟だな、天野殿は! ……だが、そなたのように我が歌と茶を理解してくれる者が二の丸にいてくれるのは嬉しいぞ。次に飯盛山へ戻ったら、また一緒に茶を飲もうではないか!」
実休の太い手の温もりが、悠真の肩を通して全身に広がっていった。
補給手形の受け渡しを終え、別邸を出ると、和泉の山々に茜色の美しい夕陽が沈みかけていた。
赤く染まる秋空の下、コスモスの花が秋風にそよぎ、遠く岸和田城の櫓が美しい黒いシルエットを描いていた。
実休は茶室の縁側に立ち、去っていく悠真に向かって、大きく手を振っていた。
その豪快で、温かく、気高い姿が、夕陽の光の中にどこまでも優しく浮かび上がっていた。
悠真は街道を歩きながら、胸のポケットに収めた短冊の手触りを強く確かめ、溢れ出る涙を指先で拭った。
(歴史がこの人を消そうとしても……僕は絶対に忘れない。三好実休という男が、どれほど素晴らしい仕事人であり、風流人であったかを……僕が未来へ証明してみせる)
秋風が、悠真の頬を冷たく撫でて吹き抜けていった。
迫り来る半年後の大激戦「久米田の戦い」の暗雲が、夕暮れの空の向こうから、静かに、そして確実に和泉の地に忍び寄り始めていた。




